1900年12月14日、ベルリンのドイツ物理学会で、マックス・プランクは黒体放射に関する新しい法則を発表しました。
物理学古典論文叢書(全12巻揃)←日本語ではこちらの文献にて内容を読むことができるらしいです。。。
この日の講演で示された数式は、後に量子論の出発点として位置づけられることになりますが、プランク自身にとっては、あくまで厄介な実験データを説明するための、やや不本意な数学的工夫に過ぎませんでした。
黒体放射が抱えていた問題
19世紀末の物理学は、ある難問に直面していました。高温の物体が放射する光のスペクトル分布、いわゆる黒体放射の問題です。当時の古典物理学の理論では、短波長側で放射エネルギーが無限大に発散してしまうという、「紫外破綻」と呼ばれる深刻な矛盾が生じていたのです。
実験データは明確でした。高温の物体は特定の波長で最も強く光を放射し、その前後の波長では放射が弱まります。しかし、電磁気学と熱力学を組み合わせた当時の理論計算は、この観測事実をどうしても説明できませんでした。ヴィルヘルム・ヴィーンの法則は短波長側を、レイリー・ジーンズの法則は長波長側をそれぞれうまく説明できましたが、全波長域にわたって成立する統一的な法則は存在しなかったのです。
ベルリン大学の理論物理学教授だったプランクは、この問題に数年間取り組んでいました。彼の同僚たちは、ベルリンの物理工学研究所で精密な黒体放射の測定を行っており、プランクはそのデータと格闘する日々を送っていたのです。
数学的な方便
プランクは、実験データに合う数式を見つけ出すために、ある大胆な仮定を導入しました。それは、エネルギーが連続的ではなく、ある最小単位の整数倍でしか存在しないという考え方です。エネルギーの最小単位を E = hν(h:プランク定数、ν:振動数)と置くことで、実験データと完璧に一致する放射則を導き出すことに成功しました。
ただし、プランク自身はこの「エネルギーの量子化」を物理的実在とは考えていませんでした。むしろ、計算を進めるための数学的なトリックであり、いずれは古典物理学の枠組みの中で説明できるはずだと信じていたのです。実際、プランクはその後何年もかけて、この量子化という仮定を使わずに同じ結果を導こうと試みています。彼にとって、この仮定は「絶望の行為」とも言える、最後の手段だったのです。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/butsuri1946/55/10/55_10_751/_article/-char/ja
(高田誠二 「プランク量子論100年」 日本物理学会会誌)
この資料ではプランクという理論物理学者がどのような存在だったのかを科学史的な観点から語られています。その当時はそもそも「量子力学」という枠組みはなかったため、彼は熱力学の研究の中でプランクの量子化が生まれたというのは興味深いですね)
予想外の反響
ところが1905年、アルベルト・アインシュタインが光量子仮説を提唱します。光電効果を説明するために、アインシュタインは光そのものが粒子(光量子)として振る舞うという、プランクの考えをさらに推し進めた理論を打ち出したのです。
プランクにとって、これは受け入れがたい主張でした。自分が数学的便宜として導入した概念が、物理的実在として扱われることに強い抵抗を感じたのです。1913年、プランクはアインシュタインをベルリンの教授職に推薦する際の推薦状で、「アインシュタインは光量子仮説という誤った考えに固執しているが、それを差し引いても彼は優れた物理学者である」という趣旨のことを書いています。量子論の創始者とされる人物が、量子そのものの実在性を否定していたというのは、何とも皮肉な話です。
その後、ボーアの原子模型、ハイゼンベルクやシュレーディンガーによる量子力学の確立と、物理学は急速に量子の世界へと進んでいきます。プランクは、自分が開けてしまった扉の向こうに広がる新しい物理学に、最後まで完全には馴染めませんでした。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/htsj1999/44/186/44_186_46/_pdf
(こちらの文献にもあるように、プランクは身内以外に自分の研究はかなり控えめに言っていたり、定数にも「プランク定数」なんて名前もつけていなかったっぽいですね。
困難な時代
プランクのその後の人生は、決して平坦なものではありませんでした。第一次世界大戦では次男カールを失い、双子の娘たちも相次いで亡くなります。しかし最も過酷だったのは、ナチス政権下での経験でした。
1930年から1937年まで、プランクはカイザー・ヴィルヘルム協会の会長を務めていました。ユダヤ系の科学者たちが次々と追放される中、プランクは可能な限り彼らを守ろうとしましたが、できることには限界がありました。1933年、プランクはヒトラーと直接面会し、ユダヤ人科学者の追放政策について抗議しましたが、ヒトラーは聞く耳を持ちませんでした。
それでもプランクはドイツに留まり続けました。多くの科学者が国外に逃れる中、彼は「自分が去れば、残された人々の状況がさらに悪化する」と考えたのです。1944年には、ヒトラー暗殺未遂事件に関与したとして末息子エルヴィンが処刑されるという、想像を絶する悲劇に見舞われます。このとき、プランクはすでに86歳でした。
戦争末期、ベルリンの自宅は空襲で破壊され、プランクは疎開を余儀なくされます。彼の蔵書や研究資料の多くが失われました。戦後、連合国軍に保護されたプランクは、ゲッティンゲンに移り住みます。
そして驚くべきことに、この高齢の物理学者は、まだ活動を続けたのです。1946年、88歳のプランクは、ロンドンの王立協会からニュートン生誕300周年記念式典への招待を受けます。戦争直後のドイツから、かつての敵国イギリスへの旅は容易ではありませんでしたが、プランクは単身渡英し、式典に出席しました。廃墟と化した祖国から、一人で海を渡った老科学者の姿は、科学が国境や政治を超えた営みであることを象徴していたのかもしれません。
ロンドンでプランクは、イギリスの科学者たちから温かく迎えられました。戦争の傷跡がまだ生々しい時期でしたが、科学者のコミュニティは、一人の偉大な物理学者を敬意を持って遇したのです。この旅は、プランクにとって人生最後の大きな旅となりました。
1947年10月4日、マックス・プランクは89歳でゲッティンゲンで亡くなります。翌1948年、カイザー・ヴィルヘルム協会は彼の功績を讃えてマックス・プランク協会と改称されました。現在、この組織はドイツ最大の研究機関として、86の研究所を擁し、プランクの名を冠して活動を続けています。
https://www.mpg.de/en(マックスプランク研究所HP)
知識がどう役に立つかってわからないよね。
プランクの量子仮説は、本人が想定もしなかった形で20世紀物理学の基礎となりました。量子力学、量子電磁気学、そして現代の半導体技術、レーザー、量子コンピューターに至るまで、その影響は計り知れません。
これは科学研究の本質的な特徴を示しているのかもしれません。ある問題を解決するために導入された概念が、全く別の文脈で重要な意味を持つことになる。研究者自身が「これは単なる数学的便宜だ」と考えていたものが、後世の人々によって深い物理的意味を見出される。発見者自身が、自分の発見の本当の意義を理解していないことさえあるのです。
知識や発見がどのような形で未来に影響を与えるかは、その時点では誰にも分かりません。プランクが黒体放射の実験データと格闘していた時、彼は現代のスマートフォンやコンピューターの動作原理を生み出しているとは夢にも思わなかったでしょう。それどころか、彼は自分の導入した概念を、できれば使わずに済ませたいとさえ考えていたのです。
科学の歴史は、そうした予想外の展開に満ちています。そして恐らく、今この瞬間にも、どこかの研究室で、誰かが「これは単なる計算上の工夫だ」と思っている何かが、数十年後の世界を変えることになるのかもしれません。































