〜世界初の料理番組から、生成AIによる「触覚生成」への進化論〜
1月21日:コンテンツの歴史が変わった日
1937年1月21日、英国放送協会(BBC)のスタジオで、あるフランス人シェフが卵を割った。
番組名は『Cook’s Night Out(夕べの料理)』。出演者のマルセル・ブールスタン(Marcel Boulestin)が、わずか15分間でオムレツの作り方を実演したこの瞬間、歴史上初めて「テレビ料理番組」が誕生した。
それまで「文字(レシピ本)」でしか伝わらなかった火加減や手つきが、「映像」として視覚化されたことは、知識伝達における革命だった。
あれから約90年。私たちは4K/8Kの高精細映像や、食材を焼く音を鮮明に伝えるASMR技術を手に入れた。しかし、画面の向こうの料理がいかに美味しそうでも、その「弾力」や「熱」、「味」までは物理的に伝わらない。
本稿では、視覚・聴覚にとどまっていたメディア技術が、生成AIによる「触覚(ハプティクス)」や「味覚・嗅覚」という未踏の領域へ踏み込みつつある現在地を、1月21日という記念すべき日から紐解いていく。
コラム:「おあずけ」の歴史とVisual Hunger
技術の話に入る前に、なぜ私たちはこれほどまでに料理番組やグルメ動画に惹かれるのか、その心理的背景を振り返っておきたい。
『世界の料理ショー』(1969年〜)の司会者グラハム・カーのパフォーマンスを覚えているだろうか。彼が完成した料理を観客に振る舞い、大袈裟に美味しがる様子を見て、視聴者は強烈な羨望を覚えた。また、日本でお馴染みの『キユーピー3分クッキング』(1963年〜)のテーマ曲や包丁の音は、条件反射的に空腹を呼び覚ます。
現代のInstagramやTikTokにおける「飯テロ(Food Porn)」動画も同様だ。ケンブリッジ大学の研究などが提唱する「Visual Hunger(視覚的空腹)」という概念がある。人間は高解像度の料理画像を見るだけで、脳の報酬系が刺激されるという。
つまり、私たちは画面から得られない「匂い」「味」「食感」を、脳内で高度にシミュレーション(想像)して補完することで楽しんできたのだ。これまでの料理コンテンツは、いわば視聴者の「想像力」に依存したエンターテインメントだったと言える。
しかし今、テクノロジーはこの「脳内補完」を「物理的な体験」へと置き換えようとしている。

「画像」を「手触り」に変える:触覚テクノロジーの飛躍
料理の美味しさを構成する要素において、実は味や匂い以上に重要なのが「食感(テクスチャ)」だ。オムレツのフワトロ感、揚げ物のサクサク感。これらをデジタルで伝えることは長年の課題だったが、生成AIの登場がブレイクスルーをもたらした。
その最前線にあるのが、電通ラボ東京が発表した「Fantouchie(ファンタッチー)」だ。
視覚から触覚を「生成」するイノベーション
従来、触覚を再現するには、専用センサーで対象物の振動を計測・記録する必要があった。しかし「Fantouchie」は、「画像データ」からAIが質感を推定し、振動(触覚)データを生成するという画期的なアプローチをとっている。
これは1937年のイノベーションと強烈にリンクする。なぜなら、1937年のアーカイブ映像や、インスタグラム上の写真といった「視覚情報」さえあれば、そこから事後的に「手触り」を復元できるからだ。
画面の中のオムレツに触れると、指先に「ふわっ」としたフィードバックが返ってくる——。視覚と触覚が同期した時、脳の錯覚はより強固な「体験」へと昇華される。
「味と匂い」のデジタル化:化学反応への挑戦
触覚に続き、「味覚」と「嗅覚」のデジタル化、いわゆる「Internet of Senses(五感のインターネット)」の研究も加速している。
味をRGBで合成する「TTTV」
明治大学の宮下芳明教授らが開発した「TTTV(Taste the TV)」は、ディスプレイ上の衛生フィルムに、味の基本要素(甘・酸・塩・苦・うま味など)をスプレーで噴射・混合することで、あらゆる味を再現する。色が「赤・緑・青(RGB)」の配合で表現できるように、味もデータとして合成・転送可能であることを証明した技術だ。
空間に香りを届ける「嗅覚ディスプレイ」
嗅覚においても、Aromajoin(アロマジョイン)などのスタートアップが、映像と同期して特定の範囲だけに香りを噴射する指向性技術を実用化している。これにより、画面の中のコーヒーから湯気と共に香りが漂う体験が可能になる。
五感が融合する未来:クロスモーダル効果と食の拡張
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。これらが統合されたとき、何が起きるのか。鍵となるのは「クロスモーダル(感覚間相互作用)」だ。
例えば、減塩の味気ない食事であっても、テクノロジーが以下のように介入する。
- 視覚: VRで「濃厚なソース」を見る。
- 聴覚: 「ジュワッ」というシズル音を聞く。
- 触覚: デバイスを通じて「脂質の重み」や「衣の食感」を感じる。
- 味覚: 「エレキソルト(電気味覚)」等の技術で塩味を増幅させる。
これらを組み合わせることで、脳を騙し、満足度の高い食事体験を提供できる。これはエンターテインメントだけでなく、糖尿病や高血圧患者のQOLを劇的に向上させる「ヘルスケア×フードテック」の切り札となり得るのだ。
100周年に向けた「試食」の未来
1937年、マルセル・ブールスタンは一方的に「見せる」ことしかできなかった。視聴者はブラウン管の前で、オムレツの味を想像するしかなかった。
しかし、放送開始100周年を迎える2037年にはどうなっているだろうか。
視聴者はスマートカトラリー(箸やフォーク型デバイス)を口に運び、配信者が食べている料理の「フワトロ感」や「香り」、そして「味」までもリアルタイムで同期体験しているかもしれない。
1月21日。それは人類が「食」を情報として扱い始めた日であり、今なお続く「感覚のデジタル化」という壮大な実験の初日でもある。
【Information】
Dentsu Lab Tokyo: Fantouchie
記事内で紹介した、テキストや画像から触り心地を生成するAIシステム「Fantouchie」の公式プロジェクトページ。技術デモの様子も確認できる。
明治大学 宮下芳明研究室
「TTTV(Taste the TV)」をはじめ、味覚メディアや新しいエンタテインメントコンピューティングを研究する研究室の公式サイト。
BBC History
1937年の『Cook’s Night Out』を放送した英国放送協会(BBC)の歴史アーカイブ。放送技術の進化の歴史を閲覧できる。










































