元ビートルズのポール・マッカートニーが、AI企業による著作権侵害に抗議する音楽業界のキャンペーンの一環として、ほぼ無音のトラックを録音した。
83歳のポールにとって5年ぶりの新録音となるこの作品は2分45秒で、静かなヒスノイズと時折のガタガタ音のみで構成される。トラックは2025年2月25日にリリースされた「Is This What We Want?」と題されたLPのB面にボーナストラックとして追加され、新版が今月後半にビニール盤でリリースされる予定だ。
このアルバムには他の無音録音も収められており、サム・フェンダー、ケイト・ブッシュ、ハンス・ジマー、ペット・ショップ・ボーイズなど1,000人以上のアーティストが参加している。
英国政府は現在、年間£125bnを経済に貢献するクリエイティブ産業と、£30bn以上の投資を発表した米国テクノロジー企業の利益のバランスを取ろうとしている。AIと著作権に関する新しい法制度は2026年以降に議会で審議される見込みだ。
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Paul McCartney joins music industry protest against AI with silent track
【編集部解説】
5年ぶりとなるポール・マッカートニーの新録音は、音楽ではありませんでした。2分45秒のトラックに収められているのは、静かなヒスノイズと時折のガタガタ音だけ。83歳の伝説的ソングライターが選んだこの表現方法は、AI企業による著作権侵害に対する音楽業界の危機感を象徴しています。
ポールのトラックは、2025年2月25日にリリースされた抗議アルバム「Is This What We Want?」にボーナストラックとして後から追加されました。元記事が報じた11月時点で、ポールの参加が発表され、新版が同月後半にビニール盤でリリースされる予定となっています。このアルバムには1,000人以上のアーティストが参加しており、ケイト・ブッシュ、サム・フェンダー、ハンス・ジマー、ペット・ショップ・ボーイズといった著名なアーティストたちが名を連ねています。12のトラックタイトルを繋げると「英国政府はAI企業を利するために音楽の盗用を合法化してはならない」というメッセージになる仕掛けです。
このプロジェクトを主導したのは、作曲家でありAI開発者でもあるエド・ニュートン=レックスです。彼は2023年末にStability AIのオーディオ部門責任者を辞任しました。理由は、同社が著作権で保護された作品でAIモデルを訓練することを「フェアユース」と主張したことへの抗議でした。彼が率いていたチームは、自社製品Stable Audioのために全ての音楽データをライセンス契約で取得していたにもかかわらず、会社全体としては無許可での利用を正当化する立場を取ったのです。ニュートン=レックスは辞任後、Fairly Trainedという非営利組織を設立し、適切にライセンスされたデータでAIを訓練する企業を認証する活動を始めています。
問題の核心は、英国政府が2024年12月17日から2025年2月25日まで実施した「著作権とAI」に関する公開協議にあります。この協議では「テキスト・データマイニング」のための著作権法の例外を認める案が検討されており、著作権保有者が積極的にオプトアウトしない限り、AI企業が商業目的で著作物を自由に利用できる仕組みが提案されています。これはEUのDSM指令第4条に類似したアプローチで、一見するとAI開発と創作者保護のバランスを取ろうとする試みに見えます。
しかし音楽業界をはじめとするクリエイターたちは、この「オプトアウト方式」に強い懸念を示しています。ポールは「若い作曲家や作家にとって、音楽が唯一のキャリアの道かもしれない。もしAIがそれを一掃してしまうなら、本当に悲しいことだ」と語っています。作曲家マックス・リヒターも「政府の提案はクリエイターを貧しくし、音楽を作曲し、文学を書き、芸術を描く人々よりも、創造性を自動化する者たちを優遇する」と批判しています。
英国政府が直面しているのは、年間£125bn(約24兆円)を経済に貢献し240万人を雇用するクリエイティブ産業と、最近£30bn(約5.8兆円)以上の投資を発表した米国テクノロジー企業の利益のバランスです。協議期間は終了し、政府は現在回答を分析している段階です。2025年6月にはData (Use and Access) Actが成立しましたが、AI著作権条項は含まれず、2026年春まで政府報告書の公表が待たれる状況です。新しい法制度は2026年以降に議会で審議される見込みです。
さらに事態を複雑にしているのが、トランプ大統領からの圧力です。2025年7月のAIサミットで彼は「AI企業が読んだり学んだりした全ての著作物に対して支払いを期待することはできない。契約交渉の複雑さを経ることなく、AIがその知識のプールを使用することを許可しなければならない」と発言し、各国政府に対しAI企業のビジネスを「不可能にする」ような規制を作らないよう警告しました。米国の国家安全保障と経済成長の観点から、中国との競争を引き合いに出しながらAI開発の優先を主張しています。
クリエイター側は、この議論の枠組み自体に異議を唱えています。AI企業は優秀な人材とGPU(計算リソース)には巨額を投じているのに、なぜ訓練データだけは無料で利用できると考えるのか、という指摘です。ニュートン=レックスは「AI企業は最初の2つには何百万ドルも支払っている。3つ目を無料で期待するのは意味がない」とX(旧Twitter)で述べています。
この無音トラックというアート表現は、単なる抗議を超えた深い意味を持っています。音楽が沈黙させられた未来、創造的エコシステムが破壊された世界。それは、AI企業が不当にクリエイターの知的財産を利用し続けた場合に訪れるかもしれない現実を象徴的に示しているのです。
AIと著作権をめぐる議論は、技術革新と創作者の権利保護というバランスの問題だけではありません。それは、人間の創造性という最も本質的な営みに、どのような価値を認めるのかという根本的な問いでもあります。ポールの無音トラックは、その問いに対する音楽界からの痛烈な回答といえるでしょう。
【用語解説】
テキスト・データマイニング(TDM)
大量のテキストやデータから有益な情報やパターンを自動的に抽出する技術である。AI開発では、膨大な著作物を読み込んでモデルを訓練する際に使用される。英国やEUでは著作権法の例外規定として議論されている。
オプトアウト方式
権利者が明示的に拒否しない限り、デフォルトで利用を許可する仕組みである。AI訓練における著作物利用では、著作権保有者が自ら「使わせない」と意思表示しない限り、AI企業が自由に利用できる制度設計を指す。
フェアユース
米国著作権法における例外規定で、教育や批評などの目的であれば著作物を無許可で利用できる制度である。AI企業の多くが、モデル訓練はこれに該当すると主張しているが、クリエイター側は強く反発している。
DSM指令(デジタル単一市場指令)
2019年にEUで採択された著作権指令である。第4条でテキスト・データマイニングのための著作権例外を規定しており、権利者が明示的に権利を留保しない限り利用可能とする仕組みを導入した。
Data (Use and Access) Act 2025
2025年6月に英国で成立したデータ利用とアクセスに関する法律である。AI著作権に関する直接的な規定は含まれず、政府が2026年春までに経済影響評価と提案を行うことが義務付けられている。
【参考リンク】
Fairly Trained(外部)
適切にライセンスされたデータでAIを訓練する企業を認証する非営利組織。エド・ニュートン=レックスが2024年に設立した。
Stability AI(外部)
Stable DiffusionやStable Audioなどの生成AIモデルを開発する企業。著作権問題を巡り元幹部が辞任した。
UK Government – Copyright and Artificial Intelligence Consultation(外部)
英国政府が実施したAIと著作権に関する公開協議。2024年12月17日から2025年2月25日まで実施された。
Anthropic(外部)
Claude AIを開発する企業。英国政府がAI採用促進のために契約を結んだAI企業の一つである。
OpenAI(外部)
ChatGPTやGPT-4を開発する企業。英国政府と契約を結び、著作権を巡って複数の訴訟に直面している。
【参考記事】
Is This What We Want? – Wikipedia(外部)
抗議アルバム「Is This What We Want?」の詳細情報。2025年2月25日にリリースされた経緯を記載している。
Trump Rejects Idea of Paying Copyright Holders for AI Training(外部)
トランプ大統領がAI訓練における著作権保有者への支払いを否定した発言を詳報。中国との競争を理由に挙げた。
Ed Newton-Rex: The 100 Most Influential People in AI 2025(外部)
エド・ニュートン=レックスがTIME誌の「AI分野で最も影響力のある100人」に選出。活動が評価された。
Copyright and Artificial Intelligence – GOV.UK(外部)
英国政府の公式協議文書。テキスト・データマイニング例外やオプトアウト方式について詳細を提示している。
Former Stability exec Ed Newton Rex launches Fairly Trained AI certification(外部)
Fairly Trainedの設立経緯と認証プログラムの詳細。Universal Musicなど音楽業界の支持を得ている。
Copyright and Generative AI | Insights | Mayer Brown(外部)
Data (Use and Access) Actの成立過程と今後の展望を法律事務所が分析。2026年の見通しを提示している。
Copyright and artificial intelligence: Impact on creative industries – House of Lords Library(外部)
英国貴族院図書館による協議の影響分析。クリエイティブ産業への影響と各界の反応を詳述している。
【編集部後記】
ポールの無音トラックは、私たちに問いかけています。創造性に正当な価値を認める社会と、効率と競争を優先する社会。どちらを選ぶのかと。AI技術の進化は避けられませんが、その道筋は私たち自身が決められます。クリエイターの権利とイノベーションの両立は本当に不可能なのでしょうか。皆さんがもし創作者だったら、あるいはAI技術の恩恵を受ける立場だったら、どのような制度設計を望みますか。この議論の行方は、単なる法律の問題を超えて、未来の文化のあり方そのものを左右するはずです。
























