ファクトチェック組織Full Factは2025年12月5日、TikTokやX、Facebook、YouTubeなどのソーシャルメディアプラットフォームで、実在する医師のAIディープフェイク動画が数百本発見されたと発表した。動画は米国拠点のサプリメント企業Wellness Nestへ視聴者を誘導し、効果が証明されていない製品を販売していた。
被害者にはリバプール大学のDavid Taylor-Robinson教授が含まれ、2025年8月に彼になりすました14本の改ざん動画がTikTokで発見された。動画は2017年のPublic Health England会議や2025年5月の議会公聴会の映像を使用し、更年期女性向けサプリメントを推奨する内容に作り変えられていた。
PHE元最高責任者Duncan Selbieも8本のディープフェイクの対象となった。
Wellness Nestはこれらの動画とは無関係だと主張している。TikTokはTaylor-Robinsonの苦情から6週間後に動画を削除した。
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AI deepfakes of real doctors spreading health misinformation on social media
【編集部解説】
今回のFull Factの調査が明らかにしたのは、単なる技術的な問題ではなく、デジタル時代における「信頼」そのものが脅かされている現実です。
ディープフェイク技術は2017年にReddit上で初めて確認されましたが、わずか8年で医療という最も信頼が重視される領域まで侵食しました。特に注目すべきは、被害者のDavid Taylor-Robinson教授の動画が365,000回以上視聴され、7,691のいいね、459のコメント、2,878のブックマークを獲得していた点です。つまり、虚偽の情報が大規模に拡散され、多くの人々が実際に影響を受けていたのです。
TikTokの初期対応も問題でした。最初は「違反なし」と判断し、その後も「制限」のみで削除を拒否。Full Factの介入から6週間後にようやく削除されました。この遅延は、プラットフォーム側のモデレーション体制の脆弱性を浮き彫りにしています。
技術的背景として、現在のAI生成音声は人間の耳では識別不可能なレベルに達しています。Frontiers in Public Health誌の2025年7月の研究によれば、年配に見えるAIアバターほど信頼される傾向があり、人間の認知バイアスがディープフェイク詐欺を助長している状況です。
Wellness Nestを巡る構造は巧妙です。同社はアフィリエイトマーケティングプログラムを運営しており、オランダのメディアPointer Checktの調査では、ベトナムのPati Groupが運営していることが判明しています。さらに、SinhMMOというサイトでは、ディープフェイク動画の作成方法、プラットフォームの検出回避方法、音声模倣のガイドまで公開されており、組織的な詐欺インフラが存在します。
被害は世界規模です。オランダでは40人以上の医師・著名人が被害に遭い、フランスでも同様の事例が報告されています。スタンフォード大学のSean Mackey教授は「これは公衆衛生上の脅威だ。人々が証明された治療法を放棄するとき、実害が生じる」と警告しています。
規制面では、2025年5月に米国でTAKE IT DOWN Actが成立し、初の連邦レベルのディープフェイク規制法となりました。しかし、この法律は主に親密な画像の無断共有を対象としており、医療詐欺には直接対応していません。EUはより積極的で、ディープフェイク検出と予防を強化し、AI生成コンテンツへの明確なラベル付けを義務化しています。
世界経済フォーラムは、ディープフェイクによる誤情報・偽情報を世界のトップリスクの一つに位置づけています。
検出技術も発展していますが、限界があります。顔のぼやけ、不自然な手の表情、過度に対称的な顔などの視覚的手がかりは、技術の進化により検出が困難になっています。デジタル透かしやブロックチェーン技術が解決策として提案されていますが、オープンソースのAIモデルが広く利用可能な現状では、完全な防止は困難です。
最も深刻な影響は、医療への信頼の喪失です。Johns Hopkins大学の研究者は、ディープフェイクが「真実を見極める能力そのもの」を損なうと指摘しています。何度も虚偽情報に接触すると、それが真実のように感じられる「錯覚的真実効果」が働き、科学や医療機関への不信が広がります。
この問題は技術だけでは解決できません。プラットフォームの責任強化、国際的な規制協力、メディアリテラシー教育、そして医療専門家自身による積極的な情報発信が必要です。Full Factの調査は、デジタル時代における情報の信頼性確保が、テクノロジー企業、規制当局、そして社会全体の喫緊の課題であることを示しています。
【用語解説】
ディープフェイク(Deepfake)
AI技術を使用して作成された、実在の人物の顔や音声を別の映像に合成した偽造コンテンツである。2017年にReddit上で初めて確認され、機械学習技術の発展により、現実と見分けがつかないほど精巧になっている。
Full Fact
英国を拠点とするファクトチェック組織で、公共の議論における情報の正確性を検証し、誤情報や偽情報の拡散を防ぐ活動を行っている。2025年12月5日に本調査を公表した。
アフィリエイトマーケティング
企業が第三者に自社製品やサービスへのリンクを共有してもらい、そこから発生した売上に応じて報酬を支払うマーケティング手法である。Wellness Nestはこの仕組みを利用しており、悪質な事例ではディープフェイク動画が作成されている。
錯覚的真実効果(Illusory Truth Effect)
繰り返し接触した情報を真実だと感じやすくなる認知バイアスである。ディープフェイク動画が繰り返し表示されることで、視聴者が虚偽の健康情報を信じてしまうリスクが高まる。
TAKE IT DOWN Act
2025年5月19日に米国で成立した、AI生成を含む無断の親密な画像の配布を犯罪化する初の連邦法である。ディープフェイク規制の重要な一歩とされるが、医療詐欺には直接対応していない。
シラジット(Shilajit)
ヒマラヤ山脈で採取される天然物質で、アーユルヴェーダ医学で使用される。Wellness Nestが販売する製品の一つだが、更年期症状への効果は科学的に証明されていない。
サーモメーターレッグ(Thermometer Leg)
ディープフェイク動画で捏造された架空の更年期症状で、夜間に暑くなった女性が片足を布団の外に出すという現象とされる。実際には存在しない症状である。
【参考リンク】
Full Fact(外部)
英国を拠点とするファクトチェック組織の公式サイト。誤情報や偽情報を検証し、公共の議論における情報の質向上を目指している。
Wellness Nest(外部)
米国拠点のサプリメント企業。ディープフェイク動画がこの企業の製品への誘導に使用されていたが、同社は関与を否定している。
TikTok Community Guidelines(外部)
TikTokのコミュニティガイドライン。なりすましや誤情報に関するポリシーが記載されているが、運用の課題が指摘されている。
University of Liverpool(外部)
David Taylor-Robinson教授が所属するリバプール大学の公式サイト。同教授は健康格差の専門家で、今回のディープフェイク被害者の一人。
【参考記事】
Revealed: how academics are being deepfaked on TikTok and Instagram to promote supplements(外部)
Full Factによる詳細な調査レポート。David Taylor-Robinson教授やDuncan Selbie氏のディープフェイク被害の詳細を報告。
Woman Speaks Out After Being Scammed by Ad With Deepfake of Her Doctor(外部)
TODAYによる調査報告。医療詐欺におけるAIディープフェイク動画の増加と、実際の被害者の証言を紹介。
Deepfake videos impersonating real doctors push false medical advice and treatments(外部)
CBS Newsによる1ヶ月にわたる調査。複数のプラットフォームで100本以上の偽医師動画を発見し、手口を詳細に報告。
Over 40 Dutch celebs, doctors in deepfake videos promoting supplements(外部)
オランダのPointer Checktによる調査。40人以上のオランダの医師・著名人がWellness Nestのサプリメント宣伝の被害に。
Revealed: AI deepfakes of famous doctors, including Michael Mosley, used by firms to push products(外部)
LBCによる調査。故Michael Mosley博士やTim Spector教授などの著名医師のディープフェイクが製品宣伝に使用されている実態を報告。
Deepfake Doctors: How AI Spreads Medical Disinformation(外部)
Medscapeによる医療専門家向けの分析記事。ディープフェイクが医療における信頼を損なう仕組みを解説。
Reckoning With the Rise of Deepfakes(外部)
The Regulatory Reviewによる規制面の分析。2025年5月に成立したTAKE IT DOWN Actなど、ディープフェイク規制の現状と課題を詳述。
【編集部後記】
私たちが日々接する健康情報の中に、もはや「見た目」だけでは判断できないものが混在している時代になりました。尊敬する医師が語る動画が、実は本人とは無関係に作られた偽物かもしれない。この現実に、皆さんはどう向き合いますか?
今回の事例で印象的だったのは、Taylor-Robinson教授の同僚が「妻がほとんど騙されかけた」と語った点です。つまり、私たちの誰もが被害者になりうるのです。ソーシャルメディアで健康情報を得ることが当たり前になった今、情報源の確認、公式サイトでの裏付け、かかりつけ医への相談といった基本的な行動が、これまで以上に重要になっています。
テクノロジーの進化は止められませんが、それにどう対応するかは私たち次第です。この記事をきっかけに、ご自身の情報との向き合い方を見直してみませんか?






























