いつか量子コンピューターが今の暗号を解く日が来る——そう言われても、多くの人にとってはまだ実感の湧かない話かもしれません。けれど「その日」を待たずに、いま動いたチェーンがあります。スイス発のQoreChainが公開したのは、量子コンピューターでも破りにくいとされる新しい暗号を、署名も鍵のやり取りもデータの要約もまとめて組み込んだ、稼働中のブロックチェーン上での送金記録でした。しかもそれは実験室の中ではなく、誰でも覗ける公開ネットワーク上で起きています。なぜ、まだ来ていない脅威に、これほど早く手を打つ必要があったのか。その答えは、暗号の世界でいま静かに進んでいる「時間の前倒し」にありました。
スイスに登記されたブロックチェーンネットワークQoreChainが、稼働中のパブリックメインネット上で、エンドツーエンドのポスト量子暗号(PQC)スタックを用いたトランザクションを記録した。2026年7月2日に1,000 QORの送金が実行され、送金先はオープンソースのセルフカストディウォレットKeplrで生成された標準アドレスである。
署名層にML-DSA-87(FIPS 204)、鍵カプセル化にML-KEM-1024(FIPS 203)、ハッシュにSHAKE-256を採用し、署名・鍵交換・ハッシュ関数の全体へ同時に適用した点を、QoreChainは「ブロックチェーン史上初」と位置づけている。本番メインネットqorechain-vladi(EVM Chain ID 9801)はCosmos SDK v0.53上で稼働し、NIST準拠のアルゴリズムをジェネシス状態層に統合。スイスDLT法の下、QoreChain Associationが運営し、全ガス手数料の30%をバーンするデフレ型のユーティリティトークンモデルを特徴とする。
このトランザクション(ハッシュ:4E49D57F86FEC8851CDC34811B4C80FDB24F4C253ABE15D25C05B7A27F2B7F1F)は、QoreChainの公開ブロックエクスプローラー上で送金額や署名情報を確認できるとされている(該当トランザクション)。
From:
QoreChain Implements Complete NIST Post-Quantum Cryptography Stack on Public Mainnet
【編集部解説】
まず、このニュースの「何が新しいのか」を整理します。量子コンピューターが将来もたらす暗号解読リスクへの対策として、これまで多くのブロックチェーンは署名部分だけを耐量子アルゴリズムに差し替える手法をとってきました。QoreChainが今回主張しているのは、署名・鍵交換・ハッシュという暗号処理の三つの層すべてを、稼働中のパブリックチェーン上で同時に耐量子化した点です。プレスリリースはこれを「ブロックチェーン史上初」と位置づけています。
技術的な核心にあるのは、NISTが標準化した規格群です。署名にML-DSA-87(FIPS 204、旧称Dilithium-5)、鍵カプセル化にML-KEM-1024(FIPS 203、旧称Kyber)を採用し、この2つは2024年に確定した耐量子暗号標準です。ハッシュには、SHA-3系のSHAKE-256(FIPS 202)を組み合わせています。いずれも、量子アルゴリズムのショアのアルゴリズムに弱いとされる楕円曲線暗号に依存しない設計です。ビットコインやイーサリアムが現在も基盤とするのは、まさにこの楕円曲線暗号(secp256k1など)です。
なぜ「今」なのかを理解する鍵が、「Harvest Now, Decrypt Later(今収集し、後で復号する)」という考え方です。攻撃者は解読能力が手に入るのを待つのではなく、現時点で暗号化されたデータや公開鍵の履歴を記録しておき、将来まとめて解読しようとします。ブロックチェーンは公開台帳上の取引や公開鍵の履歴が永続的に残る性質上、この「収集」が容易であり、リスクが今この瞬間に発生している、という論法です。
では、その脅威はどれほど差し迫っているのでしょうか。ここは冷静に見る必要があります。2026年3月、Google Quantum AIがイーサリアム財団のジャスティン・ドレイク氏らと発表した論文は、一定の前提条件のもとで、楕円曲線暗号を理論上50万個未満の物理量子ビットで破れる可能性を示し、従来推定(2023年のリティンスキーによる約900万個)から約20分の1へと必要資源を圧縮しました。一方で同じ研究群は、実際に破るには1,200〜2,330個の論理量子ビットが必要で、2026年最良のマシンでも論理量子ビットは約100個にとどまると指摘します。専門家調査を統合したある評価では、暗号的に有意な量子コンピューターの登場確率は2035年までで約6分の1、2050年までで約60%と見積もられています。
つまり脅威は「実在するが、時期は幅を持ったリスク分布」だというのが、現時点での公正な理解です。QoreChainの創業者リビウ・エプレ氏が「早すぎるという反論はもう理論的ではなくなった」と述べる背景には、この時間軸の急速な圧縮があります。移行には年単位の時間がかかるため、早く始めた者が有利という論理自体は、多くの独立系研究者の見解とも整合します。
同時に、読者に注意深く受け取っていただきたい点もあります。第一に、「史上初のフルスタック耐量子トランザクション」という主張は、現時点でQoreChain側の発表に基づくものです。公開ブロックエクスプローラーで検証できる形にしている点は評価できますが、第三者の暗号研究者による本格的な監査結果はこれからです。第二に、QoreChainは総供給量の上限を45億QORとするユーティリティトークンを持ち、プレセールを経て稼働した新興ネットワークでもあります。技術的な先進性と、投資対象としての評価は切り離して考える必要があります。
規制の観点では、スイスという立地が示唆に富みます。QoreChain AssociationはスイスDLT法の下で運営され、QORをユーティリティトークンと分類するFINMA(スイス金融市場監督機構)のノーアクションレターを取得したと説明しています。規制が明確な法域を選んで基盤を固めてから市場に出る、という順序は、量子対応のような長期インフラを標榜するプロジェクトの一つのモデルケースになりえます。
長期的な視点で言えば、今回の実装が本当に重要なのは、それが「移行は技術的に可能だ」という一つの実装例になっている点です。ビットコインやイーサリアムが抱える最大の難題は、暗号アルゴリズムそのものよりも、分散したコミュニティの合意形成にあると指摘されています。誰も管理者のいないネットワークを、どうやって新しい暗号方式へ移行させるのか。QoreChainがゼロから設計した「耐量子ネイティブ」なチェーンは、既存チェーンの移行モデルにはなりません。しかし、来るべき量子時代のインフラがどうあるべきかを先取りして見せる、一つの試金石にはなるはずです。
【用語解説】
ポスト量子暗号(PQC)
量子コンピューターによる解読に耐えられるよう設計された、次世代の暗号技術の総称。現在広く使われる暗号は、量子アルゴリズムに破られる恐れがあるため、その置き換えが進められている。
Harvest Now, Decrypt Later(今収集し、後で復号する)
暗号を破る能力が実現するのを待つのではなく、現時点で暗号化データや公開鍵の履歴を記録・保存しておき、将来まとめて解読しようとする攻撃戦略。ブロックチェーンは公開台帳の取引や公開鍵が永続的に残るため、この手法の標的になりやすいとされる。
ML-DSA-87 / ML-KEM-1024 / SHAKE-256
QoreChainが組み合わせる3つのアルゴリズム。ML-DSA-87(旧称Dilithium-5)はNISTが2024年に標準化した耐量子の電子署名(FIPS 204)、ML-KEM-1024(旧称Kyber)は同じく耐量子の鍵カプセル化(FIPS 203)。SHAKE-256はFIPS 202のSHA-3系ハッシュ/XOFで、それ自体はPQC標準ではないが、十分な出力長を前提とすればGrover攻撃を考慮しても実用上の安全域を確保できるとされ、耐量子方式でも広く使われる。
FIPS 203 / FIPS 204
NISTが2024年に確定した連邦情報処理標準の番号。FIPS 203が鍵カプセル化(ML-KEM)、FIPS 204が電子署名(ML-DSA)の規格にあたる。
楕円曲線暗号(secp256k1など)
ビットコインやイーサリアムを含む多くの主要ブロックチェーンが署名に用いている暗号方式。ショアのアルゴリズムを実行できる量子コンピューターが登場すると破られる可能性が指摘されている。
レイヤー1(Layer-1)
イーサリアムやビットコインのように、それ自体が独立して稼働するブロックチェーンの基盤ネットワークのこと。QoreChainもこのレイヤー1に分類される。
トリプルVM / EVM・CosmWasm・SVM
スマートコントラクト(ブロックチェーン上の自動実行プログラム)を動かす実行環境。EVMはイーサリアム系、CosmWasmはCosmos系、SVMはSolana系。QoreChainは三つを単一チェーン上で同時に動かせるとしている。
PRISM Consensus
QoreChainが採用する、AI(強化学習)を使ってノードの動作を動的に最適化する合意形成の仕組み。ブロックの順序づけや手数料の調整などを自動でチューニングするとされる。
FINMAノーアクションレター
スイス金融市場監督機構(FINMA)が、特定の事業について現時点で規制上の措置をとらないと表明する文書。QoreChainはこれによりQORをユーティリティトークンと位置づけていると説明している。
QCAI
QoreChainのノードに組み込まれる、取引の異常検知やリスクスコアリングを行うAIエンジン。不正の検出やルーティング最適化などを担うとされる。
【参考リンク】
QoreChain(公式サイト)(外部)
スイスのQoreChain Associationが運営する、耐量子・AIネイティブを掲げるレイヤー1ブロックチェーンの公式サイト。
Keplr(公式サイト)(外部)
Cosmosエコシステムを中心とした、オープンソースのマルチチェーン対応セルフカストディウォレット。今回の送金先生成に使われた。
NIST Post-Quantum Cryptography(NIST公式)(外部)
米国国立標準技術研究所による耐量子暗号標準化プロジェクトの公式ページ。規格文書を公開している。
Cosmos SDK(公式ドキュメント)(外部)
QoreChainの基盤フレームワークであるCosmos SDKの公式ドキュメント。開発者向け情報を提供する。
QoreChain Public Block Explorer(公式)(外部)
QoreChainのオンチェーン取引を誰でも検証できる公式ブロックエクスプローラー。本件の取引も確認できる。
【参考記事】
Can Quantum Computers Break Bitcoin? Q-Day & The Quantum Threat Explained(外部)
楕円曲線暗号の解読に必要な論理量子ビット数と、2026年の実機との差を検証した記事。
Q-Day Just Got Closer: Three Papers in Three Months Are Rewriting the Quantum Threat Timeline(外部)
Google Quantum AIの2026年3月論文を報じ、必要資源が約20分の1に圧縮されたと解説する。
Quantum Horizon: An evaluation of quantum computing as a threat to Bitcoin and Ethereum(外部)
量子脅威を評価した学術論文。CRQC登場確率や、脅威が署名に対するものである点を整理する。
QoreChain Demonstrates End-to-End Post-Quantum Blockchain Transaction(外部)
本件を報じた記事。取引の詳細と、創業者リビウ・エプレ氏の発言を紹介している。
QoreChain Ships NIST Post-Quantum Cryptography and AI-Native Consensus in Production Testnet(外部)
QoreChainの公式リリース。総供給量の上限45億QORなどの数値と開発経緯を説明する。
【関連記事】
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別の主要パブリックチェーンによる耐量子実装の事例。QoreChainのフルスタック実装と比較して読みたい一本。
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既存チェーンの耐量子移行が抱える、ハードフォークと合意形成の難しさを掘り下げた記事。
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量子脅威の実像を冷静に評価したリスク分析。今回の解説の背景理解を深める。
【編集部後記】
破るのに必要とされる量子ビットの数は、この1年ほどで見積もりが大きく縮み、専門家の予測でも「2035年までに一定の確率で」という現実的な射程に入ってきています。遠い霧の向こうにあったものが、地図の端にうっすら見え始めた、そんな感覚に近いかもしれません。
一方で、冷静さも忘れたくないと思っています。QoreChainが掲げる「史上初」は、いまのところ本人たちの発表が主な根拠で、外部の専門家による本格的な検証はこれからです。新しく生まれたばかりのネットワークでもあり、技術としての面白さと、資産としての評価は、切り分けて眺めたほうがよさそうです。すごい、と素直に感じる部分と、もう少し様子を見たい、と立ち止まる部分。その両方を抱えたまま書くのが、こういう最先端の話題との誠実な付き合い方なのだろうと感じました。
もう一つ心に残ったのは、ビットコインやイーサリアムのような既存の巨大チェーンにとって、本当の難しさは暗号を差し替える技術そのものより、「みんなで合意して動く」ことのほうにある、という指摘です。誰も管理者がいないからこその強さが、いざ引っ越しとなると重さに変わる。ゼロから耐量子で設計されたQoreChainは、その引っ越しの見本にはなりません。でも、これから量子時代のインフラを整えるうえで、「こういう形もありうる」という一つのスケッチにはなっているはずです。
みなさんが日々触れているウォレットや、少しずつ積み上げてきた資産は、10年後、どんな暗号に守られていてほしいでしょうか。答えを急ぐ必要はないと思います。ただ、こうしたニュースをきっかけに、その問いを頭の片隅に置いておくだけでも、来るべき変化との距離の取り方は変わってくる気がします。












