サイコロも、コインも、コンピュータの乱数生成器も──実は誰も「完璧にランダム」を作れていなかった。わずかな偏りは、暗号通信やブロックチェーンの安全性を根底から揺るがすリスクになる。スイスのETH Zurichが、この長年の難題に量子物理で挑み、世界で初めて「完璧であることが証明された乱数」の生成に成功した。
ETH Zurichの研究チームが、量子実験を用いて世界で初めて完璧であることが証明された乱数の生成に成功したと、ETH Zurichが2026年5月27日に発表した。成果は同日、学術誌Natureに「Experimental Randomness Amplification」として掲載されている。研究を主導したのは同大学物理学科のレナート・レンナーとアンドレアス・ヴァルラフ。
実験では絶対零度近くまで冷却された2つの超伝導量子チップを30メートルの管で接続し、マイクロ波光子により量子もつれを生成。改良型のベルテストを用いて、不完全な乱数生成器の出力を増幅し、完璧にランダムな0と1の数列を抽出する手法を実証した。この手法はランダム性増幅と呼ばれる。応用先として、機密通信やデジタルアイデンティティの暗号化、宝くじやブロックチェーンにおける公的ランダム性サービス、量子セキュア通信システムが挙げられている。
From:
Perfect randomness realised for the first time | ETH Zurich
【編集部解説】
「乱数」と聞くと、コンピュータが瞬時に生成できるありふれた数列のように感じられるかもしれません。しかし実は、現代社会の暗号通信を支える土台でありながら、誰もこれまで「完璧」を証明できなかった存在でもあります。今回のETH Zurichによる成果は、特定の物理仮定とプロトコル条件のもとで「認証可能な完全性」を実現したものであり、その積年の課題に一つの到達点を示した出来事といえます。
ポイントは「デバイス非依存(device-independent)」という考え方です。通常の乱数生成器は、内部のハードウェアが正しく動作していることを信じる必要があります。しかし機器に欠陥や悪意ある改造があれば、生成された乱数が予測可能になる危険性が残ります。今回の手法は、量子もつれの非局所相関を利用することで、装置の中身を信用せずとも、出力されたビット列が真にランダムであることを物理法則によって保証できる点に画期性があります。
技術的な核となるのは「ベルテスト」です。これは、量子もつれにある2つの粒子の挙動が、古典的な「隠れた変数」では説明できないことを示すテストで、2022年のノーベル物理学賞の対象にもなりました。ETHの研究グループは2023年に、すでに同じ30メートルの低温装置で「抜け穴のないベルテスト」を実証しており、今回の研究はその基盤の上に構築された応用編と位置づけられます。
注目すべきは、報道・解説記事によると最大0.75%程度の入力バイアスまで許容できるとされている点です。つまり、世の中のどの乱数源も完璧ではないという現実を受け入れた上で、それを増幅して完璧に変換する仕組みになっています。この「不完全さからの抽出」こそ、ランダム性増幅という概念の本質と言えるでしょう。
応用範囲は広く、特に注目されるのが「ポスト量子暗号」との関係性です。将来、大規模な量子コンピュータが実用化されれば、現在主流のRSA暗号などは破られる可能性が指摘されています。新しい暗号体系へ移行する際、その安全性を担保する乱数の質がこれまで以上に問われることになります。今回の手法は、その「暗号の土台そのもの」を強化する基盤技術となり得ます。
また、ブロックチェーンや宝くじといった「公平性が信頼の源泉となる」分野への応用も視野に入ります。誰かが乱数の結果を意図的に操作していないことを、数学的・物理的に証明できる仕組みは、分散型システムの透明性を大きく前進させるはずです。
一方で課題も明確です。実験装置は絶対零度近くの極低温環境を必要とし、30メートルにも及ぶ大規模設備で運用されています。一般のスマートフォンに搭載されるような形にはほど遠く、当面は中央集権的な「乱数供給サービス」としての利用が現実的でしょう。ETH公式記事では、この成果を「原子時計が時刻の基準として機能するように、他のシステムが拠り所にできる物理的に認証されたランダム性源」になぞらえており、まさにこの未来像を示しています。
長期的には、量子鍵配送(QKD)や量子セキュア通信など、社会の信頼インフラ全般を再定義する可能性を秘めた研究と言えます。将来的にはAIの公平性検証といった新領域への応用可能性も考えられますが、現時点では研究の発展を見守る段階です。理論物理学者コルベックとレンナーが2012年に提唱した「自由なランダム性は増幅できる」というアイデアが、14年の歳月を経て実験室で実現したという事実そのものが、量子情報科学の着実な進展を物語っています。
【用語解説】
ランダム性増幅(randomness amplification)
不完全な乱数源から、より純度の高いランダム性を量子物理の原理を使って抽出する手法。古典物理では不可能とされる処理で、量子もつれの非局所相関が鍵となる。
ベルテスト(Bell-Test)
量子もつれにある2つの粒子の挙動が、古典的な「隠れた変数」理論では説明できないことを示す実験。2022年のノーベル物理学賞の対象となった分野で、量子非局所性を検証する標準的な手法である。
量子もつれ(エンタングルメント)
2つ以上の粒子が量子力学的に相関した状態を持ち、離れていても測定結果に強い相関が現れる現象。古典物理では説明できない量子情報の中心概念だが、これにより超光速通信が可能になるわけではない。
超伝導量子ビット(qubit)
極低温に冷却された超伝導回路を用いた量子情報の最小単位。「0」と「1」、およびその重ね合わせ状態を表現でき、IBMやGoogleなど主要な量子コンピュータ開発企業も採用している方式。
測定基底(measurement basis)
量子状態をどの方向から測るかを決める設定。ベルテストでは、両者の測定基底を独立かつランダムに選択することが、テストの妥当性を担保するうえで不可欠となる。
マイクロ波光子
電子レンジでも使われる電磁波の一種で、超伝導量子ビット間の情報伝達に用いられる。可視光より波長が長く、低温環境での量子情報伝送に適している。
デバイス非依存(device-independent)
量子情報処理プロトコルの一種で、用いる装置の内部構造を信頼しなくても、出力結果の真正性を物理法則により保証できる性質。量子暗号における「最高水準のセキュリティ」とされる。
ポスト量子暗号
将来の大規模な量子コンピュータによる解読に耐え得る暗号方式の総称。米国NISTが標準化を進めており、現行のRSA暗号などからの移行が世界的な課題となっている。
量子鍵配送(QKD)
量子力学の原理を用いて、2地点間で安全に暗号鍵を共有する技術。理想的な条件下では盗聴の痕跡を検出できる性質を持つ。
【参考リンク】
ETH Zurich(チューリッヒ工科大学)(外部)
スイスを代表する世界トップクラスの理工系総合大学。量子情報やAI研究の中心地である。
Nature(外部)
1869年創刊、世界で最も影響力のある総合科学雑誌のひとつ。今回の論文も同誌に掲載。
論文「Experimental Randomness Amplification」(外部)
今回の研究成果が掲載されたNature論文へのリンク。DOI: 10.1038/s41586-026-10521-8。
Quantum Center ETH Zurich(外部)
2020年設立。6学科40の研究グループ、600人超の研究者を擁する量子研究拠点。
Quantum Information Theory Group(Renato Renner研究室)(外部)
量子情報理論を専門とする研究グループ。今回の理論面を主導したレンナー教授が率いる。
Quantum Device Lab(Andreas Wallraff研究室)(外部)
超伝導量子回路を専門とする実験研究室。今回の実験設備を構築・運用している。
arXivプレプリント「Device-Independent Randomness Amplification」(外部)
今回のNature論文のプレプリント版(2024年12月公開)。技術的詳細を確認できる。
【参考記事】
Researchers Say They’ve Achieved Perfect Randomness(外部)
量子産業専門メディアによる速報記事。暗号応用としての意義を中心に紹介している。
Quantum Physicists Have Generated the First Mathematically Certified Perfect Random Numbers(外部)
15ミリケルビン環境、30m導波管、0.75%の入力バイアス許容など実験詳細を解説。
Perfect randomness realized for the first time(Phys.org)(外部)
科学ニュースサイトによる記事。暗号応用としての重要性を強調している。
ETH Zurich Researchers Strengthen Quantum Mechanics with Novel Bell Test(外部)
2023年の「抜け穴のないベルテスト」実験を紹介。今回の成果の系譜を理解できる。
Perfect Randomness Realised For First Time(Mirage News)(外部)
ETHプレスリリースを転載した科学ニュース配信記事。基本情報の確認に活用。
【関連記事】
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QKDによる長距離安全通信の実証事例。今回のランダム性増幅技術が支える「セキュア通信の土台」を、応用側から理解できる関連記事。
ニールス・ボーア研究所、量子通信の20年来の壁を突破—既存の光ファイバーで単一光子伝送に成功
量子通信の物理層実装に関する最新成果。今回のランダム性増幅とは異なるレイヤーだが、ともにQKDを支える基盤技術として並べて読みたい。
2025年ノーベル物理学賞 – 量子コンピューティングの扉を開いた先駆者たち
今回の実験でも用いられた超伝導量子ビット研究の系譜を解説。本記事の技術背景を深く理解するための入り口となる。
【編集部後記】
「完璧なランダム性」と聞いて、みなさんはどんな場面を思い浮かべますか。スマートフォンの暗号通信、ネットバンキング、もしかすると好きなオンラインゲームのガチャかもしれません。
私たちが何気なく信頼している「偶然」は、実は誰にも操作されていないと証明することがとても難しい存在でした。今回の研究は、その当たり前を物理法則で支え直す試みです。量子コンピュータ時代が近づく今、あなたが「信頼」を委ねる相手は何でしょうか。一緒に考えてみませんか。












