投機的実行の高速化とそこに潜むサイドチャネルの脅威——CPUメーカーと研究者の攻防は、2018年のSpectre発覚以来続いています。分岐予測器を「使う直前にきれいにする」という近年広く採用されてきた防御思想そのものに、MITの研究チームが新たな穴を見つけました。
MIT CSAILのダニエル・トルヒーヨ氏とメンジア・ヤン氏が、Spectre型攻撃への防御を回避する新手法「TONTOU」(Time-of-Neutralization to Time-of-Use)を発表した。
IntelとAMDの複数世代CPUを対象に検証し、防御策が分岐予測器をクリーンにしてから使われるまでのわずかな隙間を、精密なタイミングの割り込みで突く「interrupt injection」で、狙った分岐予測ミスの発生に成功した。AMD Zen 2・標準Linuxカーネルの環境ではエンドツーエンドの攻撃を構築し、KASLRを10回中10回突破、うち5回でrootパスワードハッシュを含む/etc/shadowの読み取りにも成功した。読み取り速度は毎秒約5バイト、1回の攻撃には約18分を要する。AMDは緩和パッチを公開済みだが、Intelは追加対応を予定していないという。
From:
MIT researchers found a new Spectre attack that can slip past Intel and AMD defenses
【編集部解説】
セーフガードを破ったのは、セーフガードを生んだ本人だった
まず、今回の発見でいちばん興味深いのはこの点です。AMDのSafe RETという防御機構は、2023年に発覚した「Inception」という攻撃を受けて導入されたものです。そしてInceptionを見つけたのは、当時ETH Zurichに在籍していたダニエル・トルヒーヨ氏でした。今回TONTOUを見つけたのも、MITに移った同じトルヒーヨ氏です。自分が突いた穴を塞ぐために作られた防御機構に、今度は別の穴を見つけて戻ってきた、という構図になります。
Safe RET(AMD)やeIBRS(Intel)といった防御は、いずれも「分岐予測器の中身を、使う直前にきれいにしておく」という考え方に立っています。TONTOUが示したのは、「きれいにする瞬間」と「実際に使う瞬間」がどうしても完全には一致しないという、これまで見過ごされてきた前提の穴です。AMDのSafe RETでは、この隙間はほんのわずかです。それでも研究者らは、割り込みのタイミングを精密に制御することで、その一瞬をこじ開けました。
Spectre系の脆弱性は2018年の発覚以来、発見→防御策の実装→防御策の隙間の発見、というサイクルを繰り返してきました。今回はそのサイクルが一段深いところで起きている、と見ることもできそうです。
誰にとっての脅威か——射程を見極める
TONTOUの前提条件は、攻撃者が対象マシン上ですでに一般ユーザー権限のコードを実行できることです。つまり、外部から突然侵入されるような類の脆弱性ではありません。自分のPC上で自分以外の得体のしれないコードが動いていない限り、直接の脅威にはなりにくい種類の攻撃です。
一方で、クラウドの仮想マシンや共有ホスティング、コンテナ基盤のように、見知らぬ利用者のコードが同じ物理CPU上で隣り合って動く環境では話が変わります。この程度の読み取り速度と所要時間は、無差別型のマルウェアが気軽に仕掛けるには不向きですが、特定のターゲットを狙う攻撃者にとっては十分実用的な射程です。
AMDは動いた、Intelは「現状維持」——その判断は妥当か
AMDは8月6日、Safe RETに関する脆弱性情報「AMD-SB-7061」を公開し、Zen 1〜Zen 4を対象製品として挙げました。ただし実際にエンドツーエンドの攻撃が実証されたのはZen 1とZen 2のみで、Zen 3・Zen 4は「該当する可能性がある」という位置づけにとどまっています。修正コード自体は今年6月2日付ですでにLinuxカーネルに取り込まれていたことが確認されています。公表より先に、静かに直っていたということです。
対してIntelは、追加の緩和策を予定していないとしています。既存のガイダンス「INTEL-SA-00598」で対応済みという立場です。Arm側は、Intelとはやや異なる理屈で、割り込みを使った漏洩は「能動的に防御する対象ではない」という立場を示しています。
この温度差のどちらが最終的に正しい判断なのか、私たちにはまだ判断がつきません。トルヒーヨ氏とヤン氏の詳細な論文は、8月12日から14日にかけてボルチモアで開催されるUSENIX Security 2026で正式に発表される予定です。防御思想の前提そのものを問い直すこの研究が、業界の対応をどこまで動かすのか——今週末の発表も含め、目が離せません。
【関連記事】
Linuxカーネル脅かす「最初のネイティブSpectre v2エクスプロイト」発覚
2024年、Native BHIという手法がSpectre v2対策を回避しカーネルメモリを漏洩させたことが報告された。
AMD全プロセッサにサイドチャネル攻撃脆弱性|TSA(CVE-2024-36350他)Microsoft緊急対応
2025年に報告されたAMDの投機的実行を狙うサイドチャネル脆弱性TSA。AMDの投機的実行機構を巡る問題はこれが初めてではない。
【編集部後記】
「防御の隙間を見つけた本人が、自ら作った防御の中にまた隙間を見つける」——この巡り合わせに、技術の成熟とは何なのか、少し考えさせられました。TONTOUは私たちの手元のPCにすぐ牙を剥くものではありません。ただ、クラウドの向こう側で日々何が動いているのか、私たちはどこまで意識できているでしょうか。
【用語解説】
Spectre(スペクター)
2018年公表、CPUの投機的実行の仕組みを突くサイドチャネル攻撃の総称。
投機的実行(Speculative Execution)
分岐先や処理結果を予測し、確定前に先回りして処理を進めるCPUの高速化技術。
分岐予測器(Branch Predictor)
プログラムの分岐先をCPUが予測するための機構。投機的実行の精度を左右する。
サイドチャネル攻撃(Side-Channel Attack)
処理結果そのものではなく、処理時間やキャッシュの状態など副次的な情報から機密データを推測する攻撃手法。
Safe RET/eIBRS
AMD・Intelがそれぞれ実装するSpectre v2対策。分岐予測器の状態を機密処理の前に消去・隔離する仕組み。
KASLR(Kernel Address Space Layout Randomization)
OSカーネルのメモリ配置をランダム化し、攻撃者による位置予測を妨げるセキュリティ機構。
RSB/BHB(Return Stack Buffer/Branch History Buffer)
分岐予測に使われるCPU内部の構造。TONTOU攻撃ではこれらの汚染が起点となる。
/etc/shadow
Linuxでパスワードハッシュ等を保存するシステムファイル。通常はroot権限がなければ閲覧不可。
【参考リンク】
MIT CSAIL(研究チーム公式発表)(外部)
開示の経緯や学会発表予定など、一次情報がまとまった公式ページ。
AMD Product Security Bulletin「AMD-SB-7061」(外部)
AMD公式の脆弱性情報。対象製品と実証範囲をベンダー視点で確認できる。
Intel Security Advisory「INTEL-SA-00598」(外部)
Intelが「対応済み」と位置づける既存ガイダンス本体。
USENIX Security ’26(トルヒーヨ氏発表ページ)(外部)
8月12〜14日開催。正式論文は会期初日に公開予定。
【参考記事】
MIT boffins’ TONTOU attack slips through Spectre defenses on Intel and AMD CPUs — The Register(外部)
eIBRS/Safe RETの技術用語整理、Armの反応を詳報。
New Interrupt Injection Attack Can Bypass Spectre v2 Defenses on Intel and AMD CPUs — The Hacker News(外部)
AMD-SB-7061の内容、修正コミットの詳細、Intel既存ガイダンスとの齟齬を指摘。
TONTOU Bypasses Spectre-v2 Protection: New CPU Attack Targets AMD Zen 1 to Zen 4 — igorslab.de(外部)
AMD-SB-7061公開日、Zen世代別の実証状況の内訳を整理。
New TONTOU CPU attack bypasses Spectre v2 fixes, leaks Linux password hashes — BleepingComputer(外部)
開示タイムラインと研究者本人のコメントを詳報。
New Inception Vulnerability Impacts ALL AMD Zen CPUs — ServeTheHome(外部)
Safe RETの導入契機となった2023年のInception攻撃を確認。


















