一瞬の閃光が変えた世界
1945年8月6日、午前8時15分。広島の空に太陽が二つ現れた瞬間、人類の歴史は不可逆的に変わりました。
エノラ・ゲイから投下された原子爆弾「リトルボーイ」は、高度約600メートルで炸裂。爆心地の温度は300万度に達し、半径1キロメートル以内のほぼすべてが蒸発しました。その年の終わりまでに、約14万人が命を落としています。
これは人類が初めて、自らを滅ぼす力を手にした瞬間でした。
科学が兵器になるまで
原子核が分裂するとエネルギーを放出する——この発見は、1938年のドイツで生まれました。オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンの実験により、ウラン原子核に中性子を当てると二つに割れ、膨大なエネルギーが解放されることが判明したのです。
E=mc²。アインシュタインの方程式が示すように、わずかな質量の欠損が、光速の二乗倍というスケールでエネルギーに変換される。理論上、1キログラムの物質が完全にエネルギー化すれば、TNT火薬2000万トン分に相当します。
問題は、この発見が第二次世界大戦の真っ只中でなされたことでした。
1939年、アインシュタインはルーズベルト大統領に手紙を送ります。「ナチス・ドイツが原子爆弾を開発している可能性がある」と。こうして始まったマンハッタン計画には、総額20億ドル(現在の価値で約358億ドル)と13万人が投じられました。ロスアラモス、オークリッジ、ハンフォード——アメリカ各地の秘密施設で、人類史上最も破壊的な兵器が、最高の頭脳によって生み出されていきました。
皮肉なことに、1945年5月にドイツは降伏。当初の「ナチスに対抗する」という大義名分は消えましたが、開発は止まりませんでした。
競争していたのはアメリカだけではなかった
しかし原子爆弾を求めたのは、連合国側だけではありません。
**ドイツの「ウラン・プロジェクト」**には、ノーベル物理学賞受賞者のヴェルナー・ハイゼンベルクが参加していました。重水炉の建設、ウラン濃縮の研究——技術的困難と資源不足により実用化には至りませんでしたが、理論的可能性は十分に理解していました。
**日本も陸軍の「ニ号研究」、海軍の「F研究」**という二つの核開発計画を進めていました。理化学研究所の仁科芳雄博士を中心に、ウラン235の分離研究が行われています。後にノーベル賞を受賞する湯川秀樹も、この時期の軍事研究に関与していたことが知られています。
ソ連もまた、1943年頃から本格的な核開発を開始。イーゴリ・クルチャトフ率いる秘密プロジェクトは、戦後わずか4年で最初の原子爆弾実験を成功させました。
つまり当時の主要国すべてが、この「悪魔の兵器」を手に入れようと競い合っていたのです。
科学者たちの葛藤
1945年7月16日、ニューメキシコ州の砂漠で人類初の核実験「トリニティ」が成功した瞬間、ロバート・オッペンハイマーは古代インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節を思い浮かべました。
「我は死神なり、世界の破壊者なり」
アインシュタインは晩年、こう述懐しています。「私の人生で犯した最大の過ちは、ルーズベルト大統領に原子爆弾製造を促す手紙に署名したことだ」
しかし、彼らの悔恨は結果を知った後のものです。開発の過程では、多くの科学者が「敵国より先に完成させなければ」という使命感に駆られていました。ドイツの科学者も、日本の科学者も、おそらく同じ心境だったでしょう。
愛国心と探究心、そして恐怖心。これらが混ざり合った時、科学はどこへ向かうのか。
核の時代を生きる私たち
2025年現在、世界には約12,000発の核弾頭が存在します。その一発一発が、広島に投下された爆弾の数十倍から数百倍の破壊力を持っています。
一方で、核技術は医療、エネルギー、宇宙探査など、人類の進歩にも貢献してきました。放射線治療で救われた命、原子力発電所が供給する電力、火星探査機を動かすプルトニウム電池——同じ技術が、破壊と創造の両面を持っている。
80年前の今日、広島で起きたことは過去の出来事ではありません。AI、バイオテクノロジー、量子コンピューター——私たちは今も、使い方次第で人類を滅ぼしうる技術を次々と生み出し続けています。
科学者たちの葛藤は、今も続いているのかもしれません。
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参考リンク:
用語解説:
- 核分裂連鎖反応: 一つの原子核の分裂が次の分裂を引き起こし、指数関数的に反応が拡大する現象
- 臨界質量: 核分裂連鎖反応を持続させるために必要な核物質の最小量
- ガンバレル型: 二つの未臨界質量の核物質を高速で衝突させて超臨界状態を作り出す原子爆弾の設計方式































