1945年11月29日、嵐の夜
1945年11月29日、コネチカット州ブリッジポート沖。嵐の中、石油バージが座礁し、2人の船員が取り残されました。海上保安隊も沿岸警備隊も、荒れ狂う海に近づくことができません。警察は半ば諦めかけていました。
そこに現れたのは、まだ実験段階だった機械——YR-5Aヘリコプターでした。パイロットのジミー・ヴィナーは、警察官たちの半信半疑な視線を受けながら、垂直に離陸しました。嵐の中を飛び、ホバリングし、2人を吊り上げる。その日、「垂直に離陸し、人を救う」という概念が、初めて実証されました。
この救助から80年。今日も世界のどこかで、ヘリコプターが命を救っています。
シコルスキーの夢
イゴール・シコルスキーは、ヘリコプターに特別な意味を見出していました。固定翼機は速く、高く飛びます。しかし、垂直に離着陸することはできません。シコルスキーは言いました。「飛行機は花を投下できるだけだが、ヘリコプターは救命できる」と。
彼が開発したYR-5Aは、双発ローターではなく単一のメインローターとテールローターを持つ、当時としては革新的な設計でした。より安定し、より操縦しやすく、そして——より人を救いやすい機体。1945年11月29日の救助は、シコルスキーの夢が現実になった瞬間でした。
この成功は、ヘリコプターが単なる実験機ではなく、実用的な救助ツールであることを世界に示しました。
世界へ、そして日本へ
1952年、スイスが世界初のドクターヘリシステムを創設しました。山岳遭難者を救護し、病院に搬送する仕組みです。1970年代には、ドイツやアメリカで交通事故による犠牲者を減らすための救急ヘリが始まりました。垂直離着陸は、医療アクセスを根本的に変えつつありました。
日本でドクターヘリの必要性が痛感されたのは、1995年1月17日の阪神・淡路大震災でした。道路が寸断され、救急車は身動きが取れません。消防防災ヘリが出動しましたが、当日搬送された傷病者はたった1人だけでした。災害時には、救急医療を専門とするヘリコプターが必要だ——この教訓から、2001年4月、日本でドクターヘリが正式に運航を開始しました。
災害を越えて進化する
2011年3月11日、東日本大震災。15機のドクターヘリが被災地に出動しました。当時全国に配備されていた機体の約70%です。
宮城県石巻市では、津波で破壊された市立病院から100人を超す患者の搬送が行われました。8病院29人のDMAT隊員とドクターヘリ7機が参加し、後に自衛隊ヘリも加わって、救出は深夜に及びました。津波警報が鳴る中での懸命の作業でした。
地震発生の前日に生まれ、重い心臓病を抱えた新生児は、仙台市の病院からドクターヘリで静岡県立こども病院へ搬送されました。被災地では万全の治療態勢が取れなかった小さな命を、静岡県のドクターヘリが救いました。
孤立した医療機関から150人近くを搬送し、ドクターヘリは阪神・淡路大震災の教訓を活かしました。しかし、都道府県を越えて出動するためのルールや、現地での運航調整に課題が残りました。この経験から、各法令の改正、指針の策定がなされました。
2016年4月の熊本地震では、14機が出動し89名に対応しました。日本のドクターヘリは、災害のたびに進化を続けています。
2025年の現在地
2025年現在、日本全国47道府県に57機のドクターヘリが配備されています。年間の出動件数は約3万件。時速200キロ以上で飛行し、50キロ離れた場所にも15分ほどで到着できます。救急車の搬送より救命率が3割高いとされています。
技術も進化しています。2014年から試験運用が始まったD-Call Net(救急自動通報システム)は、交通事故発生時に衝突データから死亡・重症率を推計し、自動的に消防本部やドクターヘリ基地病院に通報します。事故発生から治療開始まで、従来38分かかっていたものが21分へと17分も短縮されました。
2024年2月には、愛知県の藤田医科大学病院に最新のBK117 D-3型が導入されました。5枚ローターによる低騒音・低振動、安定したホバリング性能、フルフラットフロアのキャビンスペース。80年前のYR-5Aから、技術は確実に進化しています。
次の80年へ
1945年11月29日、嵐の夜。誰も信じていなかった機械が、2人の命を救いました。
2025年の今日も、世界のどこかで、ヘリコプターが垂直に離陸し、命を救っています。
次の80年、技術はどこまで人を救えるのでしょうか。
【Information】
イゴール・シコルスキー(1889-1972) ウクライナ出身の航空技術者。ロシア革命後にアメリカに亡命し、シコルスキー・エアクラフト社を設立。現代的なヘリコプターの開発者として知られる。
ドクターヘリ特別措置法(2007年) 正式名称「救急医療用ヘリコプターを用いた救急医療の確保に関する特別措置法」。全国配備を促進するため、運航経費の地方負担を軽減する特別交付税措置を導入。
D-Call Net(救急自動通報システム) 2014年試験運用開始。車載センサーが衝突データから重症度を推計し、自動的にドクターヘリを要請。現在37道県51病院(44機)が対応。
参考リンク






























