電子鼻 嗅覚を失った人に「ニオイの存在」を伝える新技術とは

[更新]2025年12月1日

Aryballe電子鼻×三叉神経刺激 嗅覚を失った人に「ニオイの存在」を伝える新技術とは - innovaTopia - (イノベトピア)

2025年11月26日、Science Advancesに掲載された研究が、嗅覚を失った人に「ニオイの存在」を伝えるための人工ノーズ技術を報告した。

フランスのCNRSと電子鼻スタートアップAryballeは、ニオイを検出するセンサーと、鼻腔内の三叉神経を電気的に刺激するデバイスを組み合わせ、嗅覚障害者でも特定のニオイの違いを感じ分けられるかを検証した。このシステムは嗅神経や嗅球を直接回復させるのではなく、ニオイ情報を「別の神経回路」に載せ替える感覚代替技術として設計されている。

実験では、正常嗅覚者と嗅覚障害者を含む参加者に対し、Aryballeのセンサーが検出したライラックやラズベリーに対応する化合物のニオイを、それぞれ異なるパターンの電気刺激として鼻腔内に提示した。多くの参加者が刺激自体を知覚し、一部は2種類以上のニオイに対応する刺激パターンを区別できることが示され、嗅覚を失っていても「異なるニオイがある」という情報だけは伝えられる可能性が確認された。

研究者たちは、脳の可塑性を利用した今後の訓練(リハビリテーション)によって、ユーザーがこれらの電気刺激パターンと現実世界のニオイを結びつけて学習し、識別精度を向上させられる可能性を探ろうとしている。

From: 文献リンクArtificial ‘nose’ tells people when certain smells are present

【編集部解説】

今回の人工ノーズは、「嗅覚をそっくり元に戻す装置」ではなく、ニオイ情報を三叉神経の刺激として置き換える感覚代替の試みです。嗅球や嗅神経を直接刺激するインプラント路線に比べると、侵襲性を抑えつつも、ニオイの有無や種類の違いを最低限伝えることにフォーカスしたアーキテクチャと言えます。

特に注目したいのは、この技術が「危険検知インフラ」としてどこまで機能し得るかという点です。自然ガスや煙、化学薬品の漏れなど、ごく限られたが重要度の高いニオイにターゲットを絞るなら、鼻腔内に小型デバイスを装着するだけで、嗅覚障害を持つ人がリアルタイムに危険を察知できる世界が見えてきます。

一方で、現在のセンサーは検出できるニオイの種類が少なく、温度や湿度、濃度の変動にも弱いなど、一般的な嗅覚の代替としてはまだ能力不足です。研究チームも、マイクのように「何でも拾える」ニオイ版センサーは存在せず、化学的な課題が大きいことを率直に認めています。

技術が進展した場合のリスクや課題も、同時に考える必要があります。三叉神経への電気刺激を長期にわたって与える安全性、誤検知や検知漏れがもたらす責任の所在、そして「ニオイのログ」が収集されることで生じるプライバシーの問題など、医療機器とウェアラブルが交差する領域ならではの論点が見えてきます。

それでも、この研究の重要な意味は、「失われた感覚を別の健全な感覚チャネルへルーティングする」という発想を実証レベルで示した点にあります。嗅覚に限らず、視覚や聴覚、平衡感覚など、さまざまな感覚障害に対して「人間の感覚アーキテクチャを組み替える」アプローチが広がるきっかけになり得ると考えています。

【用語解説】

嗅球(olfactory bulb)
鼻からの嗅神経が集まり、ニオイ情報を一次処理する大脳前方の構造で、嗅覚インプラントなどの標的部位となります。

嗅覚障害・嗅覚脱失(anosmia)
頭部外傷やウイルス感染などにより、ニオイを部分的または完全に感じられなくなった状態を指す医学的用語です。

電子鼻・化学センサー(e-nose)
複数の化学センサーとデジタル信号処理を組み合わせ、空気中のニオイ分子パターンを検出・分類する装置の総称です。

【参考リンク】

Science Advances: Substitution of human olfaction by the trigeminal system(外部)
三叉神経刺激による嗅覚代替デバイスの実験設計や結果が詳述された本研究の一次論文ページ。

Aryballe Digital Olfaction(外部)
電子鼻とデジタル嗅覚ソリューションを提供するフランス企業で、本研究に用いられたニオイセンサー技術の概要が紹介されている。

Stanford Otolaryngology–Head & Neck Surgery(外部)
Zara Patel が所属する耳鼻咽喉科・頭頸部外科のページで、嗅覚障害や鼻科学に関する臨床と研究の情報が掲載されている。

Massachusetts Eye and Ear(外部)
Eric Holbrook が嗅球刺激や嗅覚障害の治療研究を行う専門病院で、嗅覚関連の臨床・研究情報への入口となっている。

CNRS(外部)
フランス国立科学研究センターで、Moustafa Bensafi や Halina Stanley ら本研究の主要メンバーが所属する研究機関である。

【参考記事】

Prototype device restores lost smell by teaching the brain to feel odors(外部)
三叉神経刺激デバイスを「脳にニオイを感じさせるトレーニング装置」として紹介し、危険検知用途や現時点での限界を整理したニュース記事。

Substitution of human olfaction by the trigeminal system (PMC)(外部)
Science Advances 論文のオープンアクセス版で、被験者数や識別精度などの定量結果と、感覚代替デバイスとしての設計思想が要約されている。

Electrical stimulation of the trigeminal nerve improves olfaction(外部)
三叉神経刺激が既存の嗅覚機能を補強し得ることを示した2022年の研究で、今回の技術が三叉神経を選んだ背景理解に役立つ。

VCU researchers are developing a device to restore a person’s sense of smell(外部)
嗅球を直接刺激するインプラント型デバイスの開発を紹介し、今回の三叉神経経由アプローチとの違いを理解するうえで対照となる。

【編集部後記】

失われた嗅覚を「別の経路」で補おうとする今回の試みを、みなさんはどう感じたでしょうか。また、ご自身の嗅覚が失われたとしたら――ガス漏れや煙、食品の腐敗に気づけない不安や、「香りそのものを楽しむ」体験が失われることを想像すると、この分野の技術は決して他人事ではないように思います。

この人工ノーズがどこまで役に立ち得るのか、そして何がまだ足りないのかを一緒に考えていけたらうれしいです。

投稿者アバター
omote
デザイン、ライティング、Web制作を行っています。AI分野と、ワクワクするような進化を遂げるロボティクス分野について関心を持っています。AIについては私自身子を持つ親として、技術や芸術、または精神面におけるAIと人との共存について、読者の皆さんと共に学び、考えていけたらと思っています。

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