1914年12月18日。大正3年のこの日、東京・丸の内で一つの駅舎が完成式を迎えました。長さ335メートル、鉄骨レンガ造、3階建て。使用された赤レンガは90万個を超えます。設計したのは、辰野金吾。「日本近代建築の父」と呼ばれる建築家です。
この駅舎が完成した当時、建築の世界はすでに変わりつつありました。先端はコンクリートへと移行し、レンガ造りは過去の技術と見なされ始めていました。辰野の選択は、必ずしも時代の最先端ではなかったのです。完成当初、東京駅の評判は芳しくありませんでした。
技術選択とは何でしょうか。
西洋から学んだ技術
辰野金吾は1854年、唐津藩の下級武士の次男として生まれました。1873年、政府が設立した工部大学校(現・東京大学工学部)に第一期生として入学します。ここで彼の師となったのが、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルでした。コンドルは鹿鳴館や三菱一号館を設計した、明治日本が招いた「お雇い外国人」の一人です。
1879年、辰野は首席で卒業しました。その成績により、官費留学生としてロンドンへ派遣されます。3年間、コンドルの師であるウィリアム・バージェスの事務所で実務を学びました。本場で、本物を学んだのです。
1883年に帰国後、辰野はコンドルの後任として工部大学校の教授に就任します。しかし当時、重要な建築の設計は外国人建築家に依頼されることが多く、大きな仕事は回ってきませんでした。転機は1890年。渋沢栄一の抜擢により、日本銀行本店の設計を任されます。1896年に完成したこの建物は、現在も東京・日本橋に建っています。
辰野の設計は「辰野堅固」と呼ばれました。その頑丈さが評価されたのです。赤レンガに白い石材を配した外観は「辰野式建築」として知られ、弟子たちも全国で同様の建築を手がけました。東京駅の設計依頼が来たのは1903年。辰野は帝国大学の教授を辞し、民間の建築家として、念願だった中央停車場の設計に取り組みます。
当初、この駅舎はドイツ人技師フランツ・バルツァーが設計する予定でした。しかし彼が提案した和洋折衷のデザイン——レンガ造りに瓦屋根と唐破風——は、政府の意に沿いませんでした。政府が求めたのは、純粋な西洋建築でした。辰野は、ルネサンス様式をベースにした西洋建築として東京駅を設計しました。使用されたレンガは、埼玉県深谷市の日本煉瓦製造のもの。渋沢栄一が創立した、日本初の機械式レンガ工場です。
1908年に着工し、6年の歳月をかけて1914年に竣工。12月20日、東京駅は開業しました。
1923年9月1日
東京駅完成から9年後、1923年9月1日、関東大震災が発生しました。マグニチュード7.9。東京と横浜を中心に、壊滅的な被害をもたらした大地震です。
この地震で、多くの近代建築が被害を受けました。「最新の」コンクリート建築の中には、崩落したものもありました。しかし東京駅は、ほぼ無傷でした。レンガ造りの駅舎は、揺れに耐えたのです。
辰野の技術選択は、この瞬間に実証されました。最新の技術ではなく、最も確実な技術を選んだこと。流行ではなく、構造の本質を見極めたこと。「辰野堅固」という評価は、ただの評判ではなかったのです。
ただし、東京駅は別の災厄を免れることはできませんでした。1945年5月、東京大空襲により、南北のドーム、屋根、内装が焼失します。戦後の厳しい財政状況の中、駅舎は2階建てに応急復旧されました。ドーム屋根は八角形に変更され、創建時の姿は失われます。辰野金吾自身は、1919年、スペイン風邪により64歳で死去していました。東京駅完成から、わずか5年後のことでした。
2025年、技術の連続
2003年、東京駅丸の内駅舎は国の重要文化財に指定されました。正式名称は「東京駅丸ノ内本屋」。そして2007年、大規模な保存・復原工事が始まります。
この工事の目標は、創建当時の姿への復原でした。焼失した3階部分とドーム屋根を、1914年の設計図と写真をもとに再現します。しかし単なる復原ではありません。地下では大規模な免震工事が行われ、現代の建築基準を満たす構造へと強化されました。工事費は約500億円。2012年10月1日、東京駅は創建時の姿を取り戻しました。
東京駅は1日平均約43万人が利用する、日本の鉄道網の中心です。110年前の技術が、今も機能し続けています。
駅舎の北側、日本橋口前では、別の建設工事が進んでいます。「トーチタワー」。高さ385メートル、地上62階。2028年に完成予定の、日本最高層のビルです。この敷地の地下には、東京都心の変電所があります。重要なインフラを維持しながら、その上に超高層ビルを建てる。現代の建築技術は、こうした課題を解決します。
1914年のレンガ造りと、2028年の超高層ビルが、隣接します。110年の時間が、同じ場所に重なっているのです。
技術は何のために
技術選択の基準は、流行やトレンドではありません。辰野金吾は、レンガという技術を選びました。それは時代遅れと見なされつつありましたが、最も確実な技術でもありました。彼が設計したのは、駅という極めて実用的な建築物でした。しかし同時に、ドーム天井には鷲や鳳凰、十二支のレリーフが施されました。美術館のような装飾です。
機能だけなら、老朽化すれば建て替えればいい。しかし美があれば、技術があれば、110年後も保存され、復原されます。明治・大正期の日本は、西洋に追いつこうとしていました。その過程で、ただ効率的な駅を作るのではなく、「作品」を作ろうとしました。
技術は何のためにあるのか。東京駅は、今日も立っています。
Information
参考リンク
- 東京ステーションギャラリー – 東京駅舎内の美術館
- TOKYO TORCH 公式サイト – トーチタワーを含む再開発プロジェクト
- 文化庁 国指定文化財等データベース – 東京駅丸ノ内本屋の重要文化財指定情報
- 辰野金吾と美術のはなし – 東京ステーションギャラリー – 2019年の没後100年展
用語解説
鉄骨レンガ造(てっこつれんがぞう) 鉄骨で骨組みを作り、その周囲にレンガを積み上げる建築工法。レンガの耐久性と鉄骨の強度を組み合わせた構造。
辰野式建築(たつのしきけんちく) 辰野金吾が得意とした、赤レンガに白い石材を帯状に配するデザイン。ヴィクトリアン・ゴシックの影響を受けており、明治・大正期に多くの建築家が模倣した。
免震構造(めんしんこうぞう) 建物と地盤の間に免震装置を設置し、地震の揺れを建物に伝えにくくする構造。東京駅の復原工事では、地下に免震装置を設置することで、歴史的建築を保存しながら現代の耐震基準を満たした。
工部大学校(こうぶだいがっこう) 1873年に設立された、日本初の工業教育機関。西洋の技術を学ぶため、多くの外国人教師を招いた。現在の東京大学工学部の前身。































