ピエロ・チポローネECB理事会メンバーは、2025年12月19日にローマで、Aspen Institute Italiaの円卓会議で「The future of money: a central bank perspective」と題するスピーチを行った。ユーロシステムは、T2、T2S、TIPS、ECMSなどのインフラを通じてユーロ圏の決済と証券決済を支えてきたが、デジタル決済の普及とDLT、トークン化の進展により、中央銀行マネーの役割が問われていると指摘した。
課題として、SEPAにもかかわらずリテール決済の断片化、トークン化資産における中央銀行マネー不在、国際間決済の高コスト・低速・不透明さ、ドル建てステーブルコイン拡大による通貨主権リスクを挙げた。
これに対応するため、デジタルユーロの準備、2026年からのDLTベース取引の中央銀行マネー決済、他国高速決済システムとの連結によるクロスボーダー決済改善、さらにProject PontesとProject Appiaによるトークン化中央銀行マネー提供を進める方針を示した。
From:
The future of money: a central bank perspective
【編集部解説】
ECBが今回強調しているのは、「デジタルユーロそのもの」よりも、ユーロという通貨システムをデジタル時代にどう再設計するかという大きな文脈です。現金の使用減少、非欧州系カード・ウォレットへの依存、ドル建てステーブルコイン台頭という三重の圧力に対し、通貨主権と戦略的自律性を守るためのインフラ投資として位置づけられています。
技術面では、リテール・ホールセール・クロスボーダーを一体で再構築しようとしている点が重要です。リテールでは、デジタルユーロを「現金のデジタル版」として法定通貨にし、オンライン・オフライン両対応、専用アプリや共通標準を通じて、MastercardやVisaに依存しないユーロ圏共通レールをつくろうとしています。
ホールセール側では、Project PontesとProject Appiaにより、トークン化証券やスマートコントラクトを中央銀行マネーで決済できる環境を整えます。ここでDLTを「一つの正解技術」とはせず、既存のTARGETサービスとブリッジ接続する構成にしているのは、技術中立性と金融安定のバランスを取るためです。
クロスボーダー決済では、TIPSをインドのUPIや他地域の高速決済システムと相互接続する構想が、すでに具体的な実務フェーズに入っています。これにより、個人送金や中小企業の決済コスト・時間を削減しつつ、ドル建てステーブルコインではなく、法定通貨ベースの即時送金ネットワークでG20のロードマップに応えようとしている点が特徴です。
ポジティブな側面としては、ユーロ圏の決済が「欧州発の共通スタック」に乗ることで、フィンテック企業や銀行が国境を超えてサービス展開しやすくなり、利用者は手数料と事業者ロックインの両方から解放される可能性があります。同時に、中央銀行マネーがデジタル空間の「最終決済レイヤー」として明確に残ることで、デジタル資産バブルやステーブルコインの破綻時にも、システム全体の安定を確保しやすくなります。
一方で、デジタルユーロの導入は、銀行預金から中央銀行への資金シフト、個人の取引データ集中、サイバー攻撃リスクといった論点を避けて通れません。ECBは「無利息」「保有限度額」「銀行経由の分配」という設計で銀行の役割を守ると明言していますが、実際の市場行動がどう動くかは発行後に検証が必要です。
長期的には、ユーロ圏のCBDCとトークン化された中央銀行マネーが「デジタル資本市場同盟」の基盤となり、欧州発の金融インフラがグローバル・スタンダードの一角を占める可能性があります。逆に言えば、今このタイミングで動かなければ、分散型金融やステーブルコインの標準が他地域で確立し、ユーロはその上で「使わせてもらう通貨」に後退しかねない——ECBはそこまでの危機感を、今回かなりはっきり示しているといえます。
【用語解説】
DLT(分散型台帳技術)
Distributed Ledger Technologyの略。情報をネットワーク全体で共有し同期させる技術。ブロックチェーンもDLTの一種だが、DLTはより広い概念であり、中央管理者なしでデータの整合性を保つ仕組み全般を指す。
トークン化
資産をプログラム可能なデジタルトークンとして変換または発行するプロセス。トークンには資産情報と利用ルールの両方を埋め込むことができ、スマートコントラクトによる自動執行も可能になる。
SEPA(単一ユーロ決済圏)
Single Euro Payments Areaの略。ユーロ圏内での振込や口座引落を統一ルールで処理する枠組み。しかし、カード決済やウォレット決済の統一標準は未整備という課題を抱える。
ステーブルコイン
法定通貨や資産に価値を連動させた暗号資産。ドル建てステーブルコインが市場の大半を占め、ユーロ建ては少数派にとどまる。ECBはこれを通貨主権へのリスクと位置づけている。
アトミック決済
資産の引渡しと代金支払いが同時に完了する仕組み。どちらか一方が失敗すれば両方キャンセルされるため、カウンターパーティリスクを排除できる。
コルレス銀行チェーン
国際送金において、複数の仲介銀行を経由して資金を移動させる従来の仕組み。チェーンが長いほど手数料が高く、処理時間も長くなる。
【参考リンク】
欧州中央銀行(ECB)公式サイト(外部)
ユーロシステムの中核機関であるECBの公式ウェブサイト。金融政策、決済インフラ、デジタルユーロに関する最新の公式声明や技術レポートを公開している。
TIPS(TARGET Instant Payment Settlement)(外部)
ECBが運営する即時決済システム。ユーロ圏内で24時間365日、10秒以内の決済を中央銀行マネーで実現する。
Project Pontes(外部)
市場のDLTプラットフォームを既存のTARGETサービスに接続し、トークン化資産取引を中央銀行マネーで決済可能にするプロジェクト。
Project Appia(外部)
統合されたデジタル資産エコシステムを構築するプロジェクト。共有台帳方式と相互運用可能なネットワーク方式の2つのアプローチを探求。
デジタルユーロ公式ページ(外部)
ECBによるデジタルユーロプロジェクトの専用サイト。設計思想、技術仕様、パイロット計画、FAQ、各種レポートを集約している。
【参考動画】
Digital Euro: Europe’s Fight for Unity, Sovereignty & Resilience – Piero Cipollone ECB Speech
2025年9月のCipollone理事のスピーチ動画。デジタルユーロがヨーロッパの統合、主権、回復力にどう寄与するかを詳説している。
【参考記事】
ECB moves forward with UPI-TIPS integration(外部)
ECBとインド準備銀行がTIPSとUPIの相互接続に向けた技術検証を完了し、送金手数料と処理時間の大幅削減を目指す段階に入った。
RBI–ECB Move to Implement UPI–TIPS Link for Faster Remittances(外部)
インドとユーロ圏間の個人送金で年間約140億ドル規模の市場があり、UPI-TIPS連携で手数料を従来の6-8%から1%未満に削減可能。
ECB’s Cipollone emphasises ‘autonomy and security’ of digital euro at Estonia speech(外部)
Cipollone理事がデジタルユーロの設計において、銀行預金流出を防ぐ保有上限、オフライン機能、サイバーセキュリティ対策を強調。
ECB launches two-track road to DLT settlement in central-bank money(外部)
Project PontesとProject Appiaの二重トラック戦略が正式発表された際の技術詳細。共有台帳方式とネットワーク方式の比較を解説。
【編集部後記】
デジタルユーロは単なる「電子マネー」ではなく、ユーロ圏が通貨主権をどう守るかという大きな問いへの答えなのかもしれません。私たちが日常使うカードやウォレットの多くが米国企業のものであり、国際送金の大半がドルを経由している現実を考えると、この動きは決して対岸の火事ではないはずです。
日本円のデジタル化、アジア域内決済、ステーブルコイン規制——みなさんはこれらの動きにどんな未来を感じますか?ぜひご意見をお聞かせください。































