1885年7月6日、パリ。フランスの微生物学者ルイ・パスツールは、狂犬に咬まれた9歳の少年ジョゼフ・マイスターに、世界で初めて狂犬病ワクチンを接種しました。11日間の治療を経て、少年は発症を免れました。実は狂犬病の原因はウイルスで、当時の顕微鏡では見ることができませんでした。パスツールは見えない敵と闘ったのです。
それから140年。12月27日は国際疫病対策の日です。2020年12月、新型コロナウイルスのパンデミックを受けて国連が制定したこの日は、奇しくもパスツールの誕生日でもあります。
見えない敵をいかに見るか。この問いに、人類はどう答えてきたのでしょうか。
見えないものを見る——技術の140年
パスツールの時代、ウイルスは推測するしかありませんでした。1990年代、ポリオ根絶のために下水道でウイルスを監視する試みが始まります。2003年のSARS流行時、全ゲノム解析には数ヶ月かかりました。
2020年、SARS-CoV-2が発見されると、わずか数日で全ゲノム解析が完了し、そのデータは即座に世界中で共有されました。デジタルPCRという技術により、下水から微量のウイルスRNAを検出できるようになりました。感染者が糞便中に排出するウイルスを捉え、地域全体の感染動向を把握する——下水道サーベイランスです。
見えなかったものが見えるようになり、さらに「先回り」できるようになったのです。
都市そのものがセンサーになる
下水道サーベイランスは、都市を巨大な監視システムに変えました。その仕組みはシンプルです。下水処理場で24時間かけて採取したサンプル、または午前8〜10時の単一サンプルを濃縮し、デジタルPCRでウイルスRNAを検出します。
なぜ臨床データより早いのか。感染者は症状が出る前から糞便中にウイルスを排出します。検査を受けない無症状者、医療にアクセスできない人々も含め、下水道は地域全体の感染状況を映し出すのです。
米国の国家下水道サーベイランスシステム(NWSS)は、2020年9月の開始から約1,602サンプリングサイトへ拡大し、推定1億5,100万人——米国人口の約45%をカバーしています。日本でも札幌市が2021年2月から継続的に実施し、神奈川県など複数の自治体が参加しています。
スウェーデンでは、航空機や空港の下水システムからサンプルを採取し、新しい変異株の侵入を早期検出しています。テキサスの下水処理施設では、鳥インフルエンザH5N1のバイオマーカーが、乳牛での最初の症例確認より1ヶ月以上前に検出されました。
飛行機のトイレまで監視できる時代です。
マルチ病原体監視への進化
下水道サーベイランスは、COVID-19だけではありません。現在、インフルエンザA・B、RSV(呼吸器合胞体ウイルス)、H5N1、mpox(サル痘)など、複数の病原体を同時に監視するシステムへと進化しています。
2025年には、WHO主導でWaSPP(Wastewater Surveillance for Pandemic Prevention)という世界的ネットワークが発足する予定です。市場規模は2025年に8.8億ドル、2030年には12.2億ドルに達すると予測されています。
技術は確実に進化しました。
2025年の現実——維持できるか
しかし、課題もあります。米国NWSSの資金は2025年9月30日に枯渇する予定です。日本では、養父市のように約3年間実施した下水サーベイランス事業を2025年度は一旦見送る自治体もあります。
技術的な課題も残っています。ウイルスの回収率は依然として低く、下水中の不純物がウイルスを吸着してしまいます。濃度と実際の感染者数の関係も、完全には解明されていません。
技術は飛躍的に進化しました。パスツールが見えなかった敵を、私たちは下水から検出できます。問題は、この能力を維持し、世界に広げられるかです。
次のパンデミックは必ず来ます。その時、私たちは準備ができているでしょうか。
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参考リンク:
用語解説:
デジタルPCR(ddPCR):サンプルを数万個の微小液滴に分割し、それぞれでPCR反応を行う技術。従来のqPCRより正確な定量が可能で、PCR阻害物質にも強い。
PMMoV(ペッパーマイルドモットルウイルス):人間の糞便中に常在するウイルス。下水サンプルを標準化するための指標として使用される。
一次汚泥:下水処理場の最初の沈殿過程で沈降した固形物。ウイルスが自然に濃縮されるため、サーベイランスに適している。
WaSPP(Wastewater Surveillance for Pandemic Prevention):2025年にWHO主導で発足予定の、下水道サーベイランスの世界的ネットワーク。































