コロラド大学ボルダー校の研究チームが、量子コンピューター向けの新型光位相変調器を開発した。この成果は学術誌『Nature Communications』に2025年12月8日に発表された。研究を主導したのは博士課程入学予定のジェイク・フリードマンと、マット・アイヒェンフィールド教授で、サンディア国立研究所のニルス・オッターストロムらも参加した。
デバイスは人間の髪の毛の幅の100分の1の薄さで、CMOS製造技術を用いて200ミリウエハー上で製造される。マイクロ波周波数の振動により、730ナノメートルの可視光を2.31ギガヘルツで変調する。既存の商用変調器と比較して約100倍少ないマイクロ波電力で動作し、80ミリワットの電力で最大4.85ラジアンの変調深度を達成する。500ミリワット以上の光パワーに対応する。
トラップイオンやトラップ中性原子を用いる量子コンピューターでは、量子ビットを制御するために極めて高精度なレーザー周波数制御が必要となる。プロジェクトは米国エネルギー省の量子システムアクセラレータープログラムの支援を受けた。
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This tiny chip could change the future of quantum computing
【編集部解説】
量子コンピューターの実用化を阻む大きな壁の一つが、量子ビットを制御するためのレーザーシステムの巨大さと電力消費でした。今回の研究は、その壁を打ち破る可能性を秘めています。
現在の量子コンピューターでは、トラップイオンやトラップ中性原子を量子ビットとして使用する方式が有力視されています。これらの原子を精密に制御するには、周波数が10億分の1パーセント以内の精度で調整されたレーザー光が必要です。しかし従来は、このような精密な周波数制御を行うために、卓上サイズの大型装置を使わざるを得ませんでした。
研究チームが開発した音響光学位相変調器は、圧電トランスデューサーとフォトニック導波路を波長スケールの単一構造内に統合したものです。2ミリメートルの長さのデバイスで、既存の商用製品と比較してマイクロ波電力を約100分の1に削減しながら、同等以上の性能を実現しています。論文によれば、変調性能の指標であるVπ値も従来比15分の1に改善されました。
特筆すべきは、この技術がCMOS製造プロセスで実現されている点です。スマートフォンやコンピューターのプロセッサと同じ製造ラインで大量生産できるということは、コストの大幅な削減と品質の安定化を意味します。現在の量子コンピューターは実験室レベルの手作業で構築されていますが、この技術により産業規模での製造が視野に入ってきました。
電力消費の削減は発熱量の低減に直結し、より多くの光チャネルを単一チップ上に集積できるようになります。将来的に数千から数百万の量子ビットを制御する大規模量子コンピューターを実現するには、このようなスケーラビリティが不可欠です。
研究チームは次のステップとして、周波数生成、フィルタリング、パルス整形を統合した完全なフォトニクス回路の開発を進めており、量子コンピューティング企業との実機テストも予定されています。量子コンピューターの商用化に向けた重要なマイルストーンと言えるでしょう。
【用語解説】
量子ビット(qubit)
量子コンピューターにおける情報の基本単位。古典的なコンピューターのビットが0か1のいずれかの状態を取るのに対し、量子ビットは重ね合わせにより0と1の両方の状態を同時に取ることができる。この性質により、量子コンピューターは特定の問題において従来のコンピューターを大幅に上回る計算能力を発揮する。
トラップイオン / トラップ中性原子
量子コンピューターの量子ビットとして用いられる原子を、電磁場やレーザー光によって空間中に捕捉(トラップ)する技術。イオンは電荷を持つ原子、中性原子は電荷を持たない原子を指す。これらの原子は外部からのノイズの影響を受けにくく、高い精度で量子状態を制御できるため、量子コンピューターの有力な実装方式として研究されている。
光位相変調器
レーザー光の位相(波の山と谷のタイミング)を制御するデバイス。位相を変化させることで、光の周波数や進行方向を精密に調整できる。量子コンピューターでは、量子ビットである原子を操作するために、極めて正確に調整されたレーザー光が必要となるため、高性能な位相変調器が不可欠となる。
音響光学効果
音波(機械的振動)と光の相互作用により、光の性質を変化させる現象。音波によって物質内に周期的な密度変化が生じ、これが光の回折格子として働くことで、光の周波数や進行方向を制御できる。今回の研究では、ギガヘルツ帯域のマイクロ波周波数振動を利用している。
CMOS製造
相補性金属酸化膜半導体(Complementary Metal-Oxide-Semiconductor)技術を用いた半導体製造プロセス。現代のほぼすべてのマイクロプロセッサやメモリチップの製造に使われている標準的な技術であり、高い歩留まりと低コストでの大量生産が可能。この技術で量子コンピューター用部品を製造できることは、商用化への大きな前進を意味する。
フォトニクス
光子(フォトン)を用いた技術の総称。電子の代わりに光を情報伝達や処理に利用することで、高速化や低消費電力化が期待される。集積フォトニクスは、光学素子をチップ上に集積する技術で、光通信や量子情報処理などの分野で重要性が高まっている。
Vπ(ブイパイ)
位相変調器の性能を示す指標の一つ。光の位相をπラジアン(180度)変化させるために必要な電圧を表す。この値が小さいほど、少ない電力で効率的に光を制御できることを意味し、省エネルギーで高性能なデバイスであることを示す。
【参考リンク】
University of Colorado Boulder(外部)
コロラド州ボルダーに本部を置く州立研究大学。特に物理学、工学、宇宙科学の分野で高い評価を得ており、量子工学研究の拠点として知られる。
Sandia National Laboratories(外部)
米国エネルギー省傘下の国立研究機関。国家安全保障、エネルギー、環境技術の研究開発を行い、量子技術や先端フォトニクス研究でも主導的役割を果たす。
Nature Communications(外部)
ネイチャー・リサーチが発行するオープンアクセスの学術誌。自然科学全般をカバーし、査読を経た高品質な研究論文を掲載する国際的に権威のある学術誌。
Quantum Systems Accelerator(外部)
米国エネルギー省が支援する国家量子イニシアチブ科学研究センター。量子コンピューティング、量子センシング、量子ネットワーキングの実用化を目指す。
【参考記事】
Gigahertz-frequency acousto-optic phase modulation of visible light in a CMOS-fabricated photonic circuit(外部)
Nature Communicationsに掲載された原著論文。80ミリワットで4.85ラジアンの変調深度を達成し、商用品比100倍の電力削減を実現した技術的詳細を記載。
【編集部後記】
量子コンピューターの実用化は、もはや「いつか実現する未来」ではなく、「どのように実現するか」を議論する段階に入ってきました。今回の研究が示すのは、既存の半導体製造技術との融合という現実的なアプローチです。皆さんが日常的に使っているスマートフォンと同じ製造ラインで量子コンピューターの心臓部が作られる未来を想像してみてください。
この技術が実用化されたとき、私たちの社会や産業はどのように変わっていくでしょうか。量子コンピューティングがもたらす可能性について、ぜひ一緒に考えてみませんか。































