1927年12月30日午前6時、上野駅地下。東京地下鉄道の開業を待つ人々の列は、地上の出入口まで続いていました。日本初、そして東洋初の地下鉄が動き出す瞬間です。運賃10銭を握りしめた乗客たちは、アメリカ製の自動改札機「ターンスタイル」に10銭硬貨を投入し、回転バーを押して地下へと降りていきました。2.2kmの地下トンネルを抜けて浅草へ。所要時間わずか4分50秒の旅に、2〜3時間待ちの行列ができたといいます。
この日、日本の都市交通は新たな次元へと踏み出しました。路面電車だけでは対応しきれなくなった東京の人の流れを、地下空間が飲み込み始めたのです。ロンドンで1863年に世界初の地下鉄が開業してから64年。東京は地下という三次元空間を都市の一部として組み込む、大きな実験を始めました。
しかし、「地下鉄」という言葉が示す技術は、実は一つではありません。同じ「地下を走る鉄道」でも、その走り方には複数の答えがあります。1927年の東京から44年後、雪国・札幌で開業した地下鉄は、東京とはまったく異なる技術を選択しました。車輪は鉄ではなく、ゴムでした。
東京が選んだ鉄輪――1927年の挑戦
1927年の東京地下鉄道は、鉄の車輪が鉄のレールの上を走る、鉄輪式を採用しました。これは世界の地下鉄の標準でもあり、ロンドン、ニューヨーク、パリと同じ方式です。
鉄輪式の最大の利点は、転がり抵抗の小ささにあります。鉄と鉄の接触面は極めて小さく、摩擦係数は0.25〜0.30程度。いったん走り出せば、少ないエネルギーで速度を維持できます。長距離を高速で移動する鉄道にとって、これは決定的な優位性です。
開業当時の車両「1000形」は全鋼製で、日本初のドア・エンジンを採用。車体色は明るいレモンイエロー。「東洋唯一の地下鉄道」として話題を集め、地下鉄そのものがアトラクションのような存在でした。
その後、東京の地下鉄網は拡大を続けます。1934年には浅草〜新橋間が全通し、1939年には渋谷まで延伸。鉄輪式は日本の地下鉄の標準となり、大阪、名古屋、横浜へと広がっていきました。
札幌が選んだゴムタイヤ――1971年、雪国の決断
1971年12月16日。札幌市営地下鉄南北線が北24条駅〜真駒内駅間で開業しました。全国で4番目、三大都市圏以外では初の地下鉄です。翌年に控えた札幌オリンピックに向けて、急ピッチで建設が進められました。
この地下鉄には、東京にはない特徴がありました。車輪がゴムタイヤだったのです。
私は札幌出身で、この地下鉄に何度も乗っています。最も印象的なのは、やはり加速の速さです。駅を出発すると、ぐっと背中を押されるような力強さで速度が上がっていく。一般的な地下鉄の起動加速度が3〜4km/h/sであるのに対し、札幌の5000形は4.0km/h/s。最後部の車両がホームを離れる頃には、最高速度の70km/hに達する勢いです。
なぜ札幌はゴムタイヤを選んだのでしょうか。
最大の理由は、雪国特有の事情にありました。南北線の南平岸〜真駒内間は、建設費とオリンピックまでの工期を考慮して高架方式を採用。地上を走るため、騒音対策が必要でした。ゴムタイヤは鉄輪に比べて静かです。また、地下から地上へと急勾配を登る必要があり、登坂能力に優れるゴムタイヤが適していました。
技術的には、ゴムタイヤの摩擦係数は0.5〜0.6以上と、鉄輪の約2倍。この高い摩擦力が、優れた加減速性能と登坂能力を生み出します。最大70‰(1000m進んで70m登る)の勾配にも対応可能です。乗り心地も良く、振動が少ない。駅間距離の短い都市部では、この加減速性能が運行効率を高めます。
ただし、課題もあります。転がり抵抗が大きいため、消費電力は鉄輪式より高め。タイヤの交換コストもかかります。そして何より、標準規格が存在しないため、他の鉄道との相互乗り入れができません。札幌の地下鉄は、JR線と接続はしても、直通運転はできないのです。
それでも札幌は、この技術を選びました。高架区間は巨大なアルミ製シェルターで覆い、雪の影響を完全に遮断。独自の「札幌方式」として、鉄輪と鉄軌条を併用しない完全ゴムタイヤ式を確立しました。東西線(1976年)、東豊線(1988年)と路線を拡大し、現在では総延長48km、46駅の地下鉄網を形成しています。
世界に広がる多様な「答え」
ゴムタイヤ式地下鉄は、札幌だけの選択ではありません。
この技術の起源は、第二次世界大戦後のパリにあります。荒廃したメトロを刷新するため、ミシュランが開発したゴムタイヤ式が1956年、11号線に導入されました。急勾配の路線に適しており、その後1号線、4号線、6号線へと広がりました。ただしパリ方式は、鉄輪も併用します。パンク時やポイント通過時に鉄輪が使われ、鉄輪式との混在運用も可能です。
モントリオール地下鉄は1966年、完全なパリ方式を採用して開業しました。寒冷地でのゴムタイヤ使用は前例がありませんでしたが、パリから車両MP 59を導入し、厳しい冬を乗り越えました。現在4路線、60km以上を運行し、北米ではニューヨーク、メキシコシティに次ぐ利用者数を誇ります。
札幌方式は、これらとも異なります。鉄輪を完全に廃し、走行輪も案内輪もすべてゴムタイヤ。軌道中央に1本の案内軌条を配置し、案内輪で挟んで方向を制御します。世界で唯一の方式です。
2025年現在、地下鉄の主流は依然として鉄輪式です。相互乗り入れのしやすさ、エネルギー効率、標準化された技術という利点が、多くの都市で選ばれる理由です。東京メトロは丸ノ内線で自動運転の実証実験を進めており、鉄輪式でも技術革新は続いています。MaaSとの統合、リアルタイムデータ活用など、地下鉄は新たな進化の段階に入っています。
技術に「唯一の正解」はない
1927年の東京と1971年の札幌。それぞれが選んだ技術は異なりますが、どちらも「正しい」選択でした。
東京は鉄輪式を選び、広域ネットワークと相互乗り入れの利便性を手に入れました。札幌はゴムタイヤ式を選び、雪国の地形と気候に最適化された地下鉄を実現しました。パリとモントリオールは、歴史的市街地の複雑な地下空間に適した技術を見出しました。
技術は、その土地の気候、地形、歴史、そして人々のニーズに応じて選ばれます。「地下鉄」という同じ言葉の下に、多様な技術が共存している。
この多様性は、何を意味するのでしょうか。
Information
参考リンク:
- 日本地下鉄協会「チカテツ100知りのススメ」https://www.jametro.or.jp/100/001.html
- 札幌市交通局「地下鉄(高速電車)の概要」https://www.city.sapporo.jp/st/subway/gaiyo/gaiyo.html
- 地下鉄博物館(東京都江戸川区)https://www.chikahaku.jp/
用語解説:
- 案内軌条式鉄道:軌道中央に配置された案内軌条を車両の案内輪で挟み、方向を制御する鉄道方式。札幌市営地下鉄が採用。
- 摩擦係数:物体と物体の間の摩擦の大きさを示す数値。鉄輪式は0.25〜0.30程度、ゴムタイヤ式は0.5〜0.6以上。
- 起動加速度:停止状態から加速する際の加速度。単位はkm/h/s(1秒間に時速が何km上昇するか)。
- 勾配(こうばい):坂の傾斜の度合い。70‰は1000m進んで70m上昇することを示す。
- MaaS(Mobility as a Service):複数の交通手段を統合し、検索・予約・決済を一括で行えるサービス。































