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Eon Systems、世界初の全脳エミュレーション身体化に成功—ハエの脳がデジタルの体を動かした

ハエの脳が、仮想の身体を動かした。強化学習でも、アニメーションでもなく、電子顕微鏡で写し取った生物学的な配線図そのものが、知覚し、判断し、行動する——その瞬間が、2026年3月7日に訪れた。


Eon Systems PBC は2026年3月7日、ショウジョウバエ(Drosophila melanogaster)の全脳エミュレーションを物理シミュレーションの身体と統合し、複数の行動を生成することに成功したと発表した。

同社のシニアサイエンティスト、フィリップ・シウらが2024年に Nature へ発表した計算モデルを基盤としており、約14万のニューロンと5000万のシナプス結合をFlyWireコネクトームから構築したものだ。身体との統合にはNeuroMechFly v2フレームワークとMuJoCo物理エンジンを使用した。次の目標は約7000万ニューロンを持つマウスの脳の完全なデジタルエミュレーションであり、最終的にはヒトスケールのエミュレーション実現を掲げている。

From: 文献リンクThe First Multi-Behavior Brain Upload

【編集部解説】

今回 Eon Systems PBC が公開したデモ映像は、ショウジョウバエの「脳のコピー」が仮想の身体を動かす様子を初めて映したものです。しかしこの一文だけでは、何が本当に新しいのかが伝わりにくい。ここで少し立ち止まって、この技術の「どこが画期的なのか」を整理したいと思います。

これまでの研究には大きく2つの系統がありました。①脳の神経回路を精密にマッピングするが、身体とは接続しない「脳だけ」のモデル、②強化学習で訓練された「身体だけ」のシミュレーション、です。今回 Eon Systems がやり遂げたのは、この2つを初めて一本の閉じたループとして繋ぐことでした。感覚入力→神経活動の伝播→運動出力→身体の動作、という「知覚から行動へのサイクル」が、生物学的なコネクトームから自律的に生まれた。これが本質的な意味での「初めて」です。

技術的な補足として、脳モデルには「LIF(リーキー・インテグレート・アンド・ファイア)モデル」と呼ばれる手法が採用されています。実際の神経細胞は複雑な化学・電気的特性を持ちますが、LIFはそれを「電荷がある閾値を超えたら発火する」というシンプルな数式で近似します。今回の成果は、このあえて単純化されたモデルでも、コネクトームの「配線図」の情報量だけで複数の行動が再現できることを示した点でも重要です。

ただし、Eon Systems 自身が公式に認めているように、現段階では相当な簡略化が伴います。このモデルには、神経化学(ホルモンや神経修飾物質)、グリア細胞、そして学習・可塑性の機構がありません。走査されたのは死んだハエの脳であり、生きた状態の動的な変化は含まれていない。また、元々のFlyWireスキャンは脳のみで身体の神経系は含まれていないため、脳の運動出力と仮想身体の筋肉の接続部分には推定が入っています。Eon Systems はこれを「研究プラットフォームの第一歩」と位置づけており、完成品と受け取るのは誤りです。なお、本デモは現時点で査読付き論文として発表されていない点も念頭に置く必要があります。

こうした制約を踏まえた上で、この技術が持つ波及効果を考えてみましょう。最も現実的で近い応用は、神経疾患の研究です。アルツハイマー病やパーキンソン病、うつ病のような疾患が脳の回路レベルでどのように生じるかを、仮想環境で実験できるようになる可能性があります。次に、ロボット工学への応用です。進化が数億年かけて最適化した昆虫の運動制御を丸ごとコピーできるなら、それはドローンや多脚ロボットの制御アルゴリズムになりえます。さらに長期的には、AIの設計思想そのものへの影響も見逃せません。現在主流のAIはデータと勾配降下法によって「学習」しますが、全脳エミュレーションは生物学的な配線図から「行動を召喚する」アプローチです。両者が融合する未来は、十分考えられます。

一方で、潜在的なリスクや倫理的問題にも向き合う必要があります。最も議論を呼ぶのは「意識」の問題です。今回のハエの脳エミュレーションが「意識を持つか」という問いには、現在の科学は答えられません。しかし、より複雑な生物の脳——マウス、そして人間——のエミュレーションが現実味を帯びてくる中で、エミュレーションされた存在の法的・倫理的な地位はどうあるべきか、という議論は早急に必要です。また、全脳エミュレーション技術が誰の手に渡るのか、軍事転用や監視技術への応用、そして知的財産としての「脳データ」の扱いなど、規制の枠組みはまだほとんど存在しません。

Eon Systems の次のターゲットはマウスの脳(約7000万ニューロン)です。ハエとマウスの間には560倍という量的なギャップがありますが、今回の成果が示したのは「種類の問題ではなく規模の問題」という見通しです。これを達成できるかどうかが、人間スケールのエミュレーションへのロードマップの信憑性を大きく左右します。ハエの脳のコネクトームマッピングには電子顕微鏡による超薄切片撮影とコンピューターによる再構成を経て膨大な人手と年数を要したことが報告されており、マウスへのスケールアップには技術的・経済的に相当の課題が待ち受けています。

私たちが目撃しているのは、AIの文脈で語られることの多いシンギュラリティとは別の経路——生物学的な脳をデジタルに「転写する」という経路——が、初めて現実の一歩を踏み出した瞬間かもしれません。

【用語解説】

全脳エミュレーション(WBE:Whole Brain Emulation)
生物の脳をニューロン単位でデジタルにコピーし、コンピューター上で動作させようとする技術・研究領域。AIが「知性を設計する」アプローチとは異なり、進化が作り上げた脳の配線をそのまま再現しようとする点が特徴だ。

コネクトーム(Connectome)
脳内のすべてのニューロンとシナプス接続を網羅的にマッピングした「配線図」。電子顕微鏡で脳を超薄切片にして撮影し、コンピューターで再構成することで作成される。ショウジョウバエの全脳コネクトームは電子顕微鏡による超薄切片撮影とコンピューターによる再構成を経て完成したものであり、その検証作業には膨大な人手と年数を要したことが報告されている。

LIFモデル(リーキー・インテグレート・アンド・ファイア:Leaky Integrate-and-Fire)
ニューロンの動作を数式で近似する計算モデルの一種。実際のニューロンは複雑な電気化学的特性を持つが、LIFは「入力電荷が閾値を超えたら発火する」という単純な式で近似する。計算効率が高く、大規模な神経回路シミュレーションに広く用いられている。

強化学習(Reinforcement Learning)
報酬と罰を繰り返すことで望ましい行動を学習させるAIの手法。DeepMindとJaneliaのMuJoCo実験ハエはこの手法で動作を習得したが、Eon Systemsのアプローチとは根本的に異なる。生物学的な配線をそのまま用いる全脳エミュレーションは、学習データを必要としない。

感覚運動ループ(Sensorimotor Loop)
「感覚入力→神経処理→運動出力→新たな感覚入力」という知覚と行動が閉じたサイクルを形成すること。今回のデモが初めてこのループを全脳エミュレーションとして閉じることに成功した。

拡張顕微鏡法(Expansion Microscopy:ExM)
脳組織を物理的に膨張させることで、通常の光学顕微鏡では見えないナノスケールの神経接続を可視化する技術。Eon Systemsがマウス脳のコネクトームマッピングに活用している。

カルシウムイメージング・電位イメージング
生きた脳組織内で実際にニューロンがどのように活性化するかを可視化する計測技術。カルシウムや電位の変化を蛍光で捉える。コネクトームの「構造情報」に「機能情報」を加えるために不可欠であり、Eon Systemsはこれを数万時間分収集中だ。

【参考リンク】

Eon Systems PBC 公式サイト(外部)
全脳エミュレーション実現をミッションとするサンフランシスコのバイオテクノロジースタートアップ。今回の世界初デモを発表した企業だ。

FlyWire 公式サイト(外部)
プリンストン大学が中心となる国際プロジェクト。約14万ニューロン・5000万シナプスのショウジョウバエ全脳コネクトームを公開している。

MuJoCo 公式サイト(外部)
Google DeepMindが開発するオープンソース物理シミュレーションエンジン。ロボット工学・生体力学研究で広く使われており、今回の仮想ハエ身体の動作に使用された。

OpenWorm 公式サイト(外部)
線虫(C. elegans)の約302ニューロンの神経系をオープンソースでシミュレートするプロジェクト。全脳エミュレーションの先行研究として参照される。

【参考記事】

How the Eon Team Produced a Virtual Embodied Fly | EON Systems(外部)
Eon Systems公式による技術解説。約14万ニューロンのLIFモデル採用、87関節の仮想身体、現段階の簡略化を公式に認めた一次情報だ。

The internet is buzzing about a digital fly brain: Are humans next? | Cybernews(外部)
モデルが「意図的に低次元な設計」であることや、実装済み感覚入力が一部のみである点など、Eon Systems自身の公式見解を詳しく報じている。

Whole Brain Emulation Achieved: Scientists Run a Fruit Fly Brain in Simulation | RathBiotaClan(外部)
127,400ニューロン・運動予測精度91〜95%など技術的数値を詳述。3システム統合の経緯も丁寧に解説した記事だ。

Startup claims first full brain emulation of a fruit fly in a simulated body | The Decoder(外部)
OpenWormの302ニューロンとの比較や、身体接続コードが未公開である点など重要な留保事項を簡潔に指摘した技術系メディアの記事だ。

Eon Systems Emulates a Fly’s Brain and Reopens the Debate on the Path to AGI | Cerebro Digital(外部)
神経化学・グリア細胞・可塑性が含まれないことなど、モデルの技術的限界を批評的な視点で明確に指摘した分析記事だ。

Sci Fi Fruit Flies in The Hypegiest | Saanya Ojha(外部)
コネクトミクス・神経モデリング・身体化AIという3分野の交点として本研究を位置づけ、科学的慎重さと哲学的インパクトを両面から論じている。

A Fly Has Been Uploaded | Marginal Revolution(外部)
経済学者タイラー・コーエンによる短評。本デモが査読付き論文として未発表である点を明記し、情報信頼性の評価に有益な視点を提供している。

Notable Progress Has Been Made in Whole Brain Emulation | LessWrong(外部)
コネクトームマッピングの速度・精度の限界とLIFモデルの制約を詳述。今回のデモの技術的課題を理解するための重要な参考情報だ。 

【編集部後記】

生物の脳をそのままコピーして、コンピューターの中で動かす。ついこの間まで、それはSFの話でした。でも今回、ショウジョウバエとはいえ、本当にやってのけた人たちが現れました。

しかも「それっぽく動くAI」ではなく、本物の脳の配線をそのまま使って。これがどれだけすごいことか、じわじわ伝わってきませんか?

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Ami
テクノロジーは、もっと私たちの感性に寄り添えるはず。デザイナーとしての経験を活かし、テクノロジーが「美」と「暮らし」をどう豊かにデザインしていくのか、未来のシナリオを描きます。 2児の母として、家族の時間を豊かにするスマートホーム技術に注目する傍ら、実家の美容室のDXを考えるのが密かな楽しみ。読者の皆さんの毎日が、お気に入りのガジェットやサービスで、もっと心ときめくものになるような情報を届けたいです。もちろんMac派!

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