テクノロジーは便利な道具である以前に、私たちが世界に触れる仕方そのものを作り替える。スマートフォン、ネットワーク、そしてブロックチェーン——それらは、いつのまにか人間の“意味の枠組み”を更新していく。
近代以降とりわけこの50年の技術発展が生み出したのは、新しいプロダクトだけではなく、これまで人類が出会ってこなかった「世界のあり方」なのかもしれないですね。ハイデガーのいう「世界内存在」や「存在」を手掛かりに、今回は木村史人さんにインタビューをしました。
1979年生まれ。
立正大学大学院文学研究科哲学専攻博士後期課程修了。博士(文学)。
専門は哲学・倫理学。ハイデガー、アーレント、ヨナスを手がかりに、現代のテクノロジーが人間の条件や責任の枠組みをどう変えるかを主題として研究している。
現在、立正大学文学部哲学科准教授。
主な論文に「ブロックチェーンの哲学」(『立正大学哲学会紀要』第19号、2024年)
編著に『アーレントとテクノロジーの問い:技術は私たちを幸福にするのか?』(法政大学出版局、2025年)などがある。
「チンパンジーはなぜ「教え」ないのか」はlite版として、youtubeでも木村さん自身が第3章までの内容を基にした動画をあげています。
どんな研究をしているの?
野村「本日はよろしくお願いします。木村さんの研究のコア。どのような問いから哲学を始めて、どのような哲学を研究されているのか教えてください」
木村「哲学をはじめてからずっと、「存在(ある)とは何か?」という「存在の問い」について考えています。私は、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの思想を考えることから、研究をはじめました。「存在」と聞くと難しく感じるかもしれませんが、あるもの(存在者)がどういうものか「わかる」という場合の「あるものの意味」と考えてみるとよいと思います」
野村「ハイデガーと聞くと、1927年に出版された『存在と時間』が有名ですね。非常に難しいけど、若者に常に人気の哲学書ですね。20世紀最大の哲学者とも呼ばれていることで有名ですが、彼の言っていることは私には難しかったです」
木村「ハイデガーは、例えば今ここに存在する「机」の意味、「私」の意味とはどのように理解されているのか、について集中的に考えたといえます。彼は、このような「存在の問い」が哲学の歴史では以前より忘却されていると指摘しました。ただ、私の見込みだとハイデガーのやり方ではうまくいかないのでは、と考えるようになりました」
野村「『存在と時間』は大ベストセラーとなった哲学書ですが、下巻は出ていないですね。おそらく何かしらの挫折があったのではないかという見方もありますね」
木村「ハイデガーの思想は、後期になるとより理解しがたいものになると一般的に言われています。私は、そのようなハイデガーの思想の展開を、彼が存在を問う際に、存在を存在者と区別して(この区別のことを「存在論的差異」といいます)から、解決を試みようとしたからではないかと考えています。言ってしまえば、存在者と区別し、存在だけを問うことは不可能であり、後期のハイデガーはそうした隘路に入ってしまったのではないか、と。そうではなく、あくまで存在者との連関の中で存在を問うべきではないか、と思い研究をしています。こうした「存在の問い」が困難となるという問題意識については、1冊目の『「存在の問い」の行方 なぜ『存在と時間』は、挫折せざるをえなかったのか 』で書きました。存在者との関係の中で存在・意味が形成され習得される、ということについては2冊目の『チンパンジーは、なぜ「教え」ないのか──ヒトにできて、チンパンジーにできないことを哲学的に考える 』で主題的に考えました」
野村「ハイデガーのやり方では、「存在」について問えないのではないかという問題意識があったのですね。最初にハイデガーについて研究しようと思ったきっかけは何ですか?」
木村「学部生時代の恩師である手川誠士郎先生がきっかけです。手川先生が授業で実存思想を扱っていまして、レポートを書く際に『存在と時間』を読んでみたんです。『存在と時間』自体には、そこまで感動しなかったのですが、せっかくだからとハイデガーの他の著作も読んでみました。その時に、ヘルダーリンという詩人の詩作を扱った後期のテキストを読んで、文学少年だったので「かっこいいな」と思ったのですね。ハイデガーと言えば、「死」や「不安」のような前期のテーマに関心をもって研究をはじめる人が多いので、私は少し珍しいのかもしれませんね」
ハイデガーにとって不安って?
「存在」ってどういう意味?ハイデガーの現象学って?
木村「ハイデガーはそれまでの西洋哲学では「存在の問い」が忘却されていると言ったんです。存在って? 「ある」とはどういうことなのか? ということがきちんと問われていないということです。例えば、大哲学者であるカントやデカルトであっても「存在の問い」をきちんと問えていない、としました。『存在と時間』の出版されなかった第2部は、「存在論の歴史の解体」として、カントからデカルトへ、そしてアリストテレスへと遡っていくことで、どうして「存在の問い」が忘却されているのかを明らかにすることが試みられるはずでした。
後期になると、ハイデガーはヘラクレイトスやパルメニデス、アナクシマンドロスといった、いわゆるソクラテス以前の哲学者たちを思索的な対話相手とするようになります。ただ、当時のギリシア哲学は詩作や物語という形式で思考を表現されていました。ハイデガーはこうした古代ギリシアの思索を、「存在を直に受け止めているが明晰化できてない」と考えて、逆に、ドイツの哲学は「存在を忘却しているが明晰化の力は長けている」と考えました」
野村「ハイデガーには、明晰化の力をもつようになったからこそ「一旦ギリシアの頃の存在について問うていた時期に戻ろうぜ」ってモチベーションがあったのですね。元々ハイデガーは現象学の創始者であるフッサールのお弟子さんでしたね。しかしフッサールに言わせれば、ハイデガーは現象学を理解していないと落胆したエピソードがあります。ハイデガーはどのような行き詰まりを現象学に感じていたのですか?」
木村「現象学に、というよりもフッサールの考え方に限界を感じていたのではないかと思っています。ハイデガーはフッサールの『論理学研究』を熟読していたことはよく知られています。また、『存在と時間』はハイデガーなりの「現象学」が語られ、その手法で展開されていますので、少なくともその時点では、現象学に失望していたというわけではない。ハイデガーに言わせれば、「自分の方法論こそが真の現象学だ!」という気持ちだったのかもしれません。また、フッサールは元々数学の研究者であり、哲学研究をしていたわけではないので、哲学の伝統についてそこまで詳しいわけではありませんでした。その点も、ハイデガーからしたら物足りなかった可能性もあります」
野村「「俺の現象学が真の現象学だ!」って感じだったんですね。ハイデガーの現象学について詳しく教えてください」
木村「『存在と時間』第7節で論じられる、ハイデガーの「現象学」概念の独特な点は「現れ」そのものだけではなく、その「現れ」を可能にしている現れてこないものを明らかにするのが現象学とする点です。例えば、トンカチというモノについて考えてみましょう。トンカチとは、「釘を叩くために」あるものですが、釘だけではなくノコギリといった他の道具や、木材といった素材などとの関連において、「釘を叩くために」あるものとして適切に用いることができます。言い方を変えれば、大工さんがトンカチに手を伸ばすときには、それ以前にトンカチは「釘を叩くために」あるものであることや、「釘とは何か」などといった、道具や素材の連関を理解していなければなりません。ハイデガーが「現象学」という手法で明らかにしようとしたのは、トンカチという存在者ではなく、今お話ししたような、そのトンカチの意味を形成する次元、つまりトンカチという存在者の存在であるといえます」
野村「或る「モノ」が現れるにはその出会いに先立つ枠組みがあり、それを明らかにするのが現象学だよと言ったのですね。ハイデガーはどのように「存在」というものを扱ったのですか?」
ハイデガーの思う不安の正体?
木村「『存在と時間』においてハイデガーは道具や物の意味、我々自身の意味について考察をするうえで、「不安」という気分に着目しました。ハイデガーに言わせれば「不安」とは「通常の意味が脱落する感覚」のことです」
野村「ハイデガー風の難しい言い回しですね。不安は感じたことはある気がするけど「通常の意味が脱落することを感じたことがありますか」と言われると……」
木村「例えば、「明日クビになるかも」のような具体的な可能性について感じる気分は、「不安」ではなく「恐れ」とハイデガーは考えました。不安とは、「明確な理由はないけれど、なんとなく感じる不気味な気分」といえます。ハイデガー曰く、不安というのは今まで行っていた意味付けが無効となる経験のことです。例えば、大きな失敗をしてしまい、自信をなくすというのはわかりやすいです。しかし、しばしば我々は、社会的には成功しており、自分の人生がうまく行っているのにもかかわらず、「本当にこのままでいいのか」と、不安を感じてしまうことがあります。そのようなときには、今まで私という存在を肯定していた意味(例えば、仕事で成功している、結婚して幸せな家庭を持っている、など)が、世界の中でうまく機能しなくなっている、といえます。ハイデガーは世界が無意味化し、不安を感じることとは、自分自身と向き合うきっかけであり、あらためて存在・意味を問い直すきっかけになると考えました。こ
また、ハイデガーは『存在と時間』のなかで、有名な「死への先駆」という考え方を述べています。ハイデガーは、不安という気分によって、世人としての自己が脱落し、自分自身へと向き直ることで、死へと先駆することが可能となるとしました」
野村「「死への先駆」とはどのようなことですか?」
木村「ハイデガーは、死についていくつかの性格をあげていますが、そのうちの一つは、死とはいつやってくるかが不確定であるが、常にどの瞬間でも可能である、というものです。また、死とは最も固有な可能性である、ともいわれます。例えば、誰かの仕事は誰かが代わりに行うことが可能ですね。しかし、自分の死を死ぬことができるのは自分だけです。他の人が代わりに犠牲になってくれたとしても、他の人が死んでるだけで私の死ではありません」
野村「そうですね。仕事は誰かが代わりにこなしてくれますが、死は誰かが代わりに死ぬことはできないですね。私は必ず、私の死を死ななければなりませんし、それを誰かに肩代わりさせることはできません」
木村「自分の死を死ねるのは自分だけ。そして死とは全ての関わりが打ち切られる、最も極限の可能性でありますね。死の先はない。ハイデガーは『時間と存在』の中で、「私たちには常に未了である」。つまり「生きているうちは「まだない」ところがある」と考えました。そのように考えると、生きている限りには、自分の全体は捉えられないということになります。現存在には「まだない」という部分が常にあるんです。
あるものについてきちんと理解するためには、その全体を知る必要があります。例えば、ある人の良い一面だけ見て、実は裏であくどいことをしていることを知らない場合は、その人のことをきちんと理解したことにはならないでしょう。その人の全体を知ってはじめて、その人のことを理解した、ということができます。ということは、現存在には常に「まだない」という部分があるとすると、その全体を理解することはできないので、現存在をきちんと理解することができないことになってしまいます。しかし、ハイデガーは死へと先駆することによって全体性が確保されると考えました」
野村「そのような自分の死がこの瞬間にも訪れるかもしれないことを自覚し、自分の存在の全体へと向き合う態度が、ハイデガーの「死への先駆」なんですね。極限の可能性を意識することで「本来的な生」を歩めるということでしょうか?」

ハイデガーにとって存在って?世界って?
野村「ハイデガー哲学は、「現存在」のような難しい言葉を使いますね。さらに、現存在とは「自分の存在について問いかけ、関心を持つ存在」ともいわれます。現存在とは「人間」や「私」といっても良いと思うのですが、なぜわざわざ「人間」と言わず「現存在」という言葉を用いたのですか?」
木村「「人間」や「意識」という言葉でも、原理的には同様のことを語り得たとは思うのですが、それらの言葉にはこれまでの歴史の中で多様な意味付けがされていて、そのまま用いると、どうしてもこれまでの哲学での用法や心理学での用法からの影響を受けてしまう。そうした予防的な意図があったと考えられます。しかし、それ以外にも積極的な意味もあったといえます。というのは、現存在(Dasein)の「Da」とは「そこ」のこと、英語で言うと「there」になり、「sein」は英語で言うと「being」です。ハイデガーは「現存在」ということで、「開けた場所に存在している」という在り方を我々はしていることを示したかったのだと思います」
木村「ハイデガーは、「まず世界のもとにすでに存在している」と考えました。パソコンを使っていることが、世界のもとにすでに存在していることの、一例です。しばしば私たちは、「パソコン」と「私(意識)」が前もって別々に存在していて、後でそれらが関わるという図式で、世界と私の関係を捉えがちです。このような図式を、ハイデガーは「主体‐客体‐図式」と呼びました。
現象学は「先入見なしで現れているものをあるがままに見る」のがモットーです。ハイデガーはそのように現象学的に実際に我々がパソコンを使っていることを分析すれば、パソコン以前の「何か」にまず出会い、その後で「パソコン」という意味を与えているのではなく、そもそも「パソコン」に出会ってしまっていますし、さらにいえばそれを適切に使えてしまっていることが見えてくると指摘しました。
別の例を出しましょう。例えば目の前の机について考えてみましょう。私たちは、自分がいなくなった瞬間にその机がなくなったりすることはなく、「自分が居なくても机は存在するんだろうな」という先入見を持って机を見ています。このような先入見のことを、ハイデガーの師匠であり、現象学の創始者であるフッサールは「一般定立」といいました。フッサールが「エポケー(判断中止)」といったのは、そのような「一般定立」をいったん括弧に入れることです。そうすると、私が世界へと関わっていること、志向的であることが見えてくる。近代哲学では、私(主体)と客体がわかれているということがスタート地点になりますし、現代を生きる私たちも、基本的にはそのような物の見方をしてしまいがちです。現象学は、こういった私たちがごく当たり前に採用している前提に乗っからずにそれを覆してしまうので、そこが初学者が現象学を理解したり納得したりすることの難しさともいえます」
野村「そもそも、「世界」「モノ」「私」などのものがそれぞれ存在している、というのは先入見で、現象学ではも「もうすでに私たちは世界と関わっているじゃん」というところからスタートするのですね」
木村「もう少し補足しておきましょう。ハイデガーは非常に難しい思想家ですので、授業で扱うといやな顔をされることがあります。でも、授業をすることで、ハイデガーの思想がどうしてわかりにくいのか、というポイントが見えてきました。ハイデガーの分かりにくさの最初の点は、これまで話してきたような、「主体」と「客体」がそれぞれ存在していることを出発点にしない、というところにあります。私たちはどうしても「私がいて世界があって」と考えてしまいます。
ハイデガーの思想の理解を難しくしている第二の点は、「存在者との「出会い」が可能になるにはその意味の理解が出会いに先行している」という点です。ここが難易度が高いです。例えば、「机とは何か」を理解していなければ、机に出会うこと、それを使用することはできません。つまりあるものとの出会いに先行して、その意味の理解が成立している必要があります。
最後の一つは、ハイデガーが意味を指示の連関、「有意義性」として捉えているという点です。例えば、今野村さんは私にパソコンを使いながらインタビューをしていますが、パソコンだけだと今の野村さんのようにインタビューはできませんよね。パソコンは机の上に置かれていますし、野村さんは椅子に座っています。つまり、「机」や「椅子」、その他の道具との連関の中でこそパソコンを適切に使うことができています。先程、道具との出会いに先行して理解していなければならない、といった「意味」とは、このような指示の連関をなしているといえます。つまり、「意味」とは一見すると、「パソコンの意味」、「椅子の意味」、「机の意味」がそれぞれあるというように思われるのですが、そうではないという点が理解を難しくしているといえます」

「意味」って何? 意味付けされているってどういうこと?
野村「3回も認識の前提を変えるというのはかなりしんどいですね。まだ正直、現象学についてピンときていません」
木村「別の例を出しましょうか。野村さんの机の上には、今、ペットボトルがありますね。ハイデガーはそのペットボトルに対して、もともと何かがあって、それに「ペットボトル」という意味を与えている、と考えてはだめだよ、と言っています。もうすでに、私たちは意味づけられたペットボトルの元に既にあることから哲学を始めるべきだということです。
このように既に在ることとは、我々が「どういう目的のために」存在しているのかということが含まれています。このような我々が「どういう目的のために」存在しているのか、ということから、個々の道具が「何のために」用いられているのか、ということが規定されます。そして、それぞれの道具の意味は、さっき3つ目のステップとしてお話ししたように、指示の連関において規定されています。我々の目的から道具はその意味を規定されているため、状況によって別の意味付けをされることがありえます。
もう少し、ハイデガーがよく用いる、黒板とチョークを例を使って、補足しましょう。「黒板」や「チョーク」はただ無目的に存在しているのではなく、「学生に講義の内容を伝えるために」用いられます。そのように使われるためには、授業を聞いてくれる「学生」が机や椅子といった道具が適切に配置された適切な広さの「教室」の内にいてくれる必要があります」
野村「道具の意味は、我々の目的によって規定されているとともに、相互の連関によっても規定されているってことですか?」
木村「例えば、「黒板」という名前だけを知っていて、「ホワイトボード」と区別することはできるけれど、「チョーク」のことを知らないという方、つまり「黒板」とは「チョークで書いて伝えたいことを伝えるために」あるものであるということを知らない方は、黒板の意味を理解しているとはいえず、それゆえ黒板を適切に使用することもできないでしょう。このことは、「黒板」という意味の中に「チョーク」の意味も含まれていることを示しています。ハイデガーの思想では、こうした考え方や常識を変えるステップが多いのも嫌な顔をされる理由の一つかもしれません(笑)
我々が実際に授業をするときには、今言ったような複雑な構造をもつ道具の意味を理解しているわけですが、しかし、その構造は普通は明晰とはなっていません。ハイデガーにとって現象学とは、まず、道具のような存在者、例えば黒板が「黒板」として現れることを可能にする構造を明らかにするということだったといえるでしょう」
技術の進歩で世界内存在が変容している?
野村「ハイデガーは私たち「現存在」が世界に開かれており、先ほどおっしゃられたような他者や道具と関わりながら生きるような存在の仕方を「世界内存在」と言いました。木村さんは「ここ50年の急速な技術の進歩のせいで、世界内存在の在り方が変った」とおっしゃられていましたね。なぜそのように思うのですか?」
木村「そうですね人類の技術のレベルがこの数十年間で飛躍的に向上しているということは、皆さんも感じていることではないでしょうか。例えば、1900年頃に飛行機が開発されて、それが50年以上かけて、現在我々が旅行のときに乗る民間のジェット機のような大型・高速化されたことも大きな発展だったといえるでしょう。それまでだったら一生行けなかったかもしれない国に、数時間で行けるようになったのですから。しかし最近のテクノロジーの発展のスピードは、桁が違っているように感じます。今の若い方は信じられないでしょうが、私が高校生の頃は携帯電話は普及しておらず、ポケットベルがせいぜいだったのですから。それから、皆が携帯電話を持つようになり、電話よりもインターネットでコミュニケーションをしたり、動画を見たりゲームをするためのものとなり、近年ではその中にAIが組み込まれるまでになっています。
飛行機の発展・普及の話をしましたが、現在では、通信環境が劇的に進化したことにより、実際の移動が必要なくなっているといえます。また、SNSで個人が発信できる時代にもなりましたね」
野村「人に会うまでもなく。それどころか、リモート講義のような体制で大学に行かなくても単位が取れるようになりましたね。私個人の話ですが、SNSでつながっているので高校時代の友人が10年以上たってもまだ身近に感じますね。「久しぶり!」って感覚が全くない」
木村「SNSでは「これまでは現れてこなかったものが、現れるようになった」といえます。今の野村さんの例ですと、これまでならば高校時代のお友達は、年に一回会ったり、年賀状のやり取りをするときに現れてくるだけで、それ以外のほとんどの時間は自分の世界の内に現れてこなかったといえます。それに対して、現在では、「この人は今日映画館に行った」というようなことがSNSで共有されることで、会っていないのに現れるようになった、といえます」
野村「わかります。Xで友人の投稿を見ると「今どこにいるんだろう」ということがすぐにわかって。後日それを話題にしたりすることが日常の中でもあります」
木村「昔は、自分の考えを表明することは全員にはできなくて、マスメディアに載るような手続き・資格が必要だった。しかし誰しもが今は発信者です。そのことで、その人がどう考えたり、どんな気分なのか、といった、直接会っていても即座には現れこないものもSNSでは現れているといえます。『ガンダム』という作品では、「ニュータイプ」という新人類が登場し、彼らは言葉を用いずに、直接思考や感情を共有することができる存在として描かれていますが、SNSは誰もが「ニュータイプ」になることができるツールであるともいえます。つまり、SNSによって「これまでは見えなかった相手の心が可視化されている」という変化が起こっています。
これはあまり良い変化ではない場合もありますね。例えば、感情的な発言が支持されてポピュリズムが強化されてしまう。もっと深刻な場合は、公には言えない差別的な思想が同じ思想を表明している発信を見ることで、強化・増幅されてしまうという場合もあります。職場といった公な場では、人権を重視した振る舞いをしている人であっても、SNSでは差別的な発言をしているということもあるでしょう。SNSが登場する前は、差別的な発言は家庭内ではなされていたかもしれませんが、公的な世界へは現れてこなかったわけですが、SNSの普及によって、それが現れてくるようになった、といえます。これは由々しき問題で、「人類にはSNSは早すぎた」なんてことも言いたくなる時があります」
木村「例えば、アーレントという思想家は、古代ギリシアのアテネではプライベート(私的)な空間とパブリック(公的)な空間が分かれていたと考えていました。プライベートな空間には女性や子ども、奴隷が存在し、生きるための活動をしているが、その活動はプライベート(私的)な空間には現れてこなかった。それに対して、パブリック(公的)な空間とは政治的な場で、そこで議論を行うことで、その者が「誰」であるのかが現れる、としました。アーレントは近現代ではそのような公私の境目はなくなっており、その在り方を「社会(society)」と言いました。SNSはアーレントの「社会」をさらに極端にした性格を持っていると言えます。以前は、家庭内や身内の間でしか共有されなかった陰口や感情、さらには家庭の中でも現れてこなかった内面が、プライベート(私的)な空間には収まらず社会全体に共有されるいうことが起こっています」
木村「そうなると、世界の見え方も変容していくんだと思います。今の子は30歳になってはじめてSNSに触れるとかではない。生まれた時からSNSがあります。いわばSNSネイティブです。きっと、脳の在り方も変わってくると思います。このあたりは、私の専門ではないので素人考えですが、譬えば、人間が受動的となる可能性が考えられます。よく言われるように、本を読むというのはある程度能動的な行為ですが、それに比べるとテレビ番組を視聴するのは相対的に受動的といえます。しかし、テレビ番組を視聴するのは、何を見るのかという選択は視聴者がしているという意味で、まだ能動的なところがありました。それに対して、例えばTikTokでは流れてくる動画を視聴するという点でかなり受動的といえます」
野村「そういう側面は間違いなくありますね。おすすめの動画がアルゴリズムによって選ばれていて、気に入らなければ横にスワイプをして新しい動画を見ればいいですしね」
木村「現代の状況を予視した作品として、私はよくSF作家のレイ・ブラッドベリの『華氏451度』という作品をあげています。あの作品の中では特定の役割を演じてくれる画面があり、主人公の妻はその画面に向かって疑似的で心地の良い架空の人間関係を築いているというシーンがありますね。昨今の世間での人間関係もそのような状況に近づいているように感じます。
目の前の現実に没入しすぎず、立ち止まって考えていく。動画をいったん止めて、距離を開けてみる。反射的に書き込むのではなく、一日待ってみる。それができればよいと思うのですが、ただ、それが難しい。そして、それが難しくなるようなアルゴリズムや道具が揃いすぎているように思います」
野村「おすすめされたものは、当然心地よいものなので、熱中してしまい、自分というものがどんどんなくなっていく。この状況を自制するのは難しいように感じます」
木村「「距離」を空ける機会がなくなってくる。思考をしなくなっていく。そうすると〈他者〉がいなくなっていく、という側面はあると思います。ここでいう〈他者〉とは、ただ他の人や意見ではなくて、自分とは異なった誰か、自分を「否定」する誰か、のことです。SNSのアルゴリズムは同質性を高めるため、そうした〈他者〉と出会うことが原理的に少なくなっていくといえます」
『引きこもり』という新しい社会問題と哲学
野村「木村さんは、「ひきこもりについての実存論的解釈 」という論文にも書かれていますね。私も高校3年生の頃に不登校だった時期があります。まあとはいえ、短期間で、基本的には学校に行っていた方が楽しいな、って気持ちの方が強かったですね。ひきこもりという問題はどのように起こるものだと考えているのですか?」
木村「まずは、「引きこもり」というのは当人の意志だけでは解決しないという認識を持つことが重要です。よく引きこもりの人に対して「自分の意思で働いてないんでしょ?」「学校行かなくて楽だね」という見方を世間はしがちですが、「本当は行きたいけどいけない」、つまり自分の意志でその状態を選んでいるわけではない、ということを周りが理解する必要があると思います」
野村「確かに「学校に行かない」という選択を能動的に選んでいると考えている人も多そうですね。例えばクラスの人間関係がうまくいかずその空間にいるだけで心が傷ついてしまう。だから仕方なく学校に行かないという場合は、受動的な現象に見えますね」
木村「そもそも、自分で選んでいるように理解していることでも実は「受動的」であるということはけっこう多くあり、私たちは、自分でそう考えているほど、自分のことを自分で決めていないのではないかと思います。引きこもりという現象は、実は圧倒的に日本で多いです。イタリアとかでは家の中で引きこもっていることは許されず、ホームレスとなってしまう、ということを聞いたことがあります。そもそもの問題として、引きこもりはそれが可能とする経済状態でなければ不可能ですし、日本的な家族の在り方が関係している現象だと思います。引きこもりについての政府の調査データを見ると、実は引きこもりは男性のほうが多く、さらにその中でも長男が多いようです。例えば、まじめで期待が多くて、それに応えようと頑張ってしまう人が周りに合わせて消耗してある日突然引きこもりになってしまう。日本の社会は、世間の目による監視や同調圧力が高いといわれていますが、その中でも男性というのは、(現在では徐々に緩和されているかもしれませんが)昔は「働いて当然」という雰囲気があったことや、「一家の大黒柱」という言葉に示されているような責任やプレッシャーが課せられていたといえます。そうした中で、毎日会社に行くのが苦手な人がある時までは頑張っていたけど、ある時に限界を迎え、立ち向かえなくなって引きこもりになるというケースはありそうです」
野村「なんだか、わかります。途中までは苦しくてもなんとかするのですが、一回本当にダメな時が来ると、そこから……という経験は私にも覚えがあります」
木村「その辛さ、いわば「生きづらさ」の原因については、もちろん就業の時間や負担の大きさといった身体的・心理的なしんどさもあると思いますが、それ以上に「規範が束縛になって」いることが原因となっているのではないかと考えています。例えば、「結婚しないとならない」「働かなければならない」という規範が内面化されている場合、その規範に適合していればよいですが、「普通はこのくらいの年齢で結婚する(けれども自分はできていない)」「周りはみんな結婚している/働いている(けれども自分はできていない)」というようなギャップがある場合は、規範に適合できない自分が「否定」されてしまいます。それが「生きづらさ」につながるのではないか、と考えています。
しかし、経済的に余裕があればみんなが働いていても、自分は「働かなくてもよい」という可能性はあるわけです。「働かなくてはならない」という規範のもとで、働いていない自分を位置づけるとしんどくなりますが、そういう規範を問い直して、「別に働かなくてもよい」と捉え直すことができれば、「生きづらさ」を感じにくくなるでしょう。 いわば、ハイデガー風に言えば意味を問い直すのが大事なんじゃないかなと思います」
野村「確かに「進学校で勉強がうまくいかなくてそこで挫折する」ということが、不登校のきっかけとなる、というケースでは、「勉強ができないといけない」という規範を内在化していて、それに束縛されているように感じますね。我々が、自分や他者に意味を押し付けすぎていて、それでこのような不幸が増えるのですかね」
木村「意味づけということで厄介なのが、私たちがすぐに「引きこもっていてもいいじゃないか」と引きこもりを肯定できるようになるかと言われるとかなり難しいということです。口で言うだけなら簡単であっても、それをきちんと腑に落とすのはそう簡単ではないでしょう。例えば、眼の前の机をいくら「机ではない」と思おうとしても難しいように、子どもの頃から経験によって形成された意味を変えることは一人の力では容易にはできません。それは、意味というものが一人だけで身につくものではなく、他者との関係の中で形成・習得されたものであるためといえます。そのため意味を変容させるためには、他者との関係が必要となりますが、引きこもると他者との関わりが少なくなるので、より世界の意味付けを変えるきっかけが減ってしまうということに、より困難さがあります」
野村「木村さんの『チンパンジーは、なぜ「教え」ないのか』という本でも似た話がありましたね。子どもに父親の写真を見せて「これがお父さんだよ」と教えたら子どもは「お父さん=写真」だと勘違いした。その結果として、子どもは母親や祖母の写真を見ても「父さん」というようになった。そのような誤解は、大人が「違うよ」と教えることで、つまり当初の意味が〈他者〉によって「否定」されることで、子どもは「写真≠お父さん」であると理解するようになった。世界の意味付けを変えるためには、〈他者〉による「否定」が大事ということですか?」
木村「そうですね。世界の意味付けを揺るがすためには「働かなくていいじゃん」って言ったりして、当初の意味を揺るがしてくれる〈他者〉がいないといけない。だから、いろんな人に出会って自分と世界との意味付けを変えてもらうことが大切です」
木村「話は変わりますが、このことからSNSにおいて意味の修正が起きにくいことを説明することができます。例えば、リアルで差別的な発言をした場合には、その場にいる他の人に「そんなことはいわないほうがいいよ」などと窘められたり、もっと厳しく注意されたりすることで、そういうことを言ってはいけないのだと当初の意味が「否定」されることなるでしょう。しかし、SNSでは同質的な者の意見が集まりやすい「エコーチェンバー現象」が起きますので、「否定」をされるという契機が生まれにくい。逆に、リアルでは出会わない自分と同じ意見に出会いやすいことで、自分の意見が強化されることになりやすいです。自分の考えが修正されるためには異なる〈他者〉と出会わないといけないのに、SNSはそうした機会となるのではなく、反対の機会となりやすいといえます。職場の人に言えないことでもXでは理解を得られる。このような状況では、陰謀論や差別主義が肯定・強化されやすくなっているといえます」
野村「確かに、偏ったコミュニティで支持が得られて、「これが真理なんだ」と納得してしまうと、その構図を脱却することは難しそうです。どこかに自分と異なる意見の人がいる必要がありますが、心地よいエコーチェンバーがそうさせてくれない。ここでの、他者性とはどのような意味ですか?」
木村「哲学的には、ややライトな意味での〈他者〉性ですね。哲学的に強い意味での〈他者〉とは、たとえばレヴィナスが提起したような〈他者〉です。レヴィナスは「〈他者〉は無限なる存在である」と考えました。「無限」とは理解不可能ということです。しかし、実際に我々が出会う他者はわかるところもあればわからないところもある、という〈他者〉なので、レヴィナスのいう意味での〈他者〉と比べると、もう少し一般的というか、ライトな〈他者〉といえます。とはいえ、〈他者〉とは、「わからない」ところがある存在である、という点が重要です。相手の思考や感情が全部わかったら、例えば事前にイメージした通りに一言一句同じ言動をする相手がいたら、その相手は〈他者〉ではなく、ロボットのような存在として現れるでしょう。そのように〈他者〉と対峙することは、常に自分を「否定」される可能性が潜んでいます。「否定」というとネガティブな印象ですが、例えば「新しい発見がある」「思いもよらない相手の一面を知る」とかも既存の意味付けを変えてくれるので、広義の「否定」に含まれます」
野村「なるほど、SNSはそれが起こりにくい環境だということですね。確かに「こういう界隈とつながりたい」「こういうクラスターの人はフォローする」ということがXにはあふれています。このことは、自分と同質な存在しか自分の周りに置けないという意味での危険ということですね。どのようにすれば、このような危険を回避することができるのでしょうか?」
木村「私自身は意図的に「他者性」を高めることを心がけています。具体的には、自分と違う人を意図してフォローする、ということをしています。ブロックして見えなくするのではなく、居心地の悪い意見にも耳を傾けることは大切だなと思います。ほとんどの人は逆のことをしていますし、さらにはそもそものSNSのアルゴリズムも逆に作用しするように仕組まれているわけです」
木村「エコーチェンバーの中で、お互いが同じ意見を共有して「真理を理解している」と思い合う。そうすると、その真理を共有していない人たちとは、「分断」されてしまうことになります。このような「分断」を生んでしまうことは、SNSの良くない点の一つでしょう」

ブロックチェーンが私たちのデジタルとの関わり方を変える?
野村「木村さんはここまで、よくも悪くも「世界内存在」の在り方をテクノロジーが変容させている、と仰られていて、「ブロックチェーンの哲学」のような論文もか書かれていますね。ブロックチェーンは私たちの在り方をどのように変えていくと考えられていますか?」
木村「新しい技術ですので、どう転ぶのかはまだ分かりませんが、端的に言えばブロックチェーンって「データにものとしての性質を与える」技術であると考えています。今まではデータとモノは異なる概念であり、モノはそれ自体と同じものを複製することは原理的にできませんでした。例えば、ゴッホが実際に描いた「ひまわり」と、それを模倣した「ひまわり」では、前者が「本物」だったのに対して、後者は「偽物」とされます。それに対して、データは同じものの複製が可能でした。例えば、メールにWordファイルを添付して送るとき、私のパソコンにあったファイルと、送られた先で開かれたファイルは、どちらも本物なわけです。それに対してブロックチェーンは、データに固有性を与えることによって、データにモノ的な意味付けを与える、言い換えると同じデータであっても真偽を問うことができるようにするといえます」
野村「NFTがまさにその典型ですね。「拾い画」なんて言葉がありますが、これまでは、ネット上の画像を私たちはコピーアンドペーストで拾ってこれる。データ上は、元の画像とコピーされた画像とは全く同じと考えられます。しかし、NFTではコピーアンドペーストはできません。ブロックチェーン上にある所有証明がNFTを所有する人を無二の持ち主だと証明してくれます」
木村「そうなると、データであるNFTアートもゴッホの「ひまわり」のような価値を帯びるようになる。実情としてそうなりつつありますが、私自身がそう考えるようになっているかというと、まだそうなってはいません。とはいえ、それも時間の問題かもしれません。というのは、かつては「CD」というモノに対して金銭を支払っていましたが、現在ではサブスクに入る、つまり「音楽を利用する権利を持つ」ことに金銭を支払うように変化しています。このような環境が変化することによる、世界に対する意味づけの変化は常に起こり得ますし、それを避けることは難しいためです」
野村「今の時代ではデジタルデータにお金をかけるという判断は昔よりライトに行われるようになりましたね。例えば、ソーシャルゲームのガチャがそうですね。以前は、高校時代に私の友人が「LINEのスタンプなんて買うようになったら終わりだ」というようなことを言っていましたが、今はLINEの着せ替えを含めてそれにお金をかけることに躊躇が無くなったように感じます。間違いなく数年でデジタルに金を払う感覚が変わっているように感じます」
木村「そうですね。ブロックチェーンが浸透していくと、「データ=モノ」になっていく。例えば、自分が十年前に買って大切にしていたCDを友人に貸したら、壊されてしまったとしましょう。さらに、友人は反省して、後日同じものを買って謝罪してくれたとしましょう。こうした場合、私であれば許してしまうというか、許さざるをえないのではないかと思いますが、しかし十年間大切にしていたCDと、新しく買って渡されたCDとを同じものであるとは思えませんよね。それはモノには「これ」という個別性を私たちが感じるためです」
野村「確かに、いつ買ったとか、誰かにもらったとかそういう個別性をモノに対しては感じていると思います。初めてのボーナスで買った財布であったり、生徒からもらった時計であったりという物語が、モノには紐付いている感覚がありますね」
木村「ブロックチェーンが浸透していくと、データの存在のあり方、我々への現れ方が変わってきますよね。データにも、先程の10年前に買って大切にしていたCDと同じような「これ」、個別性が出てくる。そうなるような気がします」
野村「そうなると世界の中での意味付け、世界の内にあるあり方が変わってしまうというのが、木村さんの考えなんですね」
木村「私たちの世界はテクノロジーによっても構成されており、私たちはそのような世界のもとに存在しています。なのでテクノロジーの変容は、世界内存在、つまり私たち自身の変容を引き起こすと考えています」

AIや新しい技術の発展で問われる私たちの『意味』
木村「ハンス・ヨナスという哲学者が未来倫理という概念を提唱しました。未来倫理とは、テクノロジーの進歩によって、これまでにない問題が出てきたときに、それに倫理的に対応しよう、という考え方です。環境問題や遺伝子改良などもそうした問題ですし、最近進歩が著しいAIは、まさに未来倫理の問題ですね。この数年だけで、「人間のクリエイティビティが不要となるんじゃないか」、「(人間よりも良い作品を作れるようになっているので)人間が創作する意味がなくなるんじゃないか」という議論まで出てきています。そうなると人間が働いたり考えたりすること、何かを作ることの意味、端的に言えば、私たちが生きる意味とは何か、ということを問わなければならなくなります」
野村「人間のオリジナリティが無くなると「なんで生きてるんだろ」という問いに立ち向かえなくなる人も出てきそうですね」
木村「現状だと、「まだ人間にオリジナリティがある」と言われていますが、人間にしか作れないものがなくなっていき、「人間が作ることに意味がなくなる」のは、時間の問題という気もしています。何かを考えたりそれをアウトプットすることが「自己満足」でもよいならば、つまり人間だからできる、ということにこだわなくてよいならいいのですが… ただ、こうしてオリジナリティを重視するのは、私たちが人間は偉いとか、人間はすごいと思い込んでいるからかもしれません。シニカルに考えるならば、私たちが何かを作ったり書いたり話したりする内容は、これまでの経験でインプットされたことを変形しているだけで、根本的には、AIとそう変わらないという気もします。人間が作ったことに価値を認めたり、人間が生きて存在していることに価値があるという感覚が私達にはあるのですが、哲学的に突き詰めれば、「AIだけが生きていて(活動していて)人間が死に絶えた世界」でも良いという考え方を否定する必要はないのかもしれません。
しかし、人間が制作したものにクリエイティブな価値がなくなったからといって、人間が何かを制作しなくなるとも考えてはいません。現在でもそうであるように、レジャー(娯楽)や趣味としては残っていくでしょう。例えば、スポーツはオリンピックに出て世界記録を出さなければ意味がないのではなく、日常的にレジャーとして楽しむことができますよね。そうした仕方で創作を楽しむことは現在でもなされていますし、今後も残っていくのではないかと思います」
木村「このような感覚について、「意味」という観点から、もう少し考えてみましょう。後世にその人のしたことが残るような人生に、「意味がある」、という場合があります。例えば、アインシュタインやスティーブ・ジョブズ、プラトンといった人の人生には意味があった、という場合です。しかし、このような仕方で「意味」を理解してしまうと、みんながアインシュタインやジョブズ、プラトンのような偉大な発見や発明ができるわけではないので、ほとんどの人の人生は無意味ということになってしまいます。さらに言えば、そうした偉大な人物たちの発見や発明も、数十億年後には太陽に飲み込まれて地球が消滅してしまえば何も残らず無となってしまえば、無意味となってしまいます」
野村「ベネターの言う宇宙的無意味ですね。私たちのしたことは宇宙レベルでは後世に残ることなんてないですね」
木村「だからといってこうやって対話すること自体が、無意味かと言われると違うと思うんです。近代的な時間概念をベースにした意味がある/ないという枠組みに乗っからなくてもいいんじゃないかなと思います。私が絵を描いてみてもちろんそれはプロのアーティストやAIの創作からしたら劣っていて、さらにはオリジナリティもないものであったとしても、描いていて楽しいことは無価値じゃない。その落書きがすぐに捨てられてしまったとしても、その描くということは無意味ではない。そうした仕方で、意味付けを変える必要があります。このような意味付けを変えることは、さきほどお話ししたように一人だけでは難しいので、人と対話をしたり、哲学書を読んだりすることが大事なのだと思います」
哲学教育の難しさ:哲学者は『神を冒涜し若者を堕落させた』の?
野村「高等教育の現場では「倫理」が必修ではなく選択です。小学校の道徳教育も哲学というものにそこまでコミットしているようには個人的にはあまり感じないのですが、やはり「哲学を教育する」というのは難しいのでしょうか?」
木村「例えば、P4C(Philosophy for Children 子どものための哲学)のような哲学プラクティスは実践されています。しかし、日本社会で当たり前のものとして浸透しているかと言われると、まだまだという印象です。そもそも哲学そのものがマイナーな存在なのかなと思います。私は全人類に哲学をしてほしいと考えていますが、なかなかそうはならない。今後もメジャーになるかと言われると難しそうですね。ただ、哲学をすれば世の中がよくなるかと言われると、すぐにそうだとはいえません」
野村「そうなのですか? 全員が哲学をすると、みんなが立ち止まって考える癖がついて、その都度対話を行うようになるならば、ある種の楽園のような世の中になると感じます」
木村「哲学のあり方のひとつは「言語化して意味を問い直す」ことといえます。しかし、あるグループの全員が哲学をするようになったとしたら、組織が不安定になるかもしれません。例えば、学校には校則や規範がある。正当性があるかどうかはよくわからないけれども、みんながそれに従っているおかげで秩序が保たれている、という側面があります。全員が「そもそも」を問いだしてしまうと、規範意識が育たず学校が荒れたり、教師の権威も問い直されてしまうため生意気でいうことを聴かない子どもが増えてしまう可能性があります。もちろん、そちらのほうが「良い」という価値観はありえます。しかし、あるグループを組織し効率的に動かすという点では、哲学的な問いは不要というか、そのグループの運営を非効率的にするでしょう。
極端なケースを想定すると、みんなが「人殺しってなんでダメなの?」という根本的なルールから問うていくと、何も始めることができません。社会や組織が成立するためには、ある程度のところは「当たり前」として受け入れる必要があるといえます」
野村「これは有名な話ですがソクラテスは「神を冒涜し若者を堕落させた」として処刑されましたね。確かに、「言うことを聴かない=堕落」と考えると、ある種の真実をアテナイの裁判官は言ったのかもしれないですね(笑)」
木村「ソクラテスに対する判決文の「堕落」が、そうした意味かというと、おそらく異なるのではないかと思いますが… ですが、ソクラテスは伝統的な規範を疑って、色んな人のメンツを問答法でつぶしてしまったために、当時のアテナイの人たちから反感を買っていた、というのは事実です。
本当に哲学した場合は、既存の規範を疑うことになり、いわば「空気を読む」ことの対極となりますので、それを嫌がる人もいるでしょう。教育にはある種「型にはめること」の側面があり、「自分の考えをインプットする」「自分の思った通りに動く生徒をつくる」という志向があります。しかし、そうした教育のあり方を哲学的に考えて疑う生徒がいた場合、高校の先生は自分のしたい授業ができなくなるので、そうした生徒は煙たがられるかもしれません。そういう意味では、教育機関と哲学は本来、水と油という関係にあるかもしれません。つまり、哲学という営みは、教育機関でしようとしていることを「否定」するようなところがある。そのため、学校教育というシステムの中に哲学を搭載することには、原理的な難しさがあります。
念のため言っておきますと、以上のような学校教育の一般的なあり方が間違っていて、哲学な営みのほうがよいものだ、というわけではありません。教科書に書かれていることをいちいち疑わずに、きちんと身に付ける、ということも子どもから成人になる過程では必ず必要です」
野村「権威を否定すると、先生の言っていることを「真理」として受け取ることができなくなる、そして学校の存在自体も疑われていく。そうなってしまうと何も成り立たなそうに感じます」
木村「少し哲学の破壊的な側面について強調しすぎたかもしれません。もう少し、教育について哲学した場合の、ポジティブな見通しもお話ししておきましょう。これまでのように先生が生徒に一方的な教えることが「教育」であるという理解が問い直され、新たに意味づけられるというシナリオです。例えば、先生からも生徒からも相互に教え合い、意味を問い直すことが「教育」の新しい意味となるのならば、学校とは「お互いに教え合い意味を問い直す場」となります。そのような学校であれば、哲学との親和性が高いといえます」
野村「ところで、ソクラテスがアテナイで行ってきた「意味を問い直す」という営みが、プラトンによって「対話篇」としてまとめられて、西洋哲学の源となっているというのは面白い話ですね」
木村「ソクラテスがあのまま逃げ延びて生きていたら、プラトンもあのような形で「対話篇」をまとめていなかったかもしれない。そうしたら、西洋哲学は生まれなかった、少なくとも現在の形では生まれなかったことになります。アリストテレスの思想もプラトンの哲学がなければ、当然今の形ではなくなる。そう考えると、ソクラテスは偉大ですね。ソクラテスのおかげで私たち哲学者はご飯食べれているともいえますからね」

木村さんのおすすめ書籍
野村「これから大学生になる人に向けて何かおススメの本はありますか? また、木村さんが影響を受けた本はありますか?教えてください」
木村「私個人が影響を受けた本や創作物、例えば私は現在はKαinというバンドで活動している藤田幸也さんというアーティストのファンで、考え方や生き方、デザインにまで、強い影響を受けていますが、他の人に勧めるかと言われるとまた別の気がしますね」
野村「確かに…言われてみれば私もすごい好きな曲がありますが、全人類聴いてほしいとは思わないですね」
木村「本当に刺さるものというのは、非常に個人的なものであると思います。もちろん、みんなが聞いている音楽が刺さる、という人もいるでしょう。しかし、現在の音楽業界で、以前のように誰もが知っている大ヒットが生まれにくくなっているのは、それぞれが本当に自分に合った音楽を見つけやすい環境となっているためといえるのではないかと思います。
哲学についても同じことがいえるでしょう。その方にどの哲学が合うのか、刺さるのかは、それぞれによって異なります。だから、まずは多くの哲学と出会うことで、自分に刺さる哲学を見つけなければならない。
このことをお勧めの本に転用すれば、万人に勧められる本なんてないので自分で見つけなさい! が答えとなります。
ただ、そのときに、全く基準がないわけではありません。本だけに限らずですがで、人が真剣に時間と労力をかけて作ったものに接したほうが、自分に刺さる確率は高まるのではないかと思います。映像にしても本にしてもいろんな人が関わっていて多くの人が労力を費やした作品。そういうもののほうが人生を変えてくれる可能性が高い。TikTokやYoutubeショートで流れてくる動画のほとんどは、見やすくて時間を潰すことには向いているかもしれませんが、残念ながら人生を変える力には乏しいのではないかと思います」
野村「アーティストの思想が強ければ強いほどその作品の持つ力は強くなります。その強さに圧倒される経験は確かにたくさんした方が良いと思いますね」
木村「後は、何が琴線に触れるかはわからないからたくさん出会うことも大切です。本であれば、質を確保したうえで、色んなものを読むのがいいのかなと思います。というのは、ある人が本気で作ったものは〈他者〉になるためです。よく哲学書を読むことで、哲学者と対話する、という言い方をしますが、その場合、その哲学書やそこに書かれた思想は〈他者〉として現れているといえます。同じことは、あらゆる作品にもいえるでしょう。〈他者〉というのは異物なので、のど越しも後味も悪いかもしれません。ですが、〈他者〉と出会うという経験は何事にも代えがたく重要です。なぜなら、私たちが「今のこの私」に閉塞せずに、それを開いていくためには、〈他者〉との出会いが必須だからです。そのような〈他者〉と出会いうる回路となるのであれば、SNSやAIも素敵なツールであるといえるかもしれません」











