「集中して覚える」――学習といえば、私たちはそんな能動的な姿を思い浮かべます。けれど、理化学研究所の最新研究によれば、人間の脳は別の作業に没頭している最中でさえ、視界の片隅に広がる森や竹林といった自然の風景から、無意識のうちに視覚的な特徴を学び取っているそうです。232人を対象とした実験とfMRIによる脳活動計測が明らかにしたのは、「自然画像が持つ複雑な構造」だけが、注意の壁をすり抜けて脳に届くという不思議な現象でした。教育、リハビリ、そしてAI開発にもヒントを与える、私たちと環境の新しい関係についての発見をお届けします。
理化学研究所脳神経科学研究センター人間認知・学習研究チームの柴田和久チームディレクター、座間拓郎技師、ジュリアン・マシューズ学振外国人特別研究員(研究当時)らの国際共同研究グループは、ヒトが別の課題に注意を向けている最中でも、背景に繰り返し提示された山や林のような自然の風景画像から視覚的な特徴を無意識に学習できる現象を発見した。
研究グループはブラウン大学、名古屋大学と共同で、18~41歳の健康な男女232人を対象に行動実験とfMRIによる脳イメージング実験を実施。文字や数字を見分ける課題中に背景画像を提示したところ、自然画像を見た場合に限り画像に多く含まれる傾きの見分け能力が向上した一方、ノイズのような人工画像ではこの効果はほぼ見られなかった。
脳イメージング実験では、自然画像に含まれる複雑な構造が高次視覚野で注意による抑制を受けにくいことが示された。本研究成果は科学雑誌『Nature Communications』オンライン版に2026年5月18日付(日本時間5月18日)で掲載された。
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脳は自然の風景から視覚的な特徴を学ぶ | 理化学研究所
【編集部解説】
「脳は自然の風景から視覚的な特徴を学ぶ」――この理研の発見、一見すると地味な基礎研究のようにも映りますが、実は私たちが普段考えている「学習」という概念そのものを揺さぶる、非常に示唆深い研究成果です。
まず押さえておきたいのは、この研究が「視覚的知覚学習(Visual Perceptual Learning, VPL)」という分野における、長年の論争に一つの答えを示したという点です。これまでの実験では「注意を向けていないものは学習されにくい」というのが通説でした。しかし計算機科学の世界では、AIの基盤となる「教師なし学習」のように、ラベルや指示なしでデータから特徴を抽出できることが当然視されてきました。この生物学的事実と計算理論のギャップが、研究者を悩ませてきたわけです。
今回の研究は、その鍵が「自然画像の高次統計量」――つまり、自然の風景に含まれる複雑な構造的まとまりにあることを突き止めました。同じ傾き成分を持っていても、人工的に作ったノイズ画像では学習が起こらず、竹林のような自然画像ではしっかり学習が成立する。この対比は鮮やかです。
脳メカニズムとして特に興味深いのは、一次視覚野(V1)と高次視覚野で異なる反応が見られた点です。脳の注意による「抑制シグナル」は両方の画像に送られているのに、自然画像の処理が高次視覚野で時間的にゆっくり進むため、抑制が間に合わず学習が成立してしまう――研究グループはそうしたメカニズムを示唆しています。「処理の遅さ」が逆に学習の窓を開く、というのは直感に反する面白い発見と言えるでしょう。なお、この時間的ミスマッチ仮説は論文中でも今後さらに検証が必要な推論として位置づけられている点には留意が必要です。
応用範囲として、研究グループ自身は教育・リハビリテーション・技能訓練といった環境設計への波及可能性に言及しています。「無理に注意を向けさせなくても学習を助ける環境設計」というアプローチの設計指針になり得るとされており、今後さまざまな現場での検証が期待されます。ただし、本研究で直接検証されたのは健康な成人における視覚的な傾き弁別の改善であり、具体的な臨床応用や教育効果は今後の研究を待つ必要があります。
AI開発への示唆も見逃せません。現在の深層学習モデルの多くは、ImageNetのようなキュレーションされたデータセットで訓練されていますが、実世界の複雑な統計構造を持つデータとの相性が、学習効率を大きく左右することを今回の研究は人間の脳で実証しました。「単純化されたデータで効率よく学ばせる」という従来の発想とは逆方向、つまり「複雑性そのものが学習を駆動する」という視点が、次世代の自己教師あり学習や世界モデル研究にヒントを与え得るのではないでしょうか。
一方で、慎重に見るべき点もあります。実験参加者は18~41歳の健康な成人232人であり、子どもや高齢者、神経疾患を持つ方々への一般化はこれからの課題です。また学習対象は画像内の傾き成分という比較的単純な視覚特徴であり、もっと複雑な概念やスキルがどこまで同じ原理で学習されるのかは未解明です。
一点付け加えておきたい倫理的論点があります。これは研究成果から直接導かれる結論ではなく、技術社会論的な観点からの考察ですが、「意識せずに学習が進む」という性質は、教育やリハビリでは恩恵となる一方、広告や情報環境のデザインに応用された場合、本人の同意なしに認知が形成され得るリスクと表裏一体でもあります。サブリミナル広告をめぐる議論の再燃に備え、将来的な社会実装には透明性ある運用ガイドラインが求められるでしょう。
この研究は、本プレスリリースの研究支援にも記載されている通り、JST(科学技術振興機構)のムーンショット型研究開発事業目標1「2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現」という大きな構想の一部として進められています。
少なくとも視覚的な特徴の領域においては、私たちの脳は注意を向けていない瞬間にも、環境の構造から静かに学び取っている――この実証は、テクノロジーが目指すべき「人間と環境の調和的な関係」を考える上でも、極めて重要な示唆を与えてくれます。
【用語解説】
視覚的知覚学習(VPL:Visual Perceptual Learning)
視覚的な経験を繰り返すことで、傾きや動きの方向といった基本的な視覚特徴を見分ける能力が長期的に向上する現象だ。スポーツや職人技、医療画像の読影など、熟練を要する視覚スキルの基盤となる脳のはたらきとされている。
高次統計量(Higher-Order Statistics)
画像内の局所的な要素同士の関係性や、複数の方位・空間周波数チャネル間の相関といった、単純な平均や分散では捉えきれない複雑な構造的特徴を指す。自然の風景に固有のもので、人工的なノイズ画像にはほとんど含まれない。
一次視覚野(V1)/高次視覚野
網膜から届いた視覚情報を最初に処理する大脳皮質後頭部の領域がV1だ。その先のV2、V4などの領域は高次視覚野と呼ばれ、より抽象的な形状やシーン全体の構造を扱う。今回の研究では、自然画像の複雑な構造はV1ではなく高次視覚野で処理されることが鍵となった。
機能的磁気共鳴イメージング(fMRI)
脳の血流変化を計測することで、どの領域がいつ活動しているかを非侵襲的に可視化する技術だ。神経科学研究の標準的な手法として広く使われている。
サイバネティック・アバター
JSTムーンショット型研究開発事業目標1で推進されている技術概念で、自分の分身となるロボットや3D映像を用いて、身体・脳・空間・時間の制約から人を解放することを目指す研究領域だ。
【参考リンク】
理化学研究所(理研)公式サイト(外部)
日本を代表する自然科学の総合研究所。物理、化学、工学、生物学、医科学にわたる基礎研究を行う国立研究開発法人だ。
理研 脳神経科学研究センター(CBS)(外部)
脳の働きを解明し、神経・精神疾患の克服や次世代AI技術への応用を目指す研究センターである。
人間認知・学習研究チーム(柴田研究室)(外部)
柴田和久チームディレクターが率いる研究室。ヒトの認知と学習の脳メカニズムを学際的に研究している。
Nature Communications(原論文掲載誌)(外部)
ネイチャー・ポートフォリオが発行するオープンアクセス学術誌。自然科学のあらゆる分野を対象とする査読付きジャーナルだ。
JST ムーンショット型研究開発事業 目標1(外部)
2050年までに身体、脳、空間、時間の制約から人を解放する社会の実現を目指す国家プロジェクトである。
日本学術振興会(JSPS)(外部)
学術研究の助成、研究者の養成、国際交流の促進を担う独立行政法人。本研究も同会の支援を受けている。
【参考記事】
Unsupervised visual learning is revealed for task-irrelevant natural scenes(Nature Communications 原論文)(外部)
本研究の正式論文。自然画像の高次統計量が高次視覚野で注意抑制を回避し、課題無関係でもVPLが生じる機序を報告。
Unsupervised learning as a computational principle works in visual learning of natural scenes(bioRxiv)(外部)
本研究のプレプリント版。自然画像から得た傾きでは学習が生じ、人工画像では生じないことを示した重要文献である。
Paying attention to natural scenes in area V1(iScience)(外部)
マカクザルを用いた電気生理学実験の報告。自然画像でのみ注意が刺激識別精度を高めたことを示した先行研究だ。
Kazuhisa Shibata, Human Cognition and Learning(RIKEN CBS)(外部)
柴田和久チームディレクターの研究業績一覧。研究室の全体像と過去の主要論文が確認できる公式プロフィールである。
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【編集部後記】
今日この記事を読んでくださっているこの瞬間も、画面の周りの景色や、ふと視界に入る窓の外の木々から、私たちの脳は静かに「何か」を学び取っているのかもしれません。集中力やマルチタスクが称賛される時代ですが、もしかすると人間の知性は、もっとゆったりと、環境そのものから滋養を受け取る回路を持っているのではないでしょうか。
みなさんは普段、どんな景色のなかで時間を過ごしていますか。学習効率を求めるあまり削ぎ落としてきた「自然な複雑さ」が、実は新しい発想や直感の源泉になっている――そんな可能性を、一緒に考えてみたいと感じています。












