イェール大学医学大学院の免疫学者グレース・チェンの研究室は、HIVが環状RNA(circRNA)を産生し、ウイルスの遺伝子活性化と複製を促進することを発見した。研究者たちはこのRNAを「circHIV」と命名した。circHIVはHIVのTat(転写トランス活性化因子)タンパク質に結合することで、ウイルスの転写を促進する。
circHIVの発現レベルを増減させることで、HIV遺伝子活性も連動して変化することも確認された。本研究はプリスカ・オビおよびリチョン・ヤンとともに2019年に開始され、2026年3月13日付で学術誌『Nature Microbiology』に掲載された。circHIVは将来のHIV治療における新たな標的となり得る。
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Uncovering HIV’s hidden loop: New finding offers hope for future treatments
【編集部解説】
HIVはこれまで、どれだけ科学者が解明しようとしても、何か「謎」が残り続けるウイルスでした。今回イェール大学の研究チームが発見した「circHIV」は、その謎のひとつに、ようやく光が当たった瞬間と言えます。
まず、今回発見された環状RNA(circRNA)という概念について簡単に整理しましょう。通常のRNAは両端を持つ「線形」の構造をしていますが、circRNAは端がなく、閉じたループ状をしています。端がないということは、RNAを分解する酵素(エキソヌクレアーゼ)が攻撃できないことを意味します。つまり、circRNAは通常のRNAよりもはるかに安定して細胞内に長く留まることができます。
注目すべきは、このcircHIVが単に「存在する」だけでなく、積極的にウイルスの増殖を後押しするメカニズムを持っている点です。HIVのゲノムからバックスプライシングによってcircHIVが生成されると、これはHIVのTatタンパク質と結合し、HIV-1のLTR(ロング・ターミナル・リピート)と呼ばれるウイルスのプロモーター領域からの転写を増強します。これは正のフィードバックループを形成し、ウイルス遺伝子の発現を増幅させます。さらに、circHIVは出芽するビリオン(ウイルス粒子)にも取り込まれており、新たに感染した細胞へと運ばれることも確認されています。ウイルス自らが増殖加速装置を次の感染先へ届ける——これは非常に巧妙な仕組みです。
今回の発見が持つ可能性について考えてみましょう。circHIVはHIV感染者18名の血漿から検出されており、実験系だけでなく実際の患者体内でもその存在が確認されています。このことはcircHIVが創薬標的として現実的であることを示唆しています。circHIVの働きを阻害できれば、ウイルスの転写活性を抑え込む、これまでとは全く異なるアプローチの治療薬開発につながる可能性があります。
一方で、慎重に見ておくべき点もあります。今回の成果はあくまで「発見」と「機序の解明」であり、実際の治療薬開発にはまだ相当な距離があります。circRNAを標的とした医薬品の設計・安全性検証・臨床試験というプロセスには、通常10年以上を要します。また、circHIVを標的とした場合、ウイルスが変異によって回避策を取る可能性も排除できません。
長期的な視点でこの発見を見ると、その意義はHIV治療に留まらないかもしれません。circRNAはその高い安定性から、診断バイオマーカーや治療標的として優れた候補とされており、今回の研究はRNA生物学の新たな地平を切り開くものでもあります。ウイルス由来のcircRNAが疾患進行に関与するという知見は、HIV以外のウイルス感染症研究にも波及効果をもたらす可能性を秘めています。
「RNAを見くびってはいけない」——チェン研究員のこの言葉は、科学における思い込みの危険性を改めて示しています。かつてcircRNAは「無用な副産物」と見なされていました。その「捨てられていたデータ」の中に、HIVの謎を解く鍵が隠されていたのです。
【用語解説】
HIV(ヒト免疫不全ウイルス)
ヒトの免疫細胞(主にCD4陽性T細胞)に感染し、免疫機能を徐々に破壊するレトロウイルス。未治療のまま進行するとエイズ(AIDS)を発症する。現在は抗ウイルス薬による治療で長期コントロールが可能だが、根治療法は存在しない。
環状RNA(circRNA)
通常の線形RNAとは異なり、両端が共有結合で閉じたループ状の構造を持つRNAの一種。末端がないため分解酵素に耐性があり、非常に安定している。かつては「無用な副産物」と見なされていたが、2013年頃から遺伝子発現の調節に重要な役割を果たすことが明らかになってきた。
circHIV
今回の研究でイェール大学チームが発見・命名した、HIV由来の環状RNA。HIVのゲノムからバックスプライシングという仕組みで生成される。Tatタンパク質と結合してウイルスの転写を促進し、HIV増殖の「加速装置」として機能する。
Tatタンパク質(転写トランス活性化因子)
HIVが産生するタンパク質のひとつ。ウイルス自身の遺伝子発現を強力に活性化する「マスタースイッチ」的な役割を担っており、HIV複製において中心的な機能を持つ。今回、circHIVがこのTatタンパク質に結合することが判明した。
バックスプライシング
RNAが通常とは逆方向(下流の配列が上流の配列と結合)にスプライシングされる現象。この特殊なスプライシングによってRNAの末端どうしが共有結合し、環状構造のcircRNAが生成される。
LTR(ロング・ターミナル・リピート)
HIVゲノムの両端に位置する繰り返し配列。ウイルス遺伝子の転写を開始するプロモーターとして機能する。circHIVはTatタンパク質とともにこのLTRからの転写を促進することが確認された。
バイオマーカー
疾患の存在や進行状態を客観的に示す生体内の指標。血液・尿・組織などから検出できる分子が用いられる。circHIVは感染者の血漿中から検出されており、将来的な診断マーカーとしての可能性も注目される。
【参考リンク】
Yale School of Medicine(イェール大学医学大学院)(外部)
米国コネチカット州ニューヘイブンに位置する名門医学大学院。今回の研究はグレース・チェン助教授の研究室を中心に実施された。
Nature Microbiology(外部)
Springer Nature発行の微生物学分野の国際学術誌。微生物の生態・進化・病原性に関する最先端研究を掲載する査読誌。
論文原文:HIV-1-encoded circular RNA enhances viral transcription through Tat binding(外部)
circHIV発見を報告した原著論文。Tatタンパク質との結合メカニズムやビリオンへの取り込みなど、研究の詳細を確認できる一次情報源。
【参考記事】
Closing the loop on HIV-1 circRNAs(Springer Nature Research Communities)(外部)
グレース・チェン本人による研究の舞台裏レポート。HIV-1ゲノムから9種類のcircRNAが発見され、circHIVが特定された経緯を詳述。
HIV-1-encoded circular RNA enhances viral transcription through Tat binding(Nature Microbiology)(外部)
HIV感染者18名の血漿からのcircHIV検出データ、Tatタンパク質との結合機序、ビリオンへの取り込みを報告した査読論文。
Circular RNA produced by HIV boosts viral replication(News Medical)(外部)
医学専門メディアNews Medicalによる報道。共著者18名の詳細とイェール大学内の多部門連携体制を確認できる。
Backsplicing of the HIV-1 transcript generates multiple circRNAs(npj Viruses)(外部)
2025年発表の先行研究。HIVがcircRNAを産生してmiRNAを吸着・阻害することでウイルス複製を促進する別メカニズムを報告。
Uncovering HIV’s hidden loop: New finding offers hope for future treatments(Medical Xpress)(外部)
科学ニュースサイトMedical Xpressによる報道。論文のDOI情報とcircHIVの発現・機能モデル図版を掲載した解説記事。
【編集部後記】
「無用な副産物」と長らく無視されてきたcircRNAが、HIVの謎を解く鍵を握っていた——この事実に、私たちは科学の奥深さを改めて感じています。
見落とされていたものの中に、次の突破口が潜んでいるとしたら、他にもまだ「捨てられたデータ」の中に宝が眠っているのではないでしょうか。みなさんはどう思いますか?







































