Last Updated on 2025-04-11 16:32 by admin
NTT Researchは2025年4月9日から10日にサンフランシスコで開催された年次イベント「Upgrade」において、「Physics of Artificial Intelligence(PAI)グループ」と呼ばれる新しいAI基礎研究部門の設立を発表した。このグループはNTT Researchの既存のPhysics & Informatics(PHI)研究所からのスピンオフであり、物理学、神経科学、機械学習の専門知識を持つNTTの研究者、田中秀典氏が率いる。
PAIグループの主な目的は、AIの「ブラックボックス」特性の理解を深め、AIアプリケーションの信頼性と安全性を促進することである。同グループはハーバード大学脳科学センター(ヴェンカテシュ・マーシー教授)、プリンストン大学(ガウタム・レディ助教授)、スタンフォード大学(サ・ガン教授)などと協力する予定である。
PHIラボがこれまでに達成した主な成果として、わずか4年で750以上の引用を集めたニューラルネットワークの剪定アルゴリズム、米国国立標準技術研究所(NIST)に認められた大規模言語モデル(LLM)のバイアス除去アルゴリズム、AIの概念学習のダイナミクスに関する新しい洞察などがある。
同時に、NTT株式会社は4K解像度(3840×2160ピクセル)で30フレーム/秒の処理が可能な高精細ビデオのリアルタイムAI処理用の新しい大規模集積回路(LSI)チップを発表した。このチップは20ワット未満の電力消費で物体検出アルゴリズムYOLOv3を実行でき、従来のリアルタイムAIビデオ処理の限界を大幅に超えている。例えば、ドローンに搭載した場合、日本でのドローン飛行の法定最高高度である150メートルから個人や物体を識別できる。NTTは2025年度内にNTTイノベーティブデバイス株式会社を通じてこのLSIを市場に投入する計画である。
また、NTTは「The Identity of IOWN」という新書籍の出版も発表した。この本はNTT株式会社の代表取締役社長兼CEOである澁田潤氏と代表取締役副社長兼CTOである川添雄彦氏によるもので、IOWNイニシアチブと持続可能な社会に向けたNTTのビジョンについて詳述している。
NTTグループ全体では年間36億ドル(約5,400億円)の研究開発予算を持ち、NTT Researchは2019年の設立以来、物理学、暗号学、コンピュータサイエンスの基礎研究を行い、PHIラボは学術パートナーとともに150以上の論文を発表している。
from NTT launches physics of AI group and AI inference chip design for 4K video
【編集部解説】
NTT Researchが発表した2つの重要な技術革新について、より深く掘り下げてみましょう。今回のニュースは、AIの基礎研究と実用技術の両面において、日本を代表する通信企業NTTの先進的な取り組みを示しています。
AIの物理学グループの設立とその意義
「Physics of Artificial Intelligence(PAI)グループ」の設立は、単なる組織再編ではなく、AIの「ブラックボックス」問題に対する本格的なアプローチの始まりと言えるでしょう。AIが社会に浸透するにつれて、その判断プロセスの不透明さが信頼性の障壁となっています。PAIグループは、物理学の原理を応用してAIの内部メカニズムを解明し、より信頼性の高いAIシステムの構築を目指しています。
特に注目すべきは、このグループが学際的なアプローチを採用している点です。物理学、神経科学、心理学といった異なる分野の知見を融合させることで、従来のコンピュータサイエンスだけでは解決できなかったAIの課題に取り組もうとしています。これは、AIの開発が単なる技術的な進歩を超えて、人間との協調や倫理的な側面を含む総合的な研究へと発展していることを示しています。
PHIラボが過去に達成した成果には、ニューラルネットワークの剪定アルゴリズムやLLMのバイアス除去アルゴリズムなど、AIの信頼性向上に直結する研究が含まれています。これらの研究成果を基盤として、新設されたPAIグループはさらに専門的な研究を進めていくことになります。
4K動画リアルタイム処理AI推論チップの革新性
もう一つの重要な発表である4K動画用AI推論チップ(LSI)は、エッジコンピューティングの分野に大きなブレークスルーをもたらす可能性があります。従来のAI処理では、高解像度映像をリアルタイムで分析するには、映像の解像度を下げるか、強力なGPUを搭載したサーバーに処理を委託する必要がありました。
NTTの新しいLSIチップは、20ワット未満という低消費電力でありながら、4K解像度(3840×2160ピクセル)の映像を30fpsでリアルタイム処理できる点が革新的です。これは、ドローンや監視カメラなどのエッジデバイスにおいて、高精細な映像分析を可能にします。
特に興味深いのは、このチップがフレーム間相関と動的ビット精度制御を活用して計算効率を高めている点です。これにより、従来のAI推論処理と比較して、より少ない計算リソースで高い精度の物体検出が可能になっています。
実用面での影響と可能性
この技術の実用面での影響は広範囲に及びます。例えば、ドローンによるインフラ点検では、日本の法定最高高度である150メートルからでも人や物体を識別できるようになります。これは従来の30メートルという制限と比較して、監視範囲を大幅に拡大するものです。
また、スポーツイベントでのリアルタイム分析や交通モニタリング、職場の安全管理など、高精細な映像分析が求められる様々な分野での応用が期待できます。特に、人間の目が届かない場所や危険な環境での監視・点検作業の自動化に大きく貢献するでしょう。
技術的な課題と今後の展望
しかし、こうした技術にも課題は存在します。例えば、高精細な映像分析が可能になることで、プライバシーの問題が一層深刻化する可能性があります。ドローンからの監視が容易になれば、個人のプライバシー侵害のリスクも高まります。
また、AIの「ブラックボックス」問題が解決されない限り、AIによる判断の信頼性や説明可能性の課題は残り続けるでしょう。PAIグループの研究は、まさにこの課題に対応するものですが、実用技術への応用にはまだ時間がかかると思われます。
NTTは2025年度内にこのLSIチップを商用化する計画ですが、今後はさらに対応するAIモデルやユースケースを拡大していくことが予想されます。また、IOWNイニシアチブとの連携により、光技術を活用した超高速・低遅延・低消費電力のネットワークインフラとの統合も進められるでしょう。
日本企業としての意義
グローバルなAI開発競争が激化する中、日本企業であるNTTがこうした先進的な研究開発を推進していることの意義は大きいと言えます。特に、AIチップ開発の分野ではNVIDIAなど米国企業が主導権を握っていますが、NTTは特定用途に特化した高効率なAIチップという独自の方向性を打ち出しています。
また、AIの信頼性や倫理的側面に焦点を当てた研究は、日本が得意とする「人間中心のAI」という考え方を体現するものでもあります。AIと人間の協調を重視するこのアプローチは、今後のAI開発において重要な視点となるでしょう。
【用語解説】
Physics of Artificial Intelligence(AIの物理学)
AIの内部動作メカニズムを物理学の原理を用いて解明する研究分野である。AIの「ブラックボックス」問題(AIの判断過程が不透明である問題)に対して、物理学的アプローチで透明性と信頼性を高めることを目指している。これは、蒸気機関の研究が熱力学の発展につながったように、AIの研究が新たな科学的理解をもたらす可能性がある。
ブラックボックスAI
AIシステムの内部動作が不透明で、入力と出力の関係は分かるが、その間の判断プロセスが理解できない状態を指す。特に深層学習を用いたAIモデルでは、複雑な層構造によって判断の過程を追跡することが困難になっている。例えば、顔認証システムがなぜある人を本人と判断したのか、その理由を明確に説明できないような状態である。
LSI(Large Scale Integration)
大規模集積回路のことで、多数の電子回路を一つの半導体チップに集積したものである。今回NTTが開発したLSIは、特に4K動画のリアルタイムAI処理に特化している。一般的なCPUやGPUと比較すると、特定の処理に最適化されているため、より低消費電力で高性能な処理が可能になる。
エッジコンピューティング
クラウドサーバーではなく、データが生成される場所(エッジ)に近いデバイスで処理を行うコンピューティング手法である。データをクラウドに送信する時間や通信コストを削減でき、リアルタイム性が向上する。NTTの4K動画用AI推論チップは、ドローンなどのエッジデバイスで高解像度映像をその場で処理できるようにするものである。
YOLOv3(You Only Look Once version 3)
物体検出アルゴリズムの一種で、画像内の複数の物体を一度の処理で検出できる高速な手法である。従来の物体検出手法と比較して処理速度が速く、リアルタイム処理に適している。NTTの新LSIはこのアルゴリズムを20ワット未満の低消費電力で実行できる。
IOWN(Innovative Optical and Wireless Network)
NTTが提唱する次世代通信インフラ構想で、光技術を基盤とした革新的なネットワーク、情報処理基盤である。従来の電子処理に比べて、超高速・超低遅延・超低消費電力を実現することを目指している。NTTの4K動画用AI推論チップもこのIOWN構想の一環として位置づけられている。
属性ベース暗号化(ABE: Attribute-Based Encryption)
データへのアクセス権限を属性(役職、部署、プロジェクトなど)に基づいて細かく制御できる暗号化技術である。従来の暗号化では特定のユーザーに対してのみ復号化権限を与えるが、ABEでは「マネージャー職かつ開発部門に所属」といった条件を満たすユーザー全員がアクセスできるようにするなど、より柔軟なアクセス制御が可能になる。
【参考リンク】
NTT Research(外部)NTTの基礎研究部門で、物理学・情報科学、暗号・情報セキュリティ、医療・健康情報学の分野で先端的な研究を行っている。
NTTイノベーティブデバイス株式会社(外部)NTTグループ唯一のハードウェア製造会社で、光エレクトロニクス融合デバイスの開発・製造を行っている。
IOWN Global Forum(外部)NTTが主導する国際的な産業フォーラムで、次世代通信インフラIOWNの技術仕様策定や普及促進を行っている。