計算機は、必ずしもシリコンチップの中にある必要はないのかもしれません。MITが示したのは、細菌同士を分子信号でつなぎ、論理処理を担わせる方法です。処理速度ではなく「どこで計算できるか」という視点から見ると、生物とコンピューティングの境界が少し違って見えてきます。
2026年8月17日、MITの研究チームは、細菌 Pantoea agglomerans をトランジスタのように機能させ、複数のコロニーを接続する「生きた回路基板」を開発した。
2種類の細菌トランジスタと3種類の中継用細菌株を組み合わせ、論理演算や信号の加算、デマルチプレクサを実証。最大の回路は24個の細菌コロニーで構成され、1回の計算には約8時間かかる。研究チームはコンピューターの代替ではなく、将来的に植物の葉や根などへ計算機能を組み込み、乾燥や害虫といった環境条件を検知・処理する用途を想定している。
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MIT engineers connect bacteria to create living transistors
【編集部解説】
重要なのは「細菌でコンピューターを作った」ことではない
今回の研究は、「細菌を使って電子コンピューターを置き換える」という話ではありません。MITの研究チーム自身も、通常のコンピューターを代替することが目的ではなく、生物の中に計算による制御を持ち込むことが狙いだと説明しています。
実際、今回構築された細菌回路は、1回の計算に約8時間を必要とします。電子回路と速度を競えば、実用的なコンピューターとは呼びにくい性能です。
しかし、植物の成長や環境変化を扱う場合、この時間軸の意味は変わります。MITのChristopher Voigt氏は、植物の根に細菌が存在し、成長シーズンを基準に考えるなら、一晩かけて単純な計算を行う速度でも十分になり得ると説明しています。
ここに今回の研究の特徴があります。重要なのは「どれだけ速く計算できるか」ではなく、これまで計算機を置きにくかった場所に、判断機能そのものを持ち込める可能性があることです。
1つの細胞を複雑にするのではなく、単純な細胞をつなぐ
合成生物学では、細胞に遺伝子回路を組み込み、特定の分子を検知したときに別の物質を生成させるといった処理を設計できます。ところが1つの細胞に多くの回路を組み込もうとすると、回路同士の干渉を避けるために異なる転写因子が必要になり、利用できる部品の数が制約になります。また、多数の回路を組み込むことで細胞のタンパク質生産機構に負荷がかかるという問題もあります。
今回の研究は、この問題に対して「1個の細胞を高機能化する」のではなく、「比較的単純な機能を持つ細胞を複数つなぐ」という方法を採りました。原著論文では、この仕組みをPass Transistor Logicを基にした多細胞型の遺伝子回路として構築しています。
研究チームが用意した基本部品は、2種類のトランジスタ役と3種類の中継役、合計5種類の Pantoea agglomerans です。これらを寒天培地上で異なる配置に並べることで、遺伝子をその都度設計し直すのではなく、「どの細菌をどこに置くか」によって回路の機能を変えられる構造になっています。
これは電子回路で、同じ種類の基本部品を配線によって組み替え、別の機能を作る考え方に近いものです。
「配線」の代わりに分子が情報を運ぶ
もちろん、細菌同士が電線で接続されているわけではありません。
研究では、細菌が作る低分子を信号として利用しています。トランジスタ役の細菌が入力条件に応じて分子を出力し、その信号を中継役の細菌が受け取り、次のトランジスタへ伝えていきます。
さらに細菌コロニーを約5ミリメートル間隔で配置することで、信号が基本的に近くのコロニーへ伝わるようにし、情報が流れる方向を制御しています。
この仕組みを組み合わせ、研究チームは複数入力を扱う論理演算だけでなく、信号を加算する回路や、入力信号を制御信号に応じて異なる送り先へ振り分けるデマルチプレクサなども実証しました。最大の回路では24個の細菌コロニーが接続されています。
つまり、「細胞そのものを1台の高性能コンピューターにする」のではなく、単純な細胞を配置と分子通信によって組み合わせ、より複雑な計算へ拡張する考え方です。
植物が「検知する」だけでなく「判断する」可能性
研究チームが応用先として挙げているのが農業です。
将来的には、こうした細菌回路を植物の葉や根に配置し、乾燥や害虫などの環境条件を検知し、それらの情報を処理してから特定の反応を起こすシステムを構想しています。MITは例として、植物の根で特定のストレスを検知した場合に、殺菌剤を合成するような仕組みを挙げています。
ここでポイントになるのは、単純なバイオセンサーとの差です。
「ある物質が存在したら反応する」という1対1の検知だけでなく、複数の入力を組み合わせて論理処理できれば、「条件Aと条件Bがそろった場合だけ反応する」「入力内容によって異なる反応先を選ぶ」といった制御を生物学的な環境の中で行える可能性があります。今回、複数入力やデマルチプレクサまで実証された意味は、この判断機能を構成できることにあります。
一方で、現段階で実証されているのは寒天培地上に配置した細菌コロニーによる回路です。植物の葉や根に展開して、農場などの実環境で長期間動作するシステムまで完成したわけではありません。
今回示されたのは、農業用の完成したバイオコンピューターではなく、生物のいる場所そのものを「計算する場所」に変えるための基本部品を組み立てられることです。
シリコン上の計算を速くするのとは異なる方向で、コンピューティングを物理的にどこまで広げられるのか。その選択肢を一つ増やした研究として見ると、この「生きたトランジスタ」の位置づけが分かりやすくなります。
【関連記事】
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合成生物学|innovaTopia
合成生物学の基本概念と、医薬品、農業、環境、バイオセンシングなどへの応用を整理した解説。今回の細菌トランジスタを、より広い合成生物学の流れから理解するための基礎情報。
【編集部後記】
「細菌が計算する」と聞くと、まずSF的な印象を受けます。しかし今回の研究で興味深いのは、計算速度を競うのではなく、計算機そのものを生物のいる場所へ近づけようとしている点です。1回の処理に約8時間かかるという数字も、植物や農業の時間軸で見れば、必ずしも致命的な遅さとは限りません。シリコンの性能向上とは別の方向から、コンピューティングの用途を広げようとしていることに、この研究の面白さを感じました。将来、植物の根や葉そのものが環境を検知し、判断し、反応する仕組みが現実になれば、「コンピューターはどこにあるのか」という感覚も変わっていきそうです。
生物と計算機を別々のものとして考えてきた境界が、少しずつ曖昧になっていることを印象づけるニュースでした。
【用語解説】
合成生物学(Synthetic Biology)
遺伝子や細胞などの生物学的な構成要素を工学的に設計・組み合わせ、自然界にはない機能や制御システムを生物に持たせる研究分野。今回の研究では、細菌を論理回路の構成要素として利用。
遺伝子回路(Genetic Circuit)
遺伝子の発現を入力・処理・出力として組み合わせ、生物の細胞内で論理処理や応答を実現する仕組み。電子回路に似た考え方で設計される。
トランジスタ
電子回路で電気信号の増幅やスイッチングを行う基本素子。今回の研究では、電流ではなく低分子の伝達を制御する細菌をトランジスタになぞらえている。MITは、細菌が小分子の流れを制御し、下流の回路要素へ信号を送る仕組みとして説明。
デマルチプレクサ(Demultiplexer)
1つの入力信号を、制御信号に応じて複数の出力先のいずれかへ送る回路。今回の研究では、細菌トランジスタを組み合わせて生物学的なデマルチプレクサが実証された。
Pantoea agglomerans
植物表面などにも存在する細菌。今回の研究では、この細菌を遺伝子操作し、トランジスタ役と信号を中継するリレー役として利用。
【参考リンク】
MIT Department of Biological Engineering(外部)
MITの生物工学部門。今回の研究のシニア著者Christopher A. Voigt氏が学科長を務め、合成生物学などの研究を展開。
Christopher A. Voigt | MIT Department of Biological Engineering(外部)
今回の研究のシニア著者Christopher A. Voigt氏のMIT公式プロフィール。遺伝子工学や合成生物学を中心とする研究分野を紹介。
Voigt Lab | MIT(外部)
Christopher Voigt氏の研究グループ。生物システムを工学的に設計する合成生物学研究を展開。
【参考記事】
Living circuit boards built by printing bacterial transistors|Nature Chemical Biology(外部)
今回の研究成果を報告した原著論文。Pass Transistor Logicを基に、細菌を空間的に配置して論理回路、加算回路、デマルチプレクサなどを構成する多細胞型遺伝子回路を報告。
A programming language for living cells|MIT News(外部)
Voigt氏らが2016年に発表した、細菌内部の遺伝子回路をプログラムするための設計技術を紹介。今回の研究以前のアプローチを理解する参考情報。
MIT team builds most complex synthetic biology circuit yet|MIT News(外部)
Voigt氏らが1つの細胞内部に複雑な合成遺伝子回路を構築した過去の研究。今回の分散型アプローチとの比較材料。


















