犬を「家族の一員」として扱う文化的変化が、今度は科学の側にも変化を求め始めています。長年、ペット向けプロバイオティクスは人間や家畜向けに開発された菌株を転用するのが業界標準でした。しかし犬の腸内環境は人間とは異なり、その転用の有効性に疑問が呈され続けてきました。2026年4月、香料・成分素材の世界大手IFFが発表したPureStrongは、「犬のために作られた」ではなく「犬から生まれた」プロバイオティクスです。この一線を越えた成分素材が、ペット栄養科学のあり方を問い直す動きの一つとなっています。
2026年4月2日に報じられたIFF(NYSE: IFF)の新製品PureStrongは、犬の消化器健康向けに開発されたプロバイオティクス成分素材だ。香料・食品成分・バイオサイエンスの世界的大手IFFが、同社のHOWARU Petポートフォリオの一環として発表した。
PureStrongの最大の特徴は、人間向けまたは家畜向けに開発された菌株の転用ではなく、健康な犬のマイクロバイオームから直接採取したLimosilactobacillus reuteriの単一株を使用する点にある。犬の腸内環境に自然に適応したこの菌株は、パウダー・カプセル・タブレット・スティックといった複数のフォーマットに対応するBtoB向け成分素材であり、ペットフードメーカーやサプリメントブランドへの供給を目的としている。
急激な食事変更を行った健康な犬を対象とした対照試験では、PureStrong投与群に消化器健康マーカーの改善、水分補給の維持、新食への耐性向上、便の適切な硬さ(便秘なし)が確認された。米国のペットサプリメント市場は32億ドル規模であり、米国のペット飼育者の約半数がプロバイオティクスを購入済みまたは購入を検討している。
From:
IFF Launches PureStrong™, a Probiotic Made Specifically for Dogs
【編集部解説】
ペットの「腸活」——人間だけの話ではなくなった
「腸活」という言葉は、日本ではすでに広く知られるようになりました。ヨーグルトや発酵食品、オリゴ糖や食物繊維などを意識的に摂り、腸内環境を整えることで免疫や体調を改善しようとする考え方は、多くの人にとってもう珍しいものではないでしょう。
では、その発想を「犬」に向けたことはあるでしょうか。
犬の腸にも、人間と同じように膨大な数の微生物が棲んでいます。消化・栄養吸収・免疫調節に腸内細菌が深く関わっているという生物学の基本原理は、人間だけに当てはまるものではありません。食事の変化、引っ越しや旅行のストレス、加齢、これらが腸内環境を乱し、下痢や消化不良として現れるのは、人間でも犬でも共通する構図です。
米国では、この考え方がすでに一つの産業を形成しています。そして今、その産業がある種の変化を迎えようとしています。IFFのPureStrongは、その変化を象徴する製品です。
米国ペットプロバイオティクス市場では何が起きているのか
日本ではまだなじみの薄いペット向けプロバイオティクスですが、米国ではすでに確立した市場カテゴリです。
グローバルのペットプロバイオティクスサプリメント市場は、2025年時点で約11億ドル規模とされ、2030年には16.5億ドル(年平均成長率8.4%)に達する見通しです。このうち犬向けが売上の78%を占めており、北米が市場全体の40〜50%を握っています。
この市場を動かしているのは「ペットのヒューマナイゼーション(人間化)」と呼ばれる現象です。犬を家族の一員として扱い、自分が健康のためにしていることを犬にもしてあげたいという思いの延長線上に、ペット向けプロバイオティクスがあります。
ペット向けプロバイオティクスは「ニッチな健康食品」ではなく、ペットケア産業の最大手が本格参入する主要カテゴリになっています。
なぜ「犬から採って犬に使う」が重要なのか
既存の製品の多くには、一つの共通点があります。使われている菌株が、もともと人間や家畜のために開発されたものだということです。
多くの製品はもともとヒトの腸から単離された菌株を犬用に「転用」しています。業界としては合理的な選択でした。人間で安全性が確認された菌株は規制のハードルが低く、製造インフラも既存のものが使えます。
しかし、この「転用」にはそもそも科学的な限界があります。獣医師の間では、人間用プロバイオティクスを犬にそのまま使うことへの懸念が以前から指摘されてきました。犬の消化管は人間とはpH(酸性度)が異なり、人間向けに最適化された菌株が犬の胃酸を通過して生きたまま腸に届く保証はありません。菌株の効果は犬を対象とした臨床試験で個別に検証される必要がありますが、その検証が十分とは言えない製品も少なくありません。
ここに風穴を開けようとしているのが、「犬のマイクロバイオームから採取した菌株を、犬に使う」というアプローチです。
なぜ成分素材メーカーの参入が決定的なのか
PureStrongは消費者が直接買えるサプリメントではなく、ペットフードメーカーやサプリメントブランドに供給される「原料」です。
この違いは、業界への波及効果の点で大きな意味を持ちます。一つのブランドが自社製品に犬由来株を使うのと、業界全体に成分素材として供給するのでは、影響の範囲がまったく異なります。PureStrongはパウダー・カプセル・タブレット・スティックといった複数の製品形態に対応しており、採用したいブランドは自社の製品設計に合わせてこの菌株を組み込むことができます。
使用菌株は多くの哺乳類・鳥類の消化管に存在しますが、宿主ごとに異なる株が進化しており、犬由来の株は犬の腸環境への適応性が高いとされています。2024年の研究では、犬から単離されたL. reuteri LRA7株がpH 2.5という強酸性環境下で約80%の生存率を示し、胃腸液および胆汁酸塩への曝露後も一定の菌数を維持したことが報告されており、科学的根拠の一つとなっています。
「犬由来の菌株を犬に使う」という発想が、一部の先進的なブランドの実験ではなく、サプライチェーンの上流から業界標準として供給され始めたということです。
日本でまだ見えていない市場
日本のペットサプリメント市場は米国と比べると規模は小さいものの、着実な成長傾向にあります。
しかし、「犬のためのプロバイオティクス」という考え方が日本の飼い主の間で広く浸透しているかといえば、率直に言ってまだこれからでしょう。米国のように獣医師がプロバイオティクスを日常的に推奨する文化は、日本ではまだ形成途上です。PureStrongのような犬由来株の成分素材が日本のペットフードやサプリメントに採用されるとしても、それは米国市場での普及が先行した後の話になる可能性が高いと思われます。
とはいえ、ペットの健康管理に対する日本の飼い主の意識は年々高まっています。「人間に良いものは犬にも良いはず」という漠然とした前提から、「犬の体に合ったものを犬に」という科学的に正確な考え方へと意識がシフトしていく流れは、いずれ日本にも届くでしょう。
【用語解説】
プロバイオティクス(Probiotics)
適量を摂取することで宿主に健康上の利益をもたらす、生きた微生物の総称。WHO・FAOによる2001年の定義が国際的な基準。腸内細菌叢のバランスを整え、消化・免疫・栄養代謝の改善に関与するとされる。
マイクロバイオーム(Microbiome)
ある環境(人体・動物の体内・土壌等)に棲む微生物の集合体、またはそのゲノム情報の総称。腸内マイクロバイオームは細菌・ウイルス・真菌などで構成され、消化・免疫・内分泌など全身機能への関与が明らかにされつつある。ヒトと犬では棲む菌種の組成が異なる。
Limosilactobacillus reuteri(リモシラクトバチルス・ロイテリ)
ヒト・犬・豚・鶏など多くの哺乳類・鳥類の消化管に存在する乳酸菌。2020年にLactobacillus reuteriから改名・再分類。宿主の種ごとに異なる株(strain)が進化しており、犬由来の株は犬の腸内環境への適応性が高いとされる。PureStrongの核心成分。
菌株(Strain)
同一の菌種(Species)に属するが、遺伝的・機能的に区別できる個体群の単位。プロバイオティクスの効果は菌種レベルではなく菌株レベルで決まる。耐酸性・腸壁への定着性・競合能力・免疫調節効果などは株ごとに異なり、宿主への適合性も株依存。
ペットのヒューマナイゼーション(Pet Humanization)
ペットを家族の一員として、人間と同等の配慮と支出をもって扱う文化的傾向。食事・医療・心理ケアにおいてヒト向けと同水準を求める意識の高まりが、ペットヘルス産業全体の成長を牽引。ペット向けプロバイオティクスが主要カテゴリになった背景。
【参考リンク】
IFF HOWARU® Pet(公式)(外部)
IFFが展開するペット向けプロバイオティクスポートフォリオの公式ページ。犬・猫向け菌株・科学的根拠・BtoBブランド向け問い合わせ窓口を掲載。
IFF(International Flavors & Fragrances)公式サイト(外部)
香料・食品成分・バイオサイエンスの世界的大手。ヘルス&バイオサイエンス部門でプロバイオティクスを含む機能性成分素材を展開。
Native Microbials(外部)
ゲノミクス・バイオインフォマティクス技術で動物のマイクロバイオームから宿主特異的な微生物ソリューションを開発するスタートアップ。2025年にZesty Pawsと戦略的提携を発表。
Purina FortiFlora(犬用プロバイオティクス)(外部)
Nestlé Purina傘下の犬・猫向けプロバイオティクスサプリ。米国で獣医師推奨No.1のブランドポジションを持つ業界のベンチマーク製品。
ISAPP(プロバイオティクス&プレバイオティクス国際科学会)(外部)
プロバイオティクス・プレバイオティクスの科学的定義・研究動向を発信する国際学術団体。
Zesty Paws(ゼスティ・ポーズ)(外部)
米国の主要ペットウェルネスサプリメントブランド。2026年1月に犬由来菌株配合の「Native Canine Probiotic」を獣医師専用ラインとして発売。
【参考記事】
Potential Probiotic Properties and Complete Genome Analysis of Limosilactobacillus reuteri LRA7 from Dogs — Microorganisms(2024年)(外部)
犬から単離されたL. reuteri LRA7株の体外・体内プロバイオティクス特性を評価した査読済み論文。pH 2.5での生存率約80%など犬由来株の腸内適応性を示す。
Microbiota and probiotics in canine and feline welfare — PMC レビュー論文(外部)
犬・猫のマイクロバイオームとプロバイオティクス研究を包括的にまとめたレビュー。宿主由来の微生物が最適なプロバイオティクス源である可能性と種特異的な菌株研究の必要性を論じる。
Native Microbials and Zesty Paws Partner on Canine Probiotics — PetfoodIndustry.com(2025年11月)(外部)
犬のゲノミクス技術を持つNative MicobialsとZesty Pawsの提携を報じた業界専門メディア記事。獣医専用ラインを含む2製品の詳細を収録。
Pet Probiotics Supplements Market Report 2025–2030 — Mordor Intelligence(外部)
グローバルのペットプロバイオティクスサプリ市場規模・成長予測・犬セグメントシェア78%・主要プレイヤーの投資動向を収録した市場調査レポート。
Built for dogs: IFF launches probiotic for canine gut health — Nutrition Insight(2026年4月7日)(外部)
PureStrong発売を報じた業界専門メディア記事。Purina Pro PlanのAdvantEDGEラインなど同時期の競合動向も報告し、2026年4月時点の市場地図を把握できる。
Gut Probiotics and Health of Dogs and Cats — PMC レビュー論文(2023年)(外部)
犬・猫へのプロバイオティクス適用の現状・効果・メカニズムを包括的にまとめたレビュー。腸内バリア機能・免疫調節・代謝疾患への応用などを解説。
【編集部後記】
「犬から採って、犬に返す」それは当たり前に聞こえますが、業界がそれを実現するまでに長い時間がかかりました。そのことを少し、立ち止まって考えてみたいのです。
ペットの「腸活」という発想がいつの間にか私たちのそばに来ていること、そしてその科学が「転用」から「種固有」へと静かに成熟しつつあること。それは動物の健康を扱う科学が、ようやく当たり前のことを当たり前にしようとしている歩みでもあります。
「犬は人間と違う」これはシンプルな事実ですが、産業のロジックは時にそれを見過ごします。今回の動きが、ペット向け製品全体にそのシンプルな問いを再び問いかけるきっかけになるか。私たちもこの市場の行く先を、引き続き追っていきます。











