カシオの脳活キーボード「LK-550」|”脳トレブーム”から20年、何が変わったのか

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カシオの時計以外の顔を、私たちはこれまで何度か取り上げてきました。40年ぶりに復活したサンプラー、海外に進出したAIペット、時計としても使えるスマートリング——いずれも、G-SHOCKの好調が生んだ余力の使い道を映すものでした。9月4日に発売された光ナビゲーションキーボード「LK-550」は、その最新の一章にあたります。今回搭載された「脳活」機能には、約18年前から続く同社の”脳”へのこだわりの系譜があることも見えてきました。本稿は各種報道や決算資料から得られる事実を足がかりに、そこから先をinnovaTopia独自の視点で展開していきます。


光ナビゲーションキーボードの新製品「LK-550WE」「LK-550BK」「LK-350」は、2026年9月4日にカシオ計算機から発売された。市場想定価格はLK-550が39,600円、LK-350が25,300円(いずれも税込)。1996年発売の「CTK-520L」を起点とする光ナビゲーションキーボードは今年で30周年を迎え、上位機のLK-550には東京大学先端科学技術研究センターとの共同研究成果を反映した「脳活BGM」「脳活カラオケ」が新たに搭載された。開発の発端は、既存上位機へのアンケートで「ボケ防止」「脳トレ」「脳活」「認知症予防」が購入理由の最多回答だったことにある。「脳にキク」フレーズは今回が初搭載ではなく、東北大学の学術指導のもと約18年前の機種から搭載されてきた機能である。

From: 文献リンクカシオの電子キーボードが『脳活』に進化!

【編集部解説】

「脳活」は、今回が初めてではありません

LK-550の「脳活BGM」「脳活カラオケ」は東京大学先端科学技術研究センターとの共同研究による新機能ですが、同じシリーズに搭載され続けてきた「脳にキク」フレーズは、実は約18年前からある機能です。学術指導にあたってきたのは、東北大学 加齢医学研究所の川島隆太教授です。

この名前に見覚えがある方は、40代以上の読者に多いかもしれません。川島教授は、2005年に任天堂から発売され社会現象となった「脳を鍛える大人のDSトレーニング」の監修者、その人です。当時の任天堂社長・岩田聡氏が自ら試作機を携えて研究室を訪ね、「ちゃんと脳に効いているから、商品化できますよ」という言葉を得て世に送り出したこのソフトが、いわゆる”脳トレブーム”の起点になりました。カシオの「脳にキク」フレーズは、この熱がまだ社会に残っていた時期に生まれた機能だったことになります。

「効くのか、効かないのか」という、繰り返されてきた問い

脳トレゲームやソフトが「本当に脳に効くのか」という問いは、2000年代半ばのブーム当初から、実のところずっと決着していません。

2010年、ケンブリッジ大学のエイドリアン・オーウェン氏らが英BBCと共同で実施した11,430名規模の実験結果が『ネイチャー』誌に掲載されました。6週間の認知トレーニングを受けた被験者は、訓練した課題そのものの成績は向上したものの、その効果が別の未訓練の課題には及ばなかったという結果です。この結論は、2013年のノルウェー・オスロ大学によるメタ分析(23件)や、2015年の米イリノイ大学によるレビュー(132件)でも、繰り返し確認されています。

この英BBCの実験結果を受けて、任天堂は当時、「脳を鍛える大人のDSトレーニング」について認識能力の改善が科学的に立証されたとの主張はしていない旨をコメントしています。ブームの渦中にあった企業自身が、当初から「科学的に証明された」とは言い切っていなかった点は、記録しておく価値があるでしょう。

脳トレゲーム「ルモシティ(Lumosity)」を提供していた米企業は2016年、認知機能低下を軽減するという根拠のない主張で消費者を欺いたとして、米連邦取引委員会(FTC)から200万ドルの制裁金を科されています。カシオの今回の訴求は「楽しく脳活」程度の表現にとどまり、Lumosityほど踏み込んだ主張はしていません。ただ、”訓練した課題の成績は上がるが、それが日常生活の認知機能全般の向上を意味するとは限らない”という構図そのものは、今回の共同研究(健常な高齢者を対象とした自社施設での実証実験で、学会発表のみが確認でき、査読付き論文は確認できない)にも、程度の差はあれ当てはまりうる問いとして残ります。

何が同じで、何が変わったのか

とはいえ、2005年の”脳トレブーム”と今回のLK-550には、明確な違いもあります。

当時の脳トレは、受験生からビジネスパーソンまで幅広い世代の「頭の回転を速くしたい」という欲求に応えるものでした。今回のLK-550が前面に出しているのは、「ボケ防止」「認知症予防」という、より狭く、より切実な高齢者向けの訴求です。この変化は、2005年から2026年までの約20年間に日本の高齢化がどれだけ進んだかを、そのままなぞっているようにも見えます。

同じ「脳」という言葉を掲げていても、狙う欲求は「速くなりたい」から「衰えたくない」へと移ってきた——そう捉えると、LK-550は単なる一企業の新製品ではなく、日本社会の不安の在り処がこの20年でどう変わったかを映す指標としても読めるかもしれません。

時計の利益が、何を支えているのか

もう一つ、系譜として見ておきたいことがあります。この種の研究開発を時計事業の収益が支えているという構造は、海外メディアのNotebookcheckも発表当日に指摘しています。同社の決算では時計事業が全社利益の大半を占め、楽器を含むコンシューマ事業は1割程度にとどまります。

私たちも「カシオの時計以外の顔」として、この構造をSXC-1やMoflin、CRW-H001の記事で繰り返し取り上げてきました。LK-550はその系譜の最新の一台であると同時に、今回見えてきたのは、その”もう一つの顔”自体にも約20年分の歴史が積み重なっているということです。

【関連記事】

【編集部後記】

「脳に効く」という言葉自体は、この20年、姿を変えながらずっと私たちの周りにあり続けてきました。それでも今回のLK-550には、あの2005年の熱狂そのものを思わせる響きがあります。ボケ防止のためにキーボードを弾く人、ただ歌うのが楽しくて弾く人——同じ鍵盤の前で、私たちは何を求めているのでしょうか。もし身近に「脳トレ」目的で楽器や体操を続けている方がいれば、その理由を聞いてみると、また違った景色が見えてくるかもしれません。

【参考リンク】

  1. カシオ Casiotone「LK-550」製品ページ(外部)
    LK-550の仕様・カラー展開を確認できる公式ページ
  2. カシオ計算機 プレスリリース(2026年8月26日)(外部)
    LK-550/LK-350発売にあたっての公式発表
  3. 東京大学先端科学技術研究センター(外部)
    今回の共同研究相手となった研究機関の公式サイト
  4. 任天堂公式「社長が訊く」川島隆太教授篇(外部)
    「脳を鍛える大人のDSトレーニング」誕生の経緯を、当時の岩田聡社長と川島教授本人が語るインタビュー
  5. Nature「脳トレーニングを検証する」日本語要約(外部)
    脳トレの効果の限界を示した2010年の研究の要約

【用語解説】

  • 光ナビゲーションキーボード:鍵盤が光って弾く場所を示す、カシオの電子キーボードシリーズの通称。1996年発売開始、2026年で30周年
  • メタ分析:複数の先行研究の結果を統合し、より高い精度で傾向を検証する統計手法
  • 査読(付き論文):研究成果を専門誌に掲載する前に、同分野の専門家が内容を審査する仕組み。学会発表のみの研究は、この審査を経ていない段階にあたる
  • 米連邦取引委員会(FTC):消費者保護や公正な競争の維持を担う米国の行政機関。誇大広告の取り締まりなどを行う

【参考記事】

  1. Notebookcheck「Casio’s newest product isn’t a G-Shock — it’s the LK-550, and it’s aimed at your brain」(外部)
    時計事業とコンシューマ事業の営業利益を対比し、LK-550を大学の権威づけで楽器事業を立て直す試みと評した記事
  2. Notebookcheck「Casio’s keyboard business is quietly dying」(外部)
    カシオのサウンド事業が抱える構造的な赤字と再建計画を報じた記事
  3. Nature「脳トレーニングを検証する」日本語要約(外部)
    英ケンブリッジ大学のオーウェン氏らによる、脳トレの効果に転移がみられないとする大規模実験の要約
  4. 文春オンライン「『脳トレ』ゲームは、本当に脳に効くのか?」(外部)
    脳トレの効果をめぐる複数のメタ分析と、Lumosityの制裁金事例を整理した記事
  5. GameBusiness.jp「『脳トレ系ゲームに効果なし』−英国で1万人規模の大実験」(外部)
    英BBCの実験結果と、それを受けた任天堂広報のコメントを報じた記事
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乗杉 海
SF小説やゲームカルチャーをきっかけに、エンターテインメントとテクノロジーが交わる領域を探究しているライターです。 SF作品が描く未来社会や、ビデオゲームが生み出すメタフィクション的な世界観に刺激を受けてきました。現在は、AI生成コンテンツやVR/AR、インタラクティブメディアの進化といったテーマを幅広く取り上げています。 デジタルエンターテインメントの未来が、人の認知や感情にどのように働きかけるのかを分析しながら、テクノロジーが切り開く新しい可能性を追いかけています。

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