Last Updated on 2025-05-31 13:27 by admin
メルク(Merck & Co.)と第一三共は2025年5月29日、HER3標的抗体薬物複合体patritumab deruxtecan(HER3-DXd)について、局所進行性または転移性EGFR変異非小細胞肺がん患者を対象とした米国FDAへの生物製剤承認申請(BLA)を自主的に取り下げたと発表した。
取り下げの理由は、確認的第3相試験HERTHENA-Lung02において全生存期間(OS)が統計学的有意性を達成できなかったことと、FDAとの協議に基づく。同試験では586名の患者が登録され、HER3-DXd群(5.6mg/kg、3週間毎投与)とプラチナ・ペメトレキセド併用化学療法群で比較された。両社は2023年に最大220億ドル規模の協業契約を締結し、patritumab deruxtecanを含む3つのADCの共同開発・商業化を開始していた。
FDAは2024年6月26日に第三者製造施設の査察所見を理由に完全回答レター(CRL)を発行していたが、今回の取り下げはCRLとは無関係とされる。
両社は現在15種類のがんを対象とした臨床試験を継続中で、バイオマーカー解析を通じて恩恵を受ける患者の特定を進めている。
From: Merck, Daiichi Sankyo scrap FDA application for HER3 ADC after survival miss
【編集部解説】
今回のメルクと第一三共によるpatritumab deruxtecan(HER3-DXd)のFDA申請取り下げは、ADC(抗体薬物複合体)技術の現在地と課題を浮き彫りにする重要な事例といえるでしょう。
ADCは「誘導ミサイル」とも呼ばれる革新的な技術で、がん細胞に特異的に結合する抗体と、強力な細胞毒性薬剤を化学的にリンカーで結合させた薬剤です。HER3-DXdは、がん細胞表面に高発現するHER3タンパク質を標的とし、細胞内でエキサテカン誘導体(DXd)を放出してがん細胞を破壊する仕組みを持ちます。第一三共独自のDXd技術は、安定したテトラペプチド基盤の切断可能リンカーを特徴としています。
HERTHENA-Lung02試験の詳細と課題
今回の第3相試験ではHER3-DXd(5.6mg/kg、3週間毎投与)群とプラチナ・ペメトレキセド併用化学療法群で比較されました。対象患者はEGFR変異(エクソン19欠失またはL858R変異)を有する進行性非小細胞肺がんで、第3世代EGFRチロシンキナーゼ阻害剤治療後に病勢進行した症例です。無増悪生存期間では統計学的有意差を達成していたものの、最終的な全生存期間で有意差を示せませんでした。
220億ドル協業への影響と戦略的意義
この挫折は、2023年に締結された両社の大型協業における主力候補の躓きを意味します。第一三共は近年、trastuzumab deruxtecan(T-DXd、商品名:エンハーツ)で乳がん・胃がん領域において大きな成功を収めており、2025年1月17日にはdatopotamab deruxtecan(Dato-DXd、商品名:Datroway)が米国でHR陽性HER2陰性乳がんの適応で承認されるなど、DXd技術プラットフォームの有効性は実証されています。
製造品質管理と規制当局との関係性
2024年6月26日のFDAによる完全回答レター(CRL)は第三者製造施設の査察に関する指摘でしたが、今回の申請取り下げはCRLとは無関係とされています。しかし、ADCのような複雑な構造を持つ薬剤では、製造品質管理が極めて重要な要素となることが改めて浮き彫りになりました。
EGFR変異肺がん治療の現状と課題
EGFR変異陽性非小細胞肺がんは、初回治療では高い効果を示すEGFRチロシンキナーゼ阻害剤が利用できますが、耐性獲得後の治療選択肢は限られているのが現状です。HER3タンパク質は進行EGFR変異腫瘍の約90%で発現するとされており、理論的には有望な標的でしたが、臨床的な有効性の実証は困難を極めています。
今後の展望と継続的な開発
両社は15種類のがんを対象とした臨床試験を継続中であり、バイオマーカー解析を通じて恩恵を受ける患者群の特定を進めています。第一三共のDXd技術プラットフォームの成功実績を考慮すると、適応症の見直しや患者選択の精緻化により、将来的な承認の可能性は残されています。ADC分野全体では数百億ドル規模のライセンス契約や買収が続いており、技術革新への期待は依然として高い状況です。
【用語解説】
ADC(抗体薬物複合体)
がん細胞に特異的に結合する抗体と、強力な細胞毒性薬剤を化学的なリンカーで結合させた薬剤。「誘導ミサイル」とも呼ばれ、健康な細胞を温存しながら腫瘍細胞を標的として殺傷することを目的としている。
HER3(ヒト上皮成長因子受容体3)
EGFR(上皮成長因子受容体)ファミリーの一員で、多くのがん種で高発現し、がん細胞の増殖や生存に関与するタンパク質。キナーゼ活性を持たないため、他のHERファミリーとの二量体形成により機能する。
DXd技術
第一三共が開発した独自のADC技術プラットフォーム。エキサテカン誘導体(DXd)を細胞毒性薬剤として使用し、安定したテトラペプチド基盤の切断可能リンカーで抗体と結合させる技術。
EGFR変異陽性非小細胞肺がん
肺がんの約85%を占める非小細胞肺がんのうち、EGFR遺伝子に変異を持つタイプ。アジア人女性の肺腺がんで高頻度に見られ、EGFR阻害剤による治療効果が期待できるが、耐性獲得後の治療選択肢は限定的である。
無増悪生存期間(PFS)
がん治療において、治療開始から病気の進行または死亡までの期間。治療効果を評価する重要な指標の一つ。
全生存期間(OS)
治療開始から死亡までの期間。がん治療の最終的な効果を示す最も重要な評価指標とされる。
完全回答レター(CRL)
FDAが生物製剤承認申請(BLA)や新薬承認申請(NDA)を承認できない場合に発行する公式文書。承認に必要な追加情報や修正事項を明記する。
【参考リンク】
メルク(Merck & Co.)(外部)
130年以上の歴史を持つ米国の大手製薬会社。研究開発型バイオ医薬品企業として革新的な医薬品とワクチンを開発
第一三共(外部)
日本の大手製薬会社で、ADC技術のリーダー企業。DXd技術を基盤とした革新的ながん治療薬を開発
臨床研究等提出・公開システム(jRCT)(外部)
厚生労働省が運営する日本の臨床試験情報の公開システム。国内の臨床研究情報を一元管理
ClinicalTrials.gov(外部)
米国国立医学図書館が運営する世界最大の臨床試験データベース。HERTHENA-Lung02試験の詳細情報を確認可能
【編集部後記】
今回のpatritumab deruxtecanの挫折は、革新的な医療技術の開発がいかに困難で不確実性に満ちているかを物語っています。一方で、第一三共のDXd技術は2025年1月にDatrowayが米国で承認されるなど、他のがん種では着実に成果を上げており、この分野の可能性は依然として広がり続けています。皆さんは、こうした最先端の医療技術開発において、どのような要因が成功と失敗を分けると思われますか?また、日本発のADC技術が世界の医療を変える可能性について、どのような期待をお持ちでしょうか?ぜひSNSで皆さんのご意見をお聞かせください。
【参考記事】
Patritumab Deruxtecan Biologics License Application Voluntarily Withdrawn – Merck Official Press Release(外部)
メルクの公式プレスリリース。BLA取り下げの詳細な背景とHERTHENA-Lung02試験の結果について両社の公式見解を提供
BLA Is Withdrawn for Patritumab Deruxtecan in EGFR-Mutated NSCLC – OncLive(外部)
腫瘍学専門メディアによる詳細な解説記事。HERTHENA-Lung02試験の設計と結果、今後の開発戦略について専門的視点から分析
Developers Withdraw BLA for HER3-DXd in Advanced EGFR Mutant NSCLC – Cancer Network(外部)
がん治療専門誌による包括的な報告記事。586名が登録されたHERTHENA-Lung02試験の詳細なプロトコルと2024年6月のCRL発行の経緯を詳述