岡山大学は2025年11月26日、乳がん患者の心理的サポートに特化したAIチャットボット(AIピアサポーター)を開発したと発表した。開発者は岡山大学学術研究院医歯薬学域医療情報化診療支援技術開発講座の長谷井嬢教授(特任、整形外科)である。このAIは乳がん経験者のペルソナを持ち、患者が時間や場所を問わず24時間対話できる。医学的情報提供は行わず、ピアサポーターとしての働きに特化している。
岡山大学病院乳腺・内分泌外科の枝園忠彦教授と藤原由樹医員を中心に実証試験を開始する。試験では乳がん治療で入院する患者を対象に12週間のAI利用を通じて満足度とQOL評価の実行可能性を検証する。本研究は公益財団法人橋本財団2024年度福祉助成金とJSTスタートアップ・エコシステム共創プログラムの支援を受けて実施される。
From:
乳がん患者さんの「心の支え」を目指したAIピアサポーターを開発
【編集部解説】
このAIピアサポーターの開発は、医療AIが診断や治療支援から「共感的対話」という新たな領域へ踏み出した重要な転換点を示しています。
従来の人的ピアサポートは、実際にがんを経験した方々が患者の心の支えとなる貴重な存在でしたが、開催時間が限定されることや、相談する際の心理的ハードルが高いという構造的な課題を抱えていました。特に乳がん患者の中心を占める40~50代の女性は、家庭や職場で多くの役割を担っているため、日中の相談時間を確保することが困難です。その結果、夜間や休日に一人で不安を抱え込んでしまうケースが少なくありませんでした。
今回開発されたAIの最大の特徴は、医学的情報提供を意図的に排除している点にあります。これは単なる制約ではなく、極めて重要な設計思想です。医学的助言を行えば、誤った情報提供のリスクや、医療者との信頼関係を損なう可能性が生じます。あくまで「乳がん経験者」というペルソナを持ち、ピアサポーター養成研修の内容を学習することで、共感と傾聴に特化した役割に徹しています。
この取り組みが示すのは、AIによるメンタルヘルスケアの新しい可能性です。24時間365日対応可能という特性により、患者が最も不安を感じる夜間や休日にも、気兼ねなく悩みを吐き出せる環境が整います。また、AIという非人間的存在だからこそ、「医療スタッフには言いづらい」「家族に心配をかけたくない」という繊細な悩みも打ち明けやすくなる効果が期待されます。
一方で、慎重に検討すべき課題も存在します。AIとの対話が人間同士の交流を代替してしまうリスク、緊急性の高い心理状態を適切に検知できるかという技術的限界、そしてAI依存による孤立の深刻化といった懸念です。さらに、対話データの取り扱いやプライバシー保護といった倫理的配慮も不可欠となります。
今回の実証試験では12週間という期間で満足度とQOL評価の実行可能性を検証する予定ですが、長期的な効果測定や、人的サポートとの最適な役割分担の確立が今後の重要な課題となるでしょう。医療AIが「診断の精度」ではなく「心の支え」という人間的な領域にどこまで寄与できるのか、この研究は医療におけるAI活用の新たな地平を切り拓く試みとして注目に値します。
【用語解説】
ピアサポート
同じ病気や境遇を経験した仲間(ピア)が、患者や家族をサポートする活動のこと。がん患者の場合、体験者だからこそ共感できる不安や悩みを分かち合い、心理的な支えとなる。医学的助言ではなく、経験に基づく共感と傾聴が中心となる。
QOL(生活の質)
Quality of Lifeの略。病気や治療が患者の日常生活、精神状態、社会活動にどのような影響を与えているかを示す指標。単に生存期間だけでなく、生活の満足度や幸福感も含めた包括的な評価基準である。
周術期化学療法
手術の前後に行う化学療法(抗がん剤治療)のこと。手術前に腫瘍を縮小させる術前化学療法と、手術後の再発予防を目的とする術後化学療法がある。乳がん治療では標準的な治療法の一つである。
妊孕性(にんようせい)
妊娠する能力、妊娠させる能力のこと。がん治療の中には卵巣や精巣の機能に影響を与え、妊孕性を低下させるものがある。特に若年のがん患者にとって、治療後の妊娠・出産の可能性は重要な関心事となる。
AIペルソナ
人工知能に設定された架空の人格や性格のこと。本研究では「乳がん経験者」という設定を持ち、専門医が患者の経験知見を集約して慎重に設計されている。これにより、より共感的で適切な対話が可能になる。
【参考リンク】
岡山大学(外部)
1870年創立の国立大学。岡山県岡山市に本部を置き、11学部を有する総合大学。医学部・歯学部を擁し、先進的な医療研究と地域医療に貢献している。
岡山大学病院(外部)
病床数855床を持つ特定機能病院。都道府県がん診療連携拠点病院として、岡山県の地域医療の中心的役割を担う。
国立研究開発法人 科学技術振興機構(JST)(外部)
文部科学省所管の国立研究開発法人。科学技術イノベーション創出の推進、研究開発戦略の立案などを通じて、日本の科学技術振興を総合的に支援。
公益財団法人 橋本財団(外部)
2017年に岡山県で設立された財団法人。身体的・社会的に援助が必要な方への支援を目的とし、社会福祉活動への助成などを行っている。
【参考記事】
AI活用でがん患者など24時間365日メンタルケア 岡山大学が新システム開発(外部)
長谷井嬢准教授による以前のAIメンタルケアサポートシステム開発について報じた記事。今回の乳がん特化型AIの基盤技術となった研究について。
令和2・3年度答申「医療AIの加速度的な進展をふまえた生命倫理の問題」について(外部)
日本医師会による医療AIの倫理的課題に関する答申。透明性、説明責任、プライバシー保護など、医療AIに求められる倫理的原則を検討。
生成AIとメンタルヘルスケア ―テキスト生成AIが有する可能性と課題―(外部)
日本医科大学基礎科学紀要掲載論文。メンタルヘルスケア領域における生成AIの応用可能性と、データバイアス、プライバシーなどの課題を考察。
ピアサポートを受けたがん患者の思いに関する研究内容の分析(外部)
日本看護研究学会誌掲載論文。ピアサポートを受けたがん患者の思いを質的に分析し、「ピアからもらうがんと生きる力」など7つのカテゴリーを抽出。
【編集部後記】
AIが「共感」という領域に踏み込む時代が始まっています。皆さんは、夜中にふと不安になったとき、誰に話を聞いてもらいたいと思いますか。人間だからこそ理解できることと、AIだからこそ話せることがあるとしたら、その境界線はどこにあるのでしょうか。
医療における心のケアは、これまで人間にしかできないと考えられてきた領域です。今回の取り組みは、その常識を問い直す実験かもしれません。テクノロジーが「寄り添う」ことの意味を、私たちと一緒に考えてみませんか。































