製薬大手イーライリリーは10月、エヌビディアとのパートナーシップを発表し、1000個以上のチップを搭載したスーパーコンピューターで「AIファクトリー」を構築することを明らかにした。
リリーはインシリコ・メディシンとも最大1億ドル規模の契約を締結し、AIプラットフォームを活用した新薬開発を進める。リリーのエグゼクティブバイスプレジデント兼最高情報・デジタル責任者のディオゴ・ラウ氏は、AI創薬による医薬品が2030年までに市場に到達する可能性があると予測している。インシリコ・メディシンのレントセルチブは、AIで発見・設計された最初の医薬品として今後18カ月以内に第3相臨床試験に入る見込みだ。
プレシデンス・リサーチは、世界の医薬品業界のAI投資が2026年に25億1000万ドル、2034年までに164億9000万ドルに達すると推定している。ピッチブックの報告によると、ベンチャーキャピタルは2025年の第1〜3四半期でAI創薬企業に合計27億ドルを投資した。
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Big Pharma is ready for its AI drug investments to pay off
【編集部解説】
製薬業界におけるAI活用は、まさに「実証フェーズ」に入りつつあります。特に注目すべきは、イーライリリーが構築するスーパーコンピューターの規模です。これは1,016個のエヌビディア製Blackwell Ultra GPUを搭載した世界初のDGX SuperPOD with DGX B300システムで、2025年12月に完成し、2026年1月から稼働を開始します。
従来の創薬プロセスでは、標的分子の特定から前臨床候補化合物の選定まで3〜6年を要していました。しかしインシリコ・メディシンは、2021年から2024年の間に20の前臨床候補を選定し、平均わずか12〜18カ月でこのプロセスを完了しています。合成・試験した分子数も各プログラムで60〜200個と、従来の数千〜数万分子と比較して劇的に少なくなっています。
レントセルチブが意味するのは、単なる開発期間の短縮だけではありません。この薬剤は、標的分子TNIKの特定から化合物設計まで、すべてがAIによって行われた史上初の医薬品候補です。2025年6月に発表されたPhase IIa試験では、71人の特発性肺線維症患者を対象に12週間の投与が行われ、最高用量群(60mg/日)では肺機能の平均98.4mL改善が見られました。プラセボ群が平均20.3mL低下したことを考えると、この結果は統計的に意味のある改善といえます。
ただし、慎重な見方も必要です。ノースイースタン大学のサミュエル・スカルピノ氏が指摘するように、「生物学が機能するのにかかる時間」は依然として変わりません。臨床試験には数年を要し、AIが研究者を完全に置き換えることはないでしょう。実際、リリーの最高情報・デジタル責任者ディオゴ・ラウ氏も、AIファクトリーから生まれる医薬品の恩恵が実感できるのは2030年頃になると予測しています。
投資規模の拡大も見逃せません。ベンチャーキャピタルは2025年第1〜3四半期だけでAI創薬企業に合計27億ドルを投資しており、これは全体的な投資が減少傾向にある中での数字です。プレシデンス・リサーチ社は、世界の医薬品業界のAI投資が2026年に25億1000万ドル、2034年までに164億9000万ドルに達すると予測しています。オープンAIのサム・アルトマン氏が個人資金1億ドル以上をAI創薬スタートアップに投じていることも、この分野への期待の高さを物語っています。
しかし、過去の教訓も忘れてはなりません。IBMのワトソンは医療・創薬分野で大きな期待を集めましたが、期待に応えられず、2022年にはワトソン・ヘルスの売却が発表されました。AIスーパーコンピューターは成功を保証するものではなく、あくまでも人間の研究者を支援するツールであるという認識が重要です。
製薬業界の構造変化という観点でも、この動きは興味深いものです。リリーのTuneLabプラットフォームは、初期段階のバイオテック企業に対してリリーのAIモデルへのアクセスを提供する代わりに、それらの企業からトレーニングデータを得るという「連合学習」の仕組みを採用しています。これは大手製薬企業とスタートアップの関係性を再定義する可能性を秘めています。
2020年にグーグル・ディープマインドとアイソモーフィック・ラボが開発したアルファフォールド2は、約2億の生体分子の三次元構造予測を可能にし、2024年のノーベル化学賞受賞という形でその価値が認められました。現在は190カ国から200万人以上が利用しています。こうしたAIツールが創薬プロセスに本格的に統合され始めた今、業界全体が変革の岐路に立っているといえるでしょう。
【用語解説】
AIファクトリー
データの取り込み、AI モデルのトレーニング、微調整、大規模推論まで、AI のライフサイクル全体を管理する特殊な計算インフラ。製薬業界では、数百万の実験データから医薬品候補を発見・テストするための「科学的な新しい装置」として位置づけられている。
特発性肺線維症(IPF: Idiopathic Pulmonary Fibrosis)
肺組織が徐々に硬くなり、呼吸機能が低下する原因不明の難病。根治療法は確立されておらず、米国では年間約4万人が死亡している。高齢者に多く、75歳以上の診断率は18〜34歳の60倍以上に達する。
第3相臨床試験(Phase 3 Clinical Trial)
FDA承認を求める前の最終段階の大規模臨床試験。通常数百人から数千人の患者を対象に、3〜4年かけて薬剤の有効性を検証する。成功確率は約55%で、費用は数億ドルに達することもある。
TNIK(TRAF2 and NCK-interacting kinase)
細胞内のシグナル伝達に関与するセリン・スレオニンキナーゼ。線維化の発症に重要な役割を果たす。AIによって特発性肺線維症の治療標的として特定された。
連合学習(Federated Learning)
複数の組織がデータを直接共有せずに、AIモデルを共同でトレーニングする機械学習手法。イーライリリーのTuneLab プラットフォームで採用されており、スタートアップ企業がリリーのAIモデルにアクセスする代わりに、トレーニングデータを提供する仕組みとなっている。
前臨床候補(Preclinical Candidate)
実験室での試験を経て、動物実験や臨床試験に進む資格を得た化合物。従来の創薬では標的特定から前臨床候補選定まで3〜6年を要するが、AIを活用することで12〜18カ月に短縮されている。
【参考リンク】
Eli Lilly and Company(外部)
インディアナポリスに本社を置く世界有数の製薬企業。AI創薬分野で業界をリードする。
Insilico Medicine(外部)
ボストンと香港に拠点を置くAI創薬企業。Pharma.AIプラットフォームで一貫したAI創薬を実現。
NVIDIA(外部)
カリフォルニア州に本社を置く半導体メーカー。AI計算分野で圧倒的なシェアを持つ。
Lilly TuneLab(外部)
2025年9月に立ち上げられたAI・機械学習プラットフォーム。バイオテック企業にAIモデルを提供。
AlphaFold(外部)
グーグル・ディープマインド開発のタンパク質構造予測AIシステム。2024年ノーベル化学賞受賞。
OpenAI(外部)
ChatGPTの開発元。CEOサム・アルトマン氏はAI創薬スタートアップに1億ドル超を投資。
【参考記事】
Lilly partners with NVIDIA to build the industry’s most powerful AI supercomputer(外部)
リリーとエヌビディアのパートナーシップ公式発表。1,016個のGPUを搭載したスーパーコンピューターの詳細。
Insilico and Lilly Enter a Research & Licensing Collaboration(外部)
インシリコとリリーの1億ドル超の契約に関する公式プレスリリース。開発期間短縮の具体的数値。
Insilico Eyes Q4 Start for Late-Stage Trials of IPF Candidate(外部)
レントセルチブの臨床開発計画の詳細。中国と米国での試験規模とコスト削減効果を報告。
Lilly Deploys World’s Largest AI Factory Using NVIDIA Blackwell(外部)
エヌビディア公式ブログによるAIファクトリーの技術的詳細と再生可能エネルギーでの稼働情報。
【編集部後記】
AIが「道具」から「協働者」へと変わりつつある創薬の現場。皆さんは、この変化をどう受け止めますか。開発期間が数年から数カ月へと劇的に短縮される一方で、臨床試験には依然として長い年月が必要です。
技術の進化と生物学的な制約、そのバランスの中で生まれる新しい医薬品は、私たちの未来にどんな影響を与えるのでしょうか。2030年という具体的な時間軸が示された今、AI創薬がもたらす変化について、ぜひ一緒に考えていきたいと思います。
































