12月19日は「日本人初飛行の日」です。
1910年(明治43年)、東京・代々木練兵場において、徳川好敏(とくがわ よしとし)大尉が操縦する「アンリ・ファルマン式複葉機」が、高度70m、距離3000m、滞空時間4分の飛行に成功しました。これが、日本における動力飛行の公式な夜明けとされています。
しかし、航空史の記録を詳しく紐解くと、奇妙な事実に突き当たります。
実はその5日前の12月14日、同じ代々木練兵場で、日野熊蔵(ひの くまぞう)大尉が操縦する「グラーデ式単葉機」が、すでに地を離れ、約60mの飛行に「成功」していたのです。
なぜ、14日の飛行は「初飛行」として認定されず、19日が記念日となったのか?
単なる歴史のあやに見えるこの5日間の空白には、現代のスタートアップやR&D(研究開発)が直面する、「PoC(概念実証)の罠」と「イノベーションの定義」に関する残酷なまでの教訓が隠されています。

「浮いてしまった」14日、「飛ばした」19日
まず、運命を分けた2つの飛行の状況を整理しましょう。
12月14日:日野大尉とグラーデ式単葉機
この日、日野大尉は飛行試験を行う予定ではなく、あくまで「滑走練習(タキシング)」を行っていました。しかし、彼が選んだ「グラーデ式」は翼が一枚の単葉機。構造が軽く、揚力を得やすい機体でした。
滑走中、予期せぬ風に煽られた機体は、日野大尉の意図とは裏腹にふわりと浮き上がります。結果的に60mほど移動しましたが、着地は不安定で、目撃者はいたものの「コントロールされた飛行」とは言い難いものでした。
12月19日:徳川大尉とアンリ・ファルマン式複葉機
一方、5日後に行われた徳川大尉のフライトは、明確に「公式記録会」としてセットアップされていました。彼が選んだ「アンリ・ファルマン式」は、翼が二枚ある複葉機。空気抵抗は大きいものの、構造的に頑丈で安定性が高い機体です。
徳川大尉は、安定した離陸、旋回、そして着陸を見事にこなし、「意図通りに」空を飛びました。
当時の国際規定や試験官の判断は冷徹でした。「過失(誤操作)によって偶然浮いたものは、飛行ではない」とし、14日の記録は幻となったのです。
PoCの罠 —— 「マグレ」は技術ではない
この歴史的判定は、現代のテクノロジー開発においても極めて重要な示唆を与えてくれます。それは、「現象(Phenomenon)」と「技術(Technology)」の違いです。
多くのスタートアップや新規事業開発の現場で、私たちは「PoC(概念実証)」を行います。そこで一度でも良いデータが出ると、「成功した!」「実用化できる!」と歓喜しがちです。
しかし、その成功が「特定の好条件が重なったとき(=追い風が吹いたとき)」にしか起きないのであれば、それは12月14日の日野大尉と同じ状態です。
エンジニアリングの世界において、最も尊ばれるのは「最大瞬間風速」的なスペックではありません。「再現性(Reproducibility)」です。
- 14日の飛行: 偶然、物理法則が作用して「現象」が起きた。
- 19日の飛行: 人間の意志で変数を管理し、「現象」を制御下に置いた。
イノベーションとは、奇跡を起こすことではなく、奇跡を日常のオペレーションとして再現可能な状態に落とし込むことを指します。徳川大尉が歴史に名を残したのは、彼が重力という物理法則に対し、「まぐれ」ではなく「制御」で打ち勝ったことを証明したからに他なりません。
社会実装に必要な「プロトコル」の合意
もう一点、見逃せないのが「定義(プロトコル)」の重要性です。
12月19日の飛行が公式記録となったのは、事前に「何を以て飛行成功とするか」というルールが設定され、しかるべき立会人がそれをジャッジしたからです。
現代の先端技術を見渡してみましょう。
- 自動運転: レベル3とレベル4の境界線はどこか?
- 生成AI: ハルシネーション(もっともらしい嘘)を吐くAIを、業務で「使える」と認定する基準は?
- Web3: NFTの法的・資産的な定義は?
技術そのものがどれほど優れていても、社会側が「ここをクリアしたらOK」とする受入基準(アクセプタンス・クライテリア)に合意していなければ、それは社会実装されません。
14日の飛行が認められなかったのは、技術不足というよりも、「公式な試験プロトコル」の中にいなかったことが最大の要因です。
イノベーターは技術を磨くだけでなく、「どのような基準で評価されるべきか」というルールメイキングにも関与しなければ、せっかくの成果が「非公式なハプニング」として処理されてしまうリスクがあるのです。
結び:あなたのプロダクトは「14日」か、それとも「19日」か
最後に、日野熊蔵大尉の名誉のために付け加えるならば、彼が選んだ「単葉機」という形状は、現代のジェット旅客機に通じる、空気力学的に極めて理にかなった設計でした。複葉機は構造は強いものの抵抗が大きく、後の時代に廃れていきます。
日野大尉は、「時代を先取りしすぎた(素材技術と制御技術が追いついていなかった)」という見方もできます。
しかし、1910年という時点において、確実に空を飛び、航空産業の幕を開けたのは、枯れた技術を組み合わせ、泥臭く「再現性」を担保した徳川大尉の複葉機でした。
innovaTopia読者の皆さん。
あなたが現在開発しているプロダクトやサービスは、まだ「偶然の追い風」に頼っている12月14日の状態ではありませんか?
それとも、あらゆる変数をコントロールし、誰の目にも明らかな結果を出せる12月19日の状態に到達していますか?
「日本人初飛行の日」は、私たちにこう問いかけています。
「その成功は、あなたの意志で再現できるか?」
【Information】
所沢航空発祥記念館(外部)
代々木での初飛行の翌年(1911年)、日本初の飛行場が建設された埼玉県所沢市にある博物館です。
館内には、徳川大尉が操縦した「アンリ・ファルマン式複葉機」や、日野大尉の「グラーデ式単葉機」の実物大レプリカなどが展示されています。記事内で解説した「複葉と単葉の構造的な違い」や、当時のエンジニアリングの試行錯誤を実機サイズで確認できる、貴重な学習スポットです。
一般財団法人 日本航空協会(外部)
1913年に設立された、日本の航空宇宙活動を統括・振興する歴史ある団体です。
航空に関する記録の公認や「重要航空遺産」の認定を行っています。記事のテーマである「公式記録としての定義」や「ルールの制定」がいかに産業の発展に寄与してきたか、その歴史的変遷や最新の航空宇宙情報の一次情報として参照できます。































