量子コンピューターを創薬にどう活かすのか。その具体的な題材の一つが、がん免疫療法の領域で形になり始めています。10月2日に詳細が公表されたのは、NEC、大鵬薬品、がん研究会、産総研、早稲田大学の5者による共同研究です。NEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)の実証事業に採択された案件で、量子計算が担うのは、がん細胞に特有の抗原「ネオアンチゲン」の配列設計の一部です。AIや免疫学実験と、どう組み合わせて検証していくのか。中身を見ていきます。
NEC、大鵬薬品工業、がん研究会、産業技術総合研究所、早稲田大学による共同研究開発プロジェクトが、10月2日に公表された。NEDOの「ユースケース創出に向けた大型実証」に採択された案件で、事業名は「量子計算技術を用いた次世代がん免疫療法創出のための計算・評価基盤構築と実証」、期間は2026年9月から2029年3月までの予定だ。対象は、がん細胞に特有の遺伝子変異に由来するネオアンチゲンのうち、MHCクラスIIを介してCD4陽性T細胞の応答を誘導する候補である。AIで免疫応答を予測・スコアリングし、量子計算でペプチドフランキング領域のアミノ酸配列を設計する。結果は免疫学的実験で検証し、計算モデルに反映する。計算には、産総研G-QuATが整備する量子・HPC・AI統合基盤ABCI-Qを用いる。
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NEC、大鵬薬品、がん研究会、産総研、早稲田大学による量子計算技術を活用した次世代がん免疫療法に関する共同研究開発プロジェクトがNEDO実証事業に採択
【編集部解説】
一つの課題に、いくつもの領域が重なる
今回のプロジェクトで目を引くのは、一つの課題に重なる領域の広さです。リリースによれば、5者は量子計算技術、AI、創薬・医療、免疫学の技術と知見を融合し、ネオアンチゲン候補の設計・最適化と免疫学的な検証を可能にする計算・評価基盤の構築を目指します。企業2社、公益財団法人、国立研究開発法人、学校法人が名を連ねており、量子計算だけでも、AIだけでも、実験室だけでも完結しない構図です。注目度の高い取り組みと言えそうです。
ただし、どの機関がどの工程を担うのかは、リリースに書かれていません。NEDOが7月17日に公表した実施予定先の一覧に載っているのは、NECと大鵬薬品の2社です。がん研究会、産総研、早稲田大学の名前は一覧になく、5者の関係が契約上どう整理されているのかは、公開情報からは読み取れません。
計算側の分担は示されています。量子計算は設計工程の一部に置かれ、AIと実験の往復の中に組み込まれています。
| ① 候補の設計・最適化 | ② 免疫学的実験で検証 | ③ 結果を計算に反映 |
|---|---|---|
| 量子計算:ペプチドフランキング領域のアミノ酸配列設計/AI:免疫応答の予測・スコアリング | 候補が免疫応答に与える影響を検証 | 得られた知見を計算モデルとAIの予測・評価手法に反映し、①へ戻る |
創薬×量子計算への期待と、いま問われていること
創薬が量子コンピューターの応用先として語られる背景には、探索すべき候補の多さがあります。リリースも、膨大なアミノ酸配列の組み合わせの中から複数の要因を考慮して有望な候補を設計・最適化するには、複雑な計算が必要だと説明しています。
ただ、「創薬は量子の得意分野」と一括りにできない面もあります。創薬での量子活用には、分子の振る舞いを量子力学に基づいて計算する使い方と、膨大な候補から有望なものを探す最適化的な使い方があります。専門メディアThe Quantum Insiderの2026年5月の分析は、分子シミュレーションを近い将来に最も現実的な応用領域の一つに挙げる一方、多くの最適化問題で、高度に磨かれた古典アルゴリズムを量子が上回る実証がまだないと指摘しています。
本件の量子計算の役割は配列設計です。「膨大な配列の組み合わせを対象に」という記述からは、後者の最適化的な使い方に近いように読めます。ただし、これはリリースの記述からの読み取りで、実際にどの量子計算手法を用いるのかは書かれていません。
arXivのレビュー論文(プレプリント)は、創薬での量子活用が、古典のデータ駆動モデルに量子計算の処理を部分的に組み込むハイブリッドが中心だと整理したうえで、問われているのは、成り立つかどうかではなく、強い古典手法に対して再現可能な優位性を示せるかだと述べています。決め手としては、実験による前向きの検証、最良の古典手法との透明な比較、計算資源の明示が挙げられています。
本件は免疫学的実験での検証を組み込んでおり、この条件の一部と重なります。一方で、リリースが検証対象に挙げるのは、配列設計手法の可能性と、計算と実験を連携させたアプローチの有用性です。古典計算との比較をどう設計するのかは、リリースから読み取れません。量子の優位性そのものではなく、その手前の「使えるのか」を実験で確かめにいく取り組み、と位置づけるのが現時点では妥当でしょう。
NEDOのユースケース創出枠の中で
本件が採択された「ユースケース創出に向けた大型実証」(g12-4)は、NEDOの量子コンピュータ次世代機開発・実証の加速事業の一項目です。NEDOは7月17日に実施予定先を公表し、g12-4には15件の提案があったとしています。採択そのものは7月17日の一覧にすでに載っており、10月2日に5者が明らかにしたのは、顔ぶれと研究の中身です。対象は素材・製造、電力、モビリティ・交通・物流、産業保安・気象・防災、創薬の5分野で、計算機上の検証にとどまらず、実環境での検証を含む大型実証と位置づけられています。
同じ量子コンピューター区分には、創薬やタンパク質設計に関わるテーマが他に3件並びます。同じ創薬でも、量子に任せる仕事が候補の探索、分子の計算、配列の設計と分かれています(図表2)。
| 採択事業テーマ(NEDO別添2) | 実施予定先 | 量子の使い道(編集部整理) |
|---|---|---|
| 量子アニーリングを活用した10億化合物級の創薬候補化合物スクリーニングシステムの開発と実証評価 | アヘッド・バイオコンピューティング株式会社 | 候補の探索 |
| 高精度量子化学計算による薬物-標的相互作用解析アプリケーションの開発 | 中外製薬株式会社 | 分子の計算 |
| AI・量子計算融合によるタンパク質高性能化基盤技術の開発 | 株式会社レボルカ | タンパク質の高性能化(AIと融合) |
| 量子計算技術を用いた次世代がん免疫療法創出のための計算・評価基盤構築と実証(本件) | 日本電気株式会社、大鵬薬品工業株式会社 | 配列の設計 |
計算基盤のABCI-Qは、超伝導・中性原子・光の3方式の量子コンピューターを組み合わせられる構成で、量子インスパイアード・アニーリングのパッケージも使えます。本件でどれを使うのかは、リリースに書かれていません。量子計算を単独で動かすのではなく、HPCやAIと同じ基盤で組み合わせる設計は、前述のハイブリッドの考え方と地続きに見えます。
2030年を前に、いま積む土台
NEDOは、2030年頃の量子コンピューターの産業化を目指すとしています。一方、本プロジェクトの期間は2029年3月までです。成果が出そろうのは、産業化の目標時期の直前ということになります。
その間に、量子コンピューター自体も変わっていく可能性があります。IBMは2029年までに、論理量子ビット約200個で1億回の演算を実行できる誤り耐性型のStarlingを完成させる計画です。G-QuATのセンター長は、2030年代前半に1,000〜10,000論理量子ビットへ到達するとの予想を示しています。ただし、いずれも計画や予想で、実現の時期が確定したわけではありません。The Quantum Insiderは、創薬での分子シミュレーションの実用化には数百規模の誤り訂正済み論理量子ビットが前提だと整理しています。同記事は、現在のハードウェアでは実用に足る誤り率と量子ビット数に届いていないとしています。
ここから見えてくるのは、事業期間中に使える機械は、誤り訂正を備える前の世代が中心になりそうだということです。ABCI-Qにある超伝導方式と中性原子方式の機械は、物理量子ビットで64個と260個です。2029年に返ってくる答えは、「現世代の機械で何が確かめられるか」までにとどまる可能性があります。これは、本件が使えないという意味ではありません。
むしろ価値は、機械が進化したときに差し替えて使える「評価基盤」にあると考えられます。リリースが掲げるのは、計算と実験を往復させながら、ネオアンチゲン候補の設計・評価基盤を確立することです。前述の検証の条件にあたる物差しと実験系を先に整えておけば、より大きな量子コンピューターが使えるようになったとき、同じ基準で試せる可能性があります。
結果が「いまは古典計算で足りる」となったとしても、その条件が記録されること自体が、次の世代の機械を評価する出発点になりえます。
NEDOの区分は「大型実証」ですが、量子計算で何が確かめられるのかを積み上げる点では、将来に向けた基礎固めの性格が強い取り組みといえそうです。
実現したときの意味と、まだ分からないこと
リリースによれば、がん免疫療法の代表的な手法である免疫チェックポイント阻害薬でも、十分な効果が得られない患者さんがいます。ネオアンチゲンを標的とする療法は、その課題へのアプローチとして注目されています。もし配列設計の質が上がり、免疫応答を引き出しやすい候補を効率よく得られるなら、候補の選び方そのものが変わる可能性があります。
産業面では、マッキンゼーの2026年版レポートが、量子コンピューティングが医薬品・医療製品分野で2035年までに800億〜4,000億ドル規模の価値を生みうると試算しています。ただし、これは業界全体を対象にしたコンサルティング会社の試算で、根拠には分子シミュレーションやコンピューター支援の薬剤設計による研究開発の効率化が含まれます。配列設計を扱う本プロジェクトの成果と直接結びつく数字ではありません。同じレポートも、誤り耐性の実現時期は不確かで変わりうると述べています。
リリースの射程は、ネオアンチゲン候補の設計・最適化と免疫学的実験による検証、そして設計・評価基盤の確立までです。臨床試験や製品化への言及はありません。量子計算の方式、予算規模、機関ごとの技術上の役割、設計対象が患者さん個別の候補なのか共通の候補なのかも、リリースには書かれていません。2029年3月の事業終了までに、これらがどこまで明らかになるかが、本件の次の焦点になりそうです。
【用語解説】
ネオアンチゲン
がん細胞に特有の遺伝子変異に由来する抗原。正常細胞にはないため、がん免疫療法の標的として期待される。
MHCクラスII
免疫において、抗原ペプチドを細胞表面に提示する分子の一つ。主にCD4陽性T細胞への抗原提示に関わる。
CD4陽性T細胞
MHCクラスIIを介した抗原提示で応答が誘導される免疫細胞。他の免疫細胞の活性化や免疫応答の維持にも関与し、強力で持続的な抗腫瘍免疫の鍵として期待される。
ペプチドフランキング領域
ネオアンチゲンのコア領域の両端に位置する領域。本プロジェクトでは、量子計算によるアミノ酸配列設計の対象。
免疫チェックポイント阻害薬
がん免疫療法の代表的な手法の一つ。がんに対する免疫応答を高める一方、十分な治療効果が得られない患者さんもいる。
論理量子ビット
量子誤り訂正を用い、複数の物理量子ビットの組み合わせで誤りを抑えた量子ビット。誤り耐性型の量子コンピューターの計算の単位となる。
【参考リンク】
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知りたい・関わりたい
【参考記事】
【編集部後記】
2029年3月までの本プロジェクトが返す答えは、量子コンピューターが成熟する前の途中経過になるかもしれません。それでも、計算と実験を往復させる仕組みと検証の物差しが先に整っていれば、機械が進化したときに同じ基準で試せる可能性があります。創薬では、量子に何を任せるのかも、探索、分子の計算、配列の設計と分かれて試されている段階です。私たちは、数年後の機械に託したい問いを、いまどれだけ具体的に描けているでしょうか。ともに考えていければと思います。


















