韓国科学技術院(KAIST)のクァン・ヒョン・チョ教授率いる研究チームが、がん細胞を殺すのではなく正常細胞のように再プログラムする技術を開発した。
研究チームは、デジタルツインモデル「BENEIN」を用いて4,252個の腸細胞データを解析し、522個の遺伝子ネットワークを再構築した。MYB、HDAC2、FOXA2という3つの遺伝子制御因子を同時にノックダウンすることで、大腸がん細胞を正常な腸上皮細胞様の状態に逆転させることに成功した。
実験では、HCT-116、HT-29、CACO-2の3種類のヒト大腸がん細胞株を使用し、遺伝子ノックダウン後にがん細胞の増殖が大幅に抑制された。免疫不全マウスでの実験でも、処理された細胞を注射した群では対照群と比較して腫瘍の成長が著しく減少した。
【編集部解説】
韓国科学技術院(KAIST)のクァン・ヒョン・チョ教授の研究チームによるこの成果は、2024年12月から2025年2月にかけて段階的に発表されていました。
この技術の核心は「がん細胞の運命を決める分子スイッチの発見」にあります。従来のがん治療が「細胞を殺す」アプローチだったのに対し、この手法は「細胞の記憶を書き換える」という根本的に異なる発想に基づいています。
技術的な革新性について
BENEIN(Boolean Network Inference and Control)と呼ばれる計算フレームワークは、単一細胞レベルでの遺伝子発現データを解析し、細胞の「運命決定ネットワーク」を可視化します。これは、細胞が正常から悪性へと変化する「臨界転移点」を捉える技術でもあります。
水が100度で蒸気に変わるように、正常細胞ががん細胞に変化する瞬間にも明確な転換点が存在することを、この研究は実証しました。そして、その転換点で作動する分子スイッチ(MYB、HDAC2、FOXA2)を特定し、これらを同時に制御することで細胞の運命を逆転させることに成功したのです。
実用化への道筋と課題
現在、この技術の実用化に向けた開発が進行中です。しかし、実際の臨床応用には複数のハードルが存在します。
まず、遺伝子ノックダウン技術の安全な体内デリバリーシステムの確立が必要です。また、逆転した細胞の長期安定性の確保も重要な課題となります。
医療パラダイムへの影響
この技術が実用化されれば、がん治療の概念そのものが変わる可能性があります。化学療法や放射線治療に伴う深刻な副作用から患者を解放し、QOL(生活の質)を大幅に改善できるでしょう。
さらに、薬剤耐性がんに対する新たな治療選択肢としても期待されています。従来の治療で効果が得られなくなった患者にとって、細胞の再プログラミングは希望の光となる可能性があります。
一方で、細胞の運命を人為的に操作する技術には慎重な規制が必要です。特に、正常細胞への影響や予期しない遺伝子発現変化のリスクについて、長期的な安全性評価が不可欠となります。
長期的展望
研究チームは既に大腸がん以外の領域でもBENEINの有効性を確認しており、将来的には多様ながん種への適用が期待されます。さらに、がん以外の疾患、例えば神経変性疾患や代謝性疾患への応用可能性も示唆されています。
この技術は、「病気を治す」から「細胞を正常化する」への医学パラダイムシフトの先駆けとなる可能性を秘めています。人類の健康寿命延伸に向けた重要な一歩として、今後の展開が注目されます。
【用語解説】
BENEIN(Boolean Network Inference and Control):
細胞内の遺伝子ネットワークを論理回路のように解析するシステム。電気回路のスイッチのオン・オフのように、遺伝子の活性・非活性状態を組み合わせて細胞の運命を予測する。
デジタルツイン:
実在する患者のがん細胞をコンピュータ上で完全に再現した仮想モデル。まるで患者の分身のように、様々な治療法を事前にテストできる。
がん逆転(Cancer Reversion):
がん細胞を殺すのではなく、正常細胞のように振る舞うよう「教育し直す」技術。
臨界転移:
水が100度で突然蒸気に変わるように、正常細胞ががん細胞に急激に変化する瞬間の現象。この転換点を捉えることで、逆方向への変化も可能になる。
遺伝子ノックダウン:
特定の遺伝子の働きを一時的に停止させる技術。遺伝子を完全に削除するのではなく、音量を下げるように機能を弱める。
【参考リンク】
KAIST(韓国科学技術院)(外部)
韓国を代表する理工系大学院大学。全講義が英語で行われ、世界イノベーション大学ランキング上位の名門校
Kwang-Hyun Cho教授の研究室(外部)
システム生物学とバイオインスパイアード工学の研究を行う。がん逆転技術の開発拠点
【編集部後記】
この研究は、がん治療の根本的な発想を変える可能性を秘めています。これまで「敵を倒す」発想だった医療が、「敵を味方に変える」アプローチへと進化しているのです。皆さんは、もしご自身や大切な人ががんと向き合うことになったとき、どのような治療を選択したいと思われますか?副作用の少ない治療法が実現すれば、患者さんの生活の質はどれほど改善されるでしょうか。この技術が実用化される頃には、がん治療に対する私たちの認識も大きく変わっているかもしれませんね。