Iceberg Quantumは2026年2月12日、耐障害性量子コンピューティングアーキテクチャ「Pinnacle」を発表した。Pinnacleは量子LDPC(低密度パリティ検査)符号に基づき、RSA-2048の解読に必要な物理量子ビット数を数百万から10万未満に削減する。同社のアプローチは物理量子ビットのモダリティを問わず適用可能で、PsiQuantum(フォトニクス)、Diraq(スピン量子ビット)、IonQ(トラップドイオン)と協業している。
これら3社は3〜5年以内にこの規模のシステム構築を見込んでいる。同時にLocalGlobe主導、BlackbirdおよびDCVC参加による600万ドルのシードラウンドをクローズした。資金はチーム拡大、知的財産・ソフトウェアの構築、ハードウェア企業との設計パートナーシップ強化に充てる。ベルリンに初の海外オフィスを設立し、米国でもプレゼンス構築を開始した。同社はシドニー大学の博士課程で出会ったフェリックス・トムセン、ラリー・コーエン、サム・スミスが設立した。
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Iceberg Quantum unveils breakthrough in fault-tolerant quantum computing
【編集部解説】
今回のIceberg Quantumの発表を理解するには、まず量子コンピューティングにおける「オーバーヘッド問題」を知る必要があります。量子ビットは極めてノイズに弱く、計算中にエラーが頻発します。これを補うため、1つの「論理量子ビット」を動かすのに数百〜数千の「物理量子ビット」で冗長性を持たせる「量子誤り訂正」が不可欠です。この冗長性こそが「オーバーヘッド」であり、実用的な量子コンピューターの実現を阻む最大の壁とされてきました。
RSA-2048の解読に必要な物理量子ビット数の見積もりは、年々劇的に変化しています。2012年のFowlerらの推定では約10億、2019年にはGoogleのクレイグ・ギドニーらが約2000万(8時間)まで削減しました。2025年5月には同じギドニーが100万未満(1週間以内)という推定を発表しています。これらはいずれも「表面符号(サーフェスコード)」と呼ばれる誤り訂正方式を前提としたものです。Iceberg Quantumが今回提示した「10万未満」という数字は、表面符号ではなく量子LDPC符号という異なるアプローチを採用することで達成されたもので、さらに1桁の削減を実現した点に大きな意義があります。
ただし、重要な留意点があります。Pinnacleの結果はarXivに投稿されたプレプリント(arXiv:2602.11457)に基づくシミュレーションと理論的なリソース推定であり、実機での実験的検証ではありません。また、査読もまだ完了していません。前提条件として物理エラー率10⁻³、符号サイクル時間1μs、反応時間10μsが設定されていますが、これはギドニーの2019年および2025年の論文と同じ標準的なハードウェア仮定です。
量子LDPC符号が表面符号に対して持つ優位性は、符号化率の高さにあります。表面符号は符号サイズにかかわらず1つの論理量子ビットしか符号化できないのに対し、量子LDPC符号は同じ物理量子ビット数でより多くの論理量子ビットを保護できます。一方で、量子LDPC符号は量子ビット間の長距離接続を必要とするため、ハードウェア実装上の課題も指摘されています。Iceberg Quantumがフォトニクス、スピン量子ビット、トラップドイオンなど複数のモダリティのハードウェア企業と協業しているのは、この接続要件を満たせるプラットフォームを幅広く探索しているためと考えられます。
この発表が持つ最大のインパクトは、暗号セキュリティの時間軸に対する影響です。NISTは2024年にポスト量子暗号(PQC)の標準を発表し、RSAやECDSAなどの従来暗号を2030年までに非推奨、2035年までに使用禁止とする移行スケジュールを示しました。この移行計画は「暗号学的に意味のある量子コンピューター(CRQC)」の登場がまだ先であるという前提に基づいています。もしPinnacleのアプローチが実証され、10万量子ビット規模のマシンが3〜5年以内に実現するならば、CRQCの出現時期が従来予測よりも前倒しになる可能性があります。
「HNDL(Harvest Now, Decrypt Later)」攻撃——現在暗号化されたデータを収集しておき、量子コンピューターが実現した後に復号するという脅威——の現実味が増すことにもなります。政府機関や金融機関、医療機関など、長期間にわたって機密性が求められるデータを扱う組織にとって、ポスト量子暗号への移行はますます喫緊の課題となるでしょう。
Iceberg Quantumのビジネスモデルにも注目する価値があります。同社はハードウェアではなくアーキテクチャのレイヤーに特化し、複数のハードウェア企業にとっての「設計パートナー」として機能するという戦略を取っています。投資家のミシュ・マシュカウツァンが同社を「量子コンピューティングのARM」と評したのは、半導体業界においてチップ設計のIPをライセンスするARMのビジネスモデルになぞらえたものです。量子コンピューティング産業が成熟する過程で、ハードウェアとソフトウェアの間にこうした「アーキテクチャ層」が独立した市場として確立されるかどうかは、今後の注目点の一つです。
【用語解説】
耐障害性量子コンピューティング(FTQC:Fault-Tolerant Quantum Computing)
量子ビットに生じるエラーを誤り訂正符号によって継続的に修復しながら計算を行う方式。現在のNISQ(ノイズのある中規模量子)デバイスの次の段階として位置づけられる。
量子LDPC符号(低密度パリティ検査符号)
量子誤り訂正に用いる符号の一種。各量子ビットが少数のパリティ検査にしか関与しないため、回路を浅く保ちながらエラーを検出できる。表面符号と比べ、同じ物理量子ビット数でより多くの論理量子ビットを符号化でき、オーバーヘッドの大幅な削減が期待される。
表面符号(サーフェスコード)
2次元格子上に量子ビットを配置する誤り訂正方式で、現在最も広く研究されている。局所的な接続のみで動作する利点がある一方、1つの論理量子ビットあたり数百〜数千の物理量子ビットを必要とし、オーバーヘッドが大きい。
RSA-2048
2048ビットの鍵長を持つ公開鍵暗号方式。オンラインバンキングやデジタル証明書など、インターネットセキュリティの基盤として広く使用されている。617桁の巨大な数を2つの素数に因数分解することの困難さに安全性が依存しており、量子コンピューターの主要なベンチマーク対象である。
物理量子ビットと論理量子ビット
物理量子ビットはハードウェア上の実際の量子ビット。論理量子ビットは、複数の物理量子ビットで誤り訂正を施した「エラーに強い」量子ビット。両者の比率(オーバーヘッド)が、実用的な量子コンピューター実現の鍵となる。
HNDL攻撃(Harvest Now, Decrypt Later)
現時点では解読できない暗号化データを収集・保管しておき、将来量子コンピューターが実用化された際に復号する攻撃手法。ポスト量子暗号への早期移行が求められる主な理由の一つである。
シードラウンド
スタートアップ企業の初期段階における資金調達ラウンド。事業の立ち上げやプロトタイプ開発、初期チームの構築などに充てられる。
【参考リンク】
Iceberg Quantum 公式サイト(外部)
量子LDPC符号を用いた耐障害性アーキテクチャの設計に特化するシドニー拠点の量子アーキテクチャ企業。
PsiQuantum 公式サイト(外部)
フォトニクスベースの量子コンピューターを開発。シカゴに100万量子ビット規模施設を建設中。
Diraq 公式サイト(外部)
シリコン半導体上のスピン量子ビットを用いた量子コンピューターを開発するオーストラリア企業。
IonQ 公式サイト(外部)
トラップドイオン方式の量子コンピューターを開発・商用提供する米国の上場企業。
LocalGlobe 公式サイト(外部)
ロンドン拠点のベンチャーキャピタル。今回のIceberg Quantumシードラウンドをリードした。
Blackbird 公式サイト(外部)
オーストラリア拠点のベンチャーキャピタル。Iceberg Quantumの初期投資家としてシードラウンドに参加。
DCVC 公式サイト(外部)
ディープテック分野に特化したベンチャーキャピタル。量子コンピューティング等のスタートアップに投資。
NIST ポスト量子暗号プロジェクト(外部)
NISTによる耐量子暗号の標準化プロジェクト。2035年までに従来暗号を使用禁止とする移行計画を策定。
arXiv プレプリント(Pinnacle Architecture)(外部)
Pinnacle Architectureの技術論文。RSA-2048を10万未満の物理量子ビットで因数分解可能とする推定を提示。
【参考記事】
New Architecture Could Cut Quantum Hardware Needed to Break RSA-2048 by Tenfold, Study Finds(外部)
Pinnacleの構成要素と前提条件を詳述。シミュレーションに基づく結果であり実験的検証ではない点にも言及。
Quantum Breakthrough Slashes Qubit Needs for RSA-2048 Factoring(外部)
ギドニーの2025年論文を詳述。RSA-2048解読の量子ビット数が2000万から100万未満に削減された経緯を解説。
The Enormous Energy Cost of Breaking RSA-2048 with Quantum Computers(外部)
RSA-2048解読に必要な量子リソース推定値の歴史的変遷を整理。Fowlerらの10億からギドニーの2000万まで。
Iceberg Quantum Raises $6M Seed Round and Launches Pinnacle Architecture(外部)
PinnacleのGB符号使用やフェルミ・ハバードモデルでの62,000量子ビット実行可能性など技術的詳細を補足。
NIST IR 8547: Transition to Post-Quantum Cryptography Standards(外部)
NISTによるポスト量子暗号移行計画。従来暗号を2030年非推奨、2035年使用禁止とするスケジュールを規定。
【編集部後記】
量子コンピューティングの進化は、暗号技術の安全性という私たちの日常にも直結するテーマです。NISTが示す2035年の移行期限は、まだ先のように感じるかもしれませんが、「今暗号化されたデータが将来解読されるかもしれない」という視点に立つと、見え方が変わってきます。皆さんが関わるサービスやシステムでは、ポスト量子暗号への備えはどこまで進んでいるでしょうか。こうしたニュースをきっかけに、一緒に考えていけたらうれしいです。






































