人類初の宇宙結婚式――384キロ上空から誓った愛
2003年8月10日、ニュージーランド上空約384キロメートル。国際宇宙ステーション(ISS)に滞在中のロシアの宇宙飛行士ユーリ・マレンチェンコ(41歳)が、モニター越しに地上の婚約者エカテリーナ・ドミトリエワ(26歳)と見つめ合っていました。宇宙服の上に蝶ネクタイを着け、それぞれが自分の指に結婚指輪をはめる――人類史上初の宇宙結婚式が、衛星通信を通じて執り行われたのです。
本来、マレンチェンコは8月に地球へ帰還してから挙式する予定でした。しかし宇宙での滞在期間が延長され、10月28日まで地球に戻れないことに。それでも「式を延期したくない」という強い思いが、この前例のない挙式を実現させました。
宇宙と地上を結ぶ結婚式は、どのように行われたのでしょうか。
25分間の宇宙セレモニー
テキサス州ヒューストンの会場には、白いウェディングドレスに身を包んだエカテリーナが立っていました。テキサス州の法律では、正当な理由があれば新郎不在でも結婚登録が可能だったため、地上では弁護士がマレンチェンコの代理で書類にサインしました。
ISS内では、アメリカ人宇宙飛行士エドワード・ルーが証人を務め、シンセサイザーでメンデルスゾーンの結婚行進曲を演奏しました。マレンチェンコの結婚指輪は特別にデザインされたもので、金地に散りばめられた宝石が太陽系の惑星と太陽、そしてISSをかたどっていました。セレモニーは25分で終了しました。
この挙式を可能にしたのは、2000年代初頭に成熟した衛星通信技術でした。ISSと地上間のリアルタイム映像・音声通信は、複数の地上局と通信衛星のネットワークによって実現されていました。遅延を最小限に抑えた双方向通信が、宇宙と地上を結んだのです。
世界中がこの出来事に注目しました。しかし同時に、宇宙機関にとっては予期せぬ出来事でもありました。この結婚式を受けて、宇宙飛行士の契約書に「宇宙滞在中の結婚式を禁止する」条項が追加されました。マレンチェンコとエカテリーナの挙式は、永遠に「最初で最後」の記録として歴史に刻まれることになったのです。
宇宙開発における「初」の系譜
宇宙結婚式は、宇宙開発史に刻まれた数多くの「人類史上初」の一つです。主要なマイルストーンを振り返ってみましょう。
1957年10月4日 – ソ連がスプートニク1号を打ち上げ、人類初の人工衛星を軌道に投入。宇宙時代の幕開けとなりました。
1961年4月12日 – ユーリ・ガガーリンが人類初の有人宇宙飛行に成功。約108分で地球を1周し、「地球は青かった」という言葉を残しました。
1965年3月18日 – アレクセイ・レオーノフが人類初の宇宙遊泳を実施。約12分間の船外活動で、人類が初めて宇宙空間に身一つで足を踏み入れました。
1969年7月20日 – アポロ11号でニール・アームストロングとバズ・オルドリンが月面歩行を達成。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」。
1998年11月20日 – 国際宇宙ステーション(ISS)の建設が開始。日本、アメリカ、ロシア、カナダ、欧州の15か国が協力する史上最大の国際宇宙プロジェクトが始動しました。
2001年4月28日 – 実業家デニス・チトーが民間人として初めて自費で宇宙旅行を実施。約2000万ドルの費用で8日間ISSに滞在し、宇宙旅行の商業化の扉を開きました。
2020年5月 – SpaceXのCrew DragonがISSへの有人飛行に成功。民間企業による有人宇宙輸送が本格化しました。
そして2003年8月10日、マレンチェンコの宇宙結婚式。宇宙が「研究の場」から「生活の場」へと変化する可能性を示した瞬間でした。
地上での再会、そして未来へ
マレンチェンコは2か月後の10月末に地球に帰還し、空港で待つエカテリーナと再会を果たしました。翌年にはモスクワ北部の小さな教会で地上での結婚式も挙げ、2006年には娘のカミラが誕生しています。
あれから22年。SpaceXのStarlink衛星コンステレーション、リアルタイム4K・8K映像配信、VR/AR技術――通信技術は格段に進歩しました。NASAは2031年にISSの運用を終了し、Axiom SpaceやBlue Originといった民間企業が運営する商業宇宙ステーションへの移行を計画しています。
2021年には前澤友作氏がISSでの宇宙旅行を実現し、同年、ジェフ・ベゾス氏、リチャード・ブランソン氏らも相次いで宇宙に到達しました。宇宙は、もはや一部の人々だけのものではありません。
384キロ上空から誓った愛は、最初で最後の記録として歴史に残ります。しかし、宇宙でプロポーズをする人、記念日を祝う人は、これから現れるかもしれません。コードを書くことも、結婚式を挙げることも、人間が人間であることの表れです。その営みが宇宙にまで広がるとき、私たちはどんな世界を見るのでしょうか。
Information
参考リンク
用語解説
国際宇宙ステーション(ISS)
地上から約400km上空の軌道上に建設された有人実験施設。日本、アメリカ、ロシア、カナダ、欧州の15か国が参加する国際プロジェクトで、1998年に建設が開始され、2011年に完成。2000年から現在まで宇宙飛行士が常駐し、さまざまな科学実験が行われています。
衛星通信技術
人工衛星を中継局として利用する通信技術。地上局間の距離が遠い場合や、移動体との通信に有効。ISSと地上間の通信では、複数の追跡・データ中継衛星システム(TDRS)が使用され、リアルタイムでの映像・音声通信を実現しています。
モジュール式宇宙ステーション
複数のモジュール(区画)を軌道上で組み立てる方式の宇宙ステーション。地上で完成させた宇宙ステーションを打ち上げるのではなく、小さな部品を順次打ち上げて宇宙空間で組み立てていくため、大型の施設を建設できるメリットがあります。ISSはこの方式を採用した人類初の宇宙ステーションです。































