Last Updated on 2025-08-09 16:07 by TaTsu
2025年8月7日、NASAは国際宇宙ステーション(ISS)後継機を開発する商業低軌道目的地開発プログラム(CLDP)の戦略変更を発表した。
ISS退役後の有人宇宙活動の空白期間を回避するためであり、背景にはフェーズ2における40億ドルの予算不足がある。2026会計年度の予算要求は年間2億7230万ドル、今後5年間で21億ドルである。
新指令では、最低能力要件が「2人のNASAクルーによる6ヶ月間の継続滞在」から「4人のクルーによる1ヶ月単位の滞在」へと引き下げられる。また契約形態は固定価格契約から、Blue OriginやStarlab Spaceとのフェーズ1でも用いられた有償の宇宙活動協定(SAA)へと移行する。
From NASA changes the rules of the game for commercial space stations
【編集部解説】
今回のNASAの方針転換は、単なる予算削減や計画変更という言葉だけでは片付けられない、宇宙開発における歴史的な転換点と言えるでしょう。国際宇宙ステーション(ISS)が築いてきた「常に人類が宇宙に滞在する」という時代が、少なくともアメリカにとっては終わりを告げ、宇宙が国家主導のフロンティアから、民間企業が主役となる経済圏へと本格的に移行する現実を突きつけています。
この変化の背景には、複数の切実な事情が絡み合っています。最大の理由は、2030年頃に退役が迫るISSの後継機開発が、深刻な資金不足に直面していることです。当初の計画には約40億ドルの不足が見込まれ、NASAは壮大なビジョンよりも、実現可能な計画への転換を迫られました。また、中国が独自の宇宙ステーション「天宮」の運用を本格化させていることも、アメリカが低軌道での活動に空白期間を作ることへの強い危機感につながっています。
今回の指令で最も重要な変更点は二つあります。一つは、宇宙ステーションに求められる最低要件の引き下げです。これまで「2人の宇宙飛行士が6ヶ月間継続滞在」できることが目標でしたが、これを「4人のクルーが1ヶ月単位で滞在」できる能力へと大幅に緩和しました。これは、NASAがもはや永続的な有人拠点を持つことを諦め、必要な時にだけ商業ステーションを利用する「オンデマンド型」へと舵を切ったことを意味します。2000年以来続いてきた、人類の宇宙における絶え間ないプレゼンスが途切れる可能性が高いのです。
もう一つの重要な変更が、契約方式の変更です。NASAが仕様を決めて発注する「固定価格契約」は、予算が不透明な中でリスクが高いと判断されました。代わりに採用される「宇宙活動協定(SAA)」は、官民が共同でリスクを負いながら開発を進める、より柔軟なパートナーシップです。これは、NASAが単なる「顧客」から、民間宇宙産業を育てる「支援者」へとその役割を変化させていることを示しています。Blue OriginやStarlab Spaceといった企業にとっては、開発の自由度が増す一方で、自らも事業リスクを負うことになります。
この方針転換は、ポジティブな側面と潜在的なリスクの両面を併せ持っています。ポジティブな面は、民間企業が宇宙ステーションを開発・運営するハードルが下がり、商業化が加速することです。Axiom SpaceはすでにISSからの分離・自立を前倒しする計画を発表しており、この流れはさらに加速するでしょう。
しかし、その代償も小さくありません。常時人が滞在しない宇宙ステーションでは、ISSで行われてきたような長期間にわたる微小重力下での科学実験や医学研究が困難になる可能性があります。これは科学の進歩にとっては後退と捉えることもできます。
今回の決定は、宇宙開発が理想を追う時代から、経済合理性を追求する時代へと完全に移行したことを象徴しています。ISSという一つの大きな「家」を皆で共有する時代から、複数の商業施設が立ち並ぶ「街」へと、低軌道の姿は変わろうとしています。これは、未来の宇宙経済圏の幕開けに向けた、NASAの現実的で、しかし大きな一歩なのです。
【用語解説】
低軌道(LEO – Low Earth Orbit)
地球の地表からの高度が2,000km以下の軌道のことである。国際宇宙ステーション(ISS)や多くの地球観測衛星がこの軌道を利用している。
国際宇宙ステーション(ISS)
アメリカ、ロシア、日本、カナダ、欧州宇宙機関(ESA)が協力して運用する、低軌道上に存在する有人の研究施設である。2030年頃の退役が予定されている。
商業低軌道(LEO)目的地開発プログラム(CLDP)
退役するISSの後継として、民間企業による商業宇宙ステーションの開発を支援するNASAのプログラムである。NASAは自ら所有・運用するのではなく、民間ステーションのサービスの1顧客となることを目指している。
宇宙活動協定(SAA – Space Act Agreements)
NASAが商業宇宙能力の開発を促進するために、民間企業と協力するための協定の一種である。従来の政府調達契約とは異なり、NASAと企業が共同で投資を行い、リスクを分担する柔軟な枠組みであることが特徴だ。
【参考リンク】
NASA – Commercial Low Earth Orbit Destinations(外部)
NASAの商業低軌道目的地開発プログラム(CLDP)公式ページです。
Axiom Space(外部)
自立型の商業宇宙ステーションを目指すAxiom Spaceの公式サイトです。
Blue Origin(外部)
商業宇宙ステーション「Orbital Reef」を開発するBlue Origin公式サイト。
Starlab Space(外部)
Voyager SpaceとAirbusの合弁事業「Starlab」の公式サイトです。
【参考動画】
【参考記事】
NASA Commercial LEO Space Stations Acquisition Strategy(外部)
NASA内部指令を基に、40億ドルの予算不足など戦略変更の背景を伝える記事。
Where are America’s Commercial Space Stations in 2025?(外部)
2025年時点での各社の開発状況をまとめ、有人宇宙活動の空白を懸念する記事。
【編集部後記】
今回のNASAの決定は、宇宙開発の主役が国家から民間へと移り変わる、大きな時代の節目を象徴しています。しかし、世界に目を向けると、国家が強力に宇宙開発を主導する中国が独自の宇宙ステーションで存在感を増すなど、宇宙開発は一枚岩ではありません。
では、私たち日本は、この変化の時代にどのような役割を担うのでしょうか。ISS計画で培った経験や、世界に誇るロボット・物資輸送技術を武器に、新しい商業宇宙ステーションの重要なパートナーとなる道。あるいは、国内で育ちつつある民間企業が、独自のサービスでこの巨大な経済圏に挑む道。
宇宙が、一部の大国のプロジェクトから、多様なプレイヤーが参加する経済圏へと変わる今、日本、そして私たち一人ひとりが未来にどう関わっていくのか。その戦略が問われる時代の幕開けと言えるでしょう。