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Music×Tech #06「Across the Universe」――431光年先へ届ける一曲

 - innovaTopia - (イノベトピア)

2008年2月4日、午後7時。スペイン・マドリード郊外のパラボラアンテナが、静かに空を向きました。

直径70メートルの皿が捉えたのは、北極星ポラリス。地球から431光年彼方、人類が初めて航海の指針とした星です。そしてこの夜、NASAはそこに向けて音楽を送りました。ビートルズの”Across the Universe”。MP3形式、128kbps、3.6分間のデジタル信号が、光速で宇宙へ放たれました。

到達予定は2439年。送信を見守った人々の誰も、その瞬間には立ち会えません。

イライラから生まれた宇宙

1967年、ある夜のこと。ジョン・レノンはベッドで横になっていました。隣には妻のシンシア。彼女の声が耳に入ります。何か言っている。でもレノンは疲れていて、少しイライラしていました。

そして、不意にフレーズが流れ込んできました。

“Words are flowing out like endless rain into a paper cup”(言葉が流れ出ていく、紙コップに注ぐ果てしない雨のように)

レノンは眠れなくなりました。階下に降りて、ペンを取りました。後に彼はこう語っています。「憑かれたように書かされた。精神的な媒介者のようだった。書き留めるまで眠らせてくれない」

曲は、瞑想的な響きを持って完成しました。サンスクリット語のマントラ“Jai guru deva om”(師グル・デヴに栄光あれ)と、繰り返される“Nothing’s gonna change my world”(私の世界は何も変わらない)。レノンが当時傾倒していた超越瞑想の影響が、音の隅々まで染み込んでいます。

彼自身、この曲を「僕が書いた中で最高の詩かもしれない」と評しました。

二人のファンと、完成しなかった完成

1968年2月4日。ビートルズはアビー・ロード・スタジオにいました。インドへの旅を前に、シングルを録音するためです。ポール・マッカートニーは”Lady Madonna”を、レノンは”Across the Universe”を持ち込みました。

基本トラックには、アコースティック・ギター、ジョージ・ハリソンのタンブーラ、リンゴ・スターのドラムが重ねられます。レノンは自分のヴォーカルを録音しましたが、何かが足りないと感じました。“Nothing’s gonna change my world”のリフレインに、もっと高い声が欲しい。

マッカートニーがスタジオの外に出ました。アビー・ロードの前には、いつものようにファンが待っています。彼は尋ねました。「高い音を出せる人はいる?」

16歳のブラジル人少女リジー・ブラヴォと、17歳のロンドン人ゲイリーン・ピースが手を挙げました。二人はスタジオに招き入れられ、マイクの前に立ちました。ビートルズの録音に参加した最初で唯一のファンです。

しかし、レノンは満足しませんでした。「ギターも僕も音程が外れている。誰も僕をサポートしてくれなかった」と、後に語っています。曲はお蔵入り。最終的にチャリティアルバムに提供され、1969年12月にひっそりとリリースされました。鳥の鳴き声がエフェクトとして加えられた、奇妙なバージョンでした。

完璧だと思った詩は、完璧な録音にはなりませんでした。

宇宙が曲を選んだ

40年後。ロサンゼルスを拠点とするビートルズ史家、マーティン・ルイスが、あるアイデアを思いつきました。

2008年は、NASAの50周年。Deep Space Networkの45周年。そして、”Across the Universe”が録音された日からちょうど40年。なら、この曲を宇宙に送ったらどうだろう?

NASAに提案すると、エンジニアたちは即座に興味を示しました。Deep Space Networkのプログラム責任者バリー・ゲルツァーラーは、こう言いました。「僕は45年間ずっとビートルズのファンだ。Deep Space Networkと同じだけ長く。それに”Across the Universe”は僕の一番好きなビートルズの曲なんだ」

“across the universe”(宇宙を横切って)というフレーズが、メロディの中で繰り返し響きます。“Nothing’s gonna change my world”——何も変わらない世界。永遠性。不変性。宇宙の静寂。レノンが1967年の夜、イライラから書いた言葉が、40年後に文字通りの意味を帯びました。

ポール・マッカートニーは、NASAにメッセージを送りました。「素晴らしい! よくやった、NASA! エイリアンたちによろしく。ポールより」

ヨーコ・オノは、こう述べました。「これは新しい時代の始まりです。私たちが宇宙中の何十億もの惑星とコミュニケーションを取る時代の。」

批判と、それでも

もちろん、批判もありました。

ロシアの天文学者アレクサンドル・ザイツェフは、このプロジェクトを「広報活動」と呼びました。MP3のようなデジタル圧縮形式は、宇宙空間でのエラーに脆弱です。仮に誰かが受信したとしても、人間の音声圧縮アルゴリズムを知らなければ、ただのノイズにしか聞こえないでしょう。データレートも高すぎて、遠方での受信は事実上不可能だと。

技術的には、確かにそうかもしれません。2001年のロシアのTeen Age Message、2003年のCosmic Call 2に続く、これは3番目の試みに過ぎませんでした。しかしNASAによる初の音楽送信であり、商業音楽レーベルの楽曲が宇宙へ送られた初の例でした。

Apple Corpsは、許可を出す際にこう冗談めかして言ったそうです。「新しい市場を常に探している」

2008年2月4日、世界中のビートルズファンが、送信と同時にこの曲を再生しました。「Across The Universe Day」。地球上の無数のスピーカーとイヤフォンから、同じ曲が鳴りました。スペインのアンテナから放たれた信号と、人々の部屋で流れる音楽が、一瞬だけ共鳴しました。

今も、そしてこれから

“Across the Universe”は今も、誰かのプレイリストで鳴っています。Spotifyで、YouTubeで、古いCDプレーヤーで。ジョン・レノンの声が、“Jai guru deva om”と歌います。リジー・ブラヴォとゲイリーン・ピースの声が、“Nothing’s gonna change my world”と繰り返します。

そして宇宙では、MP3の信号が光速で進み続けています。2025年現在、ポラリスまでの距離の約4%を進みました。

431年後、2439年。その時、誰がこの星に住んでいるのでしょうか。

1967年の夜、イライラしながらベッドに横たわっていたレノンは知らなかったはずです。自分が書いた言葉が、いつか本当に宇宙を横切ることになるとは。

Information

楽曲情報

  • 曲名:Across the Universe
  • アーティスト:The Beatles
  • 作詞・作曲:John Lennon(クレジットはLennon-McCartney)
  • 録音:1968年2月3-4日、8日(Abbey Road Studios)
  • 初リリース:1969年12月12日(チャリティアルバム”No One’s Gonna Change Our World”)

NASA送信

  • 日時:2008年2月4日、午後7時EST(00:00 UTC、2月5日)
  • 送信地:Madrid Deep Space Communication Complex(スペイン)
  • アンテナ:DSS-63(直径70メートル)
  • 目標:北極星ポラリス(距離431光年)
  • 形式:MP3、128kbps、デジタル信号
  • 到達予定:2439年

視聴リンク

参考リンク

用語解説

超越瞑想: マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーが提唱した瞑想法。1960年代後半、ビートルズをはじめ多くの著名人が実践した

Deep Space Network(DSN): NASAが運営する、深宇宙探査機との通信を担う世界的なアンテナネットワーク。カリフォルニア、スペイン、オーストラリアに主要施設がある

光年: 光が1年間に進む距離。約9.46兆キロメートル

MP3: 音声データを圧縮するデジタルフォーマット。人間の耳に聞こえにくい周波数帯域を削減することでファイルサイズを小さくする

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Satsuki
テクノロジーと民主主義、自由、人権の交差点で記事を執筆しています。 データドリブンな分析が信条。具体的な数字と事実で、技術の影響を可視化します。 しかし、データだけでは語りません。技術開発者の倫理的ジレンマ、被害者の痛み、政策決定者の責任——それぞれの立場への想像力を持ちながら、常に「人間の尊厳」を軸に据えて執筆しています。 日々勉強中です。謙虚に学び続けながら、皆さんと一緒に、テクノロジーと人間の共進化の道を探っていきたいと思います。

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