静かな革命の始まり
2008年10月31日、協定世界時18時10分。日本時間では11月1日の未明です。暗号理論のメーリングリストに、一通のメールが投稿されました。差出人は「Satoshi Nakamoto」。添付されていたのは、わずか9ページの論文でした。タイトルは「Bitcoin: A Peer-to-Peer Electronic Cash System」。
その2ヶ月前、リーマン・ブラザーズが破綻し、世界金融危機が始まっていました。銀行への信頼が揺らぐ中、この論文は「金融機関を通さずに、一方から他方へ直接オンライン支払いができる」システムを提案しました。
17年後の2025年12月。ビットコインは一時11万ドル(約1600万円)の最高値を記録し、暗号資産市場全体の規模は約500兆円に達しています。一方、世界137カ国が中央銀行デジタル通貨(CBDC)の研究開発を進めています。「銀行を不要にする」はずだった技術と、国家が発行するデジタル通貨。二つの思想が、いま同じ空間に存在しています。
信用を、誰が担保するのか?
分散という理想
2009年1月3日。ビットコインのネットワークが起動しました。最初のブロック、通称「ジェネシスブロック」には、あるメッセージが刻まれています。「英タイムズ紙2009年1月3日:財務大臣 二度目の銀行救済措置へ」。これは単なる日付の証明ではありません。サトシ・ナカモトの、明確な意思表示でした。
ビットコインの核心は「中央管理者のいないお金」という思想です。ピア・ツー・ピア。誰も支配しない。ブロックチェーンと呼ばれる分散型の記録システムと、プルーフ・オブ・ワークという検証の仕組みによって、銀行も政府も介在せずに価値の移転を実現する。それは、信用の形を根本から問い直す試みでした。
2025年現在、暗号資産全体の市場規模は約3.4兆ドル(約500兆円)。ビットコインは2025年に円建てで1800万円を超える過去最高値を記録しました。米国では現物ビットコインETFが承認され、機関投資家の参入が進んでいます。
しかし、この15年は決して順風満帆ではありませんでした。2014年のマウントゴックス事件、2022年のテラ暴落、規制強化、投機の対象としての批判。理想と現実のギャップは大きく、暗号資産は4回の大きな波を経験してきました。
それでも、消えなかった。なぜか。
中央集権の逆襲
2019年、転換点が訪れます。米Meta(当時はFacebook)が独自のデジタル通貨「リブラ(後のディエム)」構想を発表。この動きをきっかけに、世界各国の中央銀行がCBDC検討を一気に加速させました。
2025年現在、世界98%のGDPを占める137カ国がCBDCの研究・開発に取り組んでいます。実際に発行したのは11の国・地域。先進国では欧州中央銀行が最も積極的で、近い将来デジタルユーロを発行する見通しです。
中でも野心的なのが中国ですが、国内での普及には苦戦しています。AlipayとWeChat Payが市場の90%以上を占める中国では、デジタル人民元の日常生活での存在感は依然として限定的です。認知度は上がっても、実際に頻繁に使う人は少ない。便利なものがすでにあるとき、新しいものへ移行する理由を見つけるのは難しい。
一方、米国は明確に拒絶しました。2025年1月、トランプ大統領はCBDCを「自由を脅かす監視社会のツール」と位置づけ、前政権のCBDC推進の大統領令を取り消しました。代わりに推進するのは、民間発行のステーブルコイン。政府ではなく市場に委ねる、という選択です。
日本は慎重です。日本銀行は2021年から実証実験を開始し、パイロット実験を実施中ですが、発行の計画は明言していません。技術検証と制度設計の議論を、着実に進めている段階です。
各国の対応は、それぞれの政治思想を反映しています。
共存という曖昧さ
2025年12月、奇妙な風景が広がっています。
ビットコインは「デジタルゴールド」として機関投資家のポートフォリオに組み込まれ始めました。米国ではビットコインを国家準備金として採用する動きさえあります。一方、CBDC
は137カ国が研究中ですが、大半は実験段階。実際に発行したのは11の国・地域のみです。
どちらも「勝って」いません。
ビットコインは理想を掲げましたが、現実には課題があります。価格変動の激しさ、処理速度の限界、規制の不確実性。「日常の決済手段」としての普及は、まだ限定的です。CBDCもまた、プライバシーへの懸念、既存決済システムとの競合、技術的ハードルに直面しています。中国ですら、国内普及に苦戦している。
興味深いのは、両者が技術的には多くを共有していることです。CBDCの概念はビットコインに直接触発されたものです。ブロックチェーン、暗号技術、デジタルウォレット。技術は同じ。違うのは、「誰が発行し、誰が管理するか」という一点です。
分散か、中央集権か。この対立は、思想の対立です。しかし現実は、二元論では割り切れません。ビットコインを支える企業は規制当局と対話し、CBDCはブロックチェーンから学んでいます。対立しながら、影響し合っている。
2025年の今、二つの思想は宙吊りのまま、共存しています。
答えのない問い
12月4日は「銀行の国際デー」です。2019年、国連総会の決議によって制定されました。持続可能な開発における開発銀行の重要な役割を認識するための日。この日に、私たちは何を考えるのでしょうか。
お金とは、何だったのか。信用を担保するのは、技術か、国家か、それとも別の何かか。
2008年から2025年へ。17年が経ちました。対立は続いています。答えはまだ、出ていません。
【Information】
参考リンク:
用語解説:
ブロックチェーン 取引記録を「ブロック」という単位でまとめ、それを鎖(チェーン)のように連結して保存する技術。記録の改ざんが極めて困難で、中央管理者なしに信頼性を担保できる。
プルーフ・オブ・ワーク(PoW) 取引の正当性を検証するための仕組み。複雑な計算問題を解くことで、不正を防ぐ。この作業を「マイニング」と呼ぶ。
CBDC(中央銀行デジタル通貨) Central Bank Digital Currencyの略。中央銀行が発行するデジタル形式の法定通貨。現金と同じ価値を持ち、国家の信用力に裏付けられる。
SWIFT 国際銀行間通信協会が運営する国際送金システム。世界200以上の国・地域、11,000以上の金融機関が利用している。
ステーブルコイン 価格の安定性を実現するように設計された暗号資産。米ドルなど法定通貨と価値を連動させることで、暗号資産の価格変動リスクを抑える。






























