2025年12月15日、米国は英国との310億ポンド規模のテック繁栄協定の実施を一時停止したことが明らかになった。この協定は同年9月、ドナルド・トランプ大統領の英国国賓訪問時にキア・スターマー首相との間で発表され、Microsoftの220億ポンドやGoogleの50億ポンドを含む米国テック企業による英国への大規模投資を含んでいた。
ワシントンは一時停止の理由として、英国が他の分野で貿易障壁を下げる進展が不足していることを挙げている。トランプ政権は英国が米国テック企業に課す2%のデジタルサービス税や、米国農産物の輸出を制限する食品安全規則に不満を持っている。
このデジタルサービス税はAmazon、Google、Appleなどから年間約8億ポンドを徴収している。協定には英国北東部におけるAI成長ゾーンの創設が含まれ、最大300億ポンドと5,000人の雇用創出が見込まれていた。
英国政府筋は米国による通常のハードボール交渉だと軽視しているが、英国政府にとっては深刻な後退となる。
From:
US puts £31bn tech ‘prosperity deal’ with Britain on ice
【編集部解説】
今回の米英テック繁栄協定の一時停止は、テクノロジー産業における地政学的な力学が、もはや純粋な技術革新の論理だけでは動かないことを鮮明に示しています。
この協定が発表されたのは2025年9月。トランプ大統領がチェッカーズでスターマー首相と会談し、両国がAI、量子コンピューティング、原子力エネルギーなどの先端分野で協力を深めることを約束しました。当時の熱気はすさまじいものでした。Microsoft、Google、NVIDIA、OpenAIといった錚々たる企業が英国への大規模投資を表明し、総額は実に310億ポンド(約6兆円)に達しました。
しかし、わずか3か月後の12月、この協定は事実上凍結されました。表面的な理由は「貿易障壁の削減における進展不足」ですが、実態はより複雑です。米国が問題視しているのは主に3つの領域です。
第一に、デジタルサービス税です。英国は2020年から、グローバル売上高が5億ポンド以上かつ英国内売上高が2,500万ポンド以上のテック企業に対し、英国内収益の2%を課税しています。この税制は年間約8億ポンド(約1,600億円)を生み出しており、Amazon、Google、Appleなどの米国企業が主な納税者です。トランプ政権はこれを「米国企業に対する差別的課税」と見なし、撤廃を強く求めています。
第二に、オンライン安全規則です。英国は2023年にオンライン安全法を制定し、ソーシャルメディアプラットフォームに対して違法・有害コンテンツの削除義務を課しています。米国政府は、この規制が米国企業に過度な負担を強いているとして、その執行の見直しを要求しています。
第三に、食品安全基準です。英国は成長ホルモン剤を使用した牛肉や塩素消毒されたチキンの輸入を禁止しています。米国の農業産業はこれらの製品の英国市場へのアクセスを強く求めており、トランプ政権はこれを貿易交渉の重要な要素としています。
興味深いのは、この協定の構造そのものに脆弱性が内在していたことです。協定文書には「実質的な進展が形式化と実施に向けて行われることと併せて発効する」という条件が明記されていました。つまり、最初から米国側には実施を保留する余地が残されていたのです。
英国政府の立場も微妙です。デジタルサービス税を撤廃すれば、年間8億ポンドの税収を失うだけでなく、「米国の圧力に屈した」という国内批判を招きます。一方、食品安全基準を緩和すれば、農業団体や消費者保護団体からの強い反発が予想されます。政府筋が「通常のハードボール交渉」と楽観的に語る一方で、実際には非常に厳しい選択を迫られています。
より広い視点で見れば、この事態は欧米間のテクノロジー・ガバナンスに関する深い溝を露呈しています。欧州は「規制による市場の健全化」を重視し、米国は「規制緩和によるイノベーション促進」を優先します。英国はBrexit後、この両者の間で独自の立ち位置を模索してきましたが、その難しさが今回明らかになったと言えるでしょう。
AI開発においては、膨大な計算資源とデータセンターが不可欠です。Microsoftが約束した220億ポンドの投資の大部分は、23,000基以上のGPUを備える英国最大のAIスーパーコンピュータの建設に充てられる予定でした。この計画が停止すれば、英国のAI開発能力は大きく制約されます。同時に、予定されていた5,000人の高度技術職の創出も危ぶまれます。
最終的に、この問題は1月の交渉で解決される可能性もありますが、根本的な対立構造が解消されたわけではありません。テクノロジーと国家主権、経済的利益と規制権限、これらの緊張関係は今後も続くでしょう。
【用語解説】
テック繁栄協定(Tech Prosperity Deal)
米英間で2025年9月に調印された、AI、量子コンピューティング、原子力エネルギー分野での協力を促進する協定。正式には覚書(MOU: Memorandum of Understanding)の形式をとり、法的拘束力は限定的である。
デジタルサービス税(Digital Services Tax)
2020年に英国が導入した税制。グローバル売上高5億ポンド以上、かつ英国内売上高2,500万ポンド以上のテック企業に対し、英国関連収益の2%を課税する。フランス、イタリア、スペインなども同様の税制を導入している。
AI成長ゾーン(AI Growth Zone)
英国北東部に設置予定の人工知能産業集積地域。データセンターやAI開発拠点を集約し、最大300億ポンドの民間投資と5,000人の雇用創出を目指す。
ハワード・ラトニック(Howard Lutnick)
2025年2月に就任した米国商務長官。金融サービス会社Cantor FitzgeraldのCEOで、トランプ政権下で関税政策と貿易交渉を主導している。
キア・スターマー(Keir Starmer)
2024年7月から英国首相を務める労働党党首。元検事総長で、米国との関係強化と経済成長を重要政策に掲げている。
【参考リンク】
英国政府公式発表:米英テックパートナーシップ(外部)
2025年9月に発表された米英テック協定の公式プレスリリースで協定の詳細が記載されている
Microsoft(外部)
英国への220億ポンドの投資を発表した世界最大のソフトウェア企業の公式サイト
Google (Alphabet)(外部)
英国への50億ポンド投資を表明した検索エンジンとクラウドサービスの大手企業
米国商務省(外部)
ハワード・ラトニック長官の下で対英貿易交渉を主導している米国の省庁
英国歳入関税庁(HMRC)(外部)
英国のデジタルサービス税を管轄し年間約8億ポンドの税収を徴収する機関
【参考記事】
Microsoft, Google, Nvidia, OpenAI and others pledge $42 billion in U.K. AI investment(外部)
Microsoftが約300億ドル、Googleが68億ドルを英国AIインフラに投資すると発表した記事
Microsoft, Nvidia, other tech giants plan over $40 billion of new AI investments in UK(外部)
Microsoftの300億ドル投資とNVIDIAの120,000基GPU展開計画を詳報
US Reportedly Suspends Tech Deal With UK Amid Trade Frustrations Over Concessions, Non-Tariff Barriers(外部)
米国が非関税障壁の緩和を求めテック協定を一時停止したことを報じる
Donald Trump claims the UK’s Digital Services Tax overwhelmingly targets US tech giants(外部)
英国デジタルサービス税の実態を分析し納税企業の37%は米国外企業であることを明らかにした
Trump and Starmer Sign Billion-Dollar U.S.-U.K. Tech Deal(外部)
2025年9月の協定調印時に米企業が1,500億ポンドの投資を約束したと報じる
Putting the Digital Services Tax on the table in US negotiations sends worrying signal on UK digital sovereignty(外部)
デジタルサービス税を交渉材料にすることが英国のデジタル主権を危うくすると警告
UK Digital Services Tax raises £800M from global tech giants(外部)
2024-25年度のデジタルサービス税が8億ポンドを徴収したことを報告
【編集部後記】
今回の米英テック協定の一時停止は、テクノロジーの未来が技術革新だけでなく、国家間の複雑な利害関係によって形作られることを示しています。デジタルサービス税、オンライン規制、食品安全基準——一見無関係に見えるこれらの要素が、実はAI開発の行方を左右しているのです。みなさんは、テクノロジー企業が国境を越えて事業を展開する時、どのような規制やルールが適切だと思われますか?そして日本が同様の局面に立たされたとき、私たちはどのような選択をすべきでしょうか。グローバルなテック産業の動向を一緒に見守っていきましょう。































