あなたの手の中の「36年前」
今、あなたがこの記事を読んでいるそのスマートフォン。朝のニュースチェック、通勤中のSNS、オンライン会議、夜の動画ストリーミング—その全てを支える通信技術の歴史には、1990年2月13日に認可された象徴的な特許の一つがある。
US Patent 4,901,307。
“Spread Spectrum Multiple Access Communication System Using Satellite or Terrestrial Repeaters”(スペクトラム拡散多元接続通信システム)と題されたこの特許は、当時無名だったベンチャー企業Qualcommが出願し、認可された。発明者はIrwin M. Jacobs、Klein S. Gilhousen、Lindsay A. Weaverの3名。出願日は1986年10月17日。そして認可日が、今日——1990年2月13日だった。
CDMA系の発想はモバイル通信の発展に大きく寄与したが、2G〜5Gの成立はGSM系統など複数ルートの標準化・技術進化の積み重ねであり、単一特許だけで説明できない。累計180億台以上のデバイスがこの技術の恩恵を受け、GSMAによれば、モバイル技術・サービスは2020年に約4.4兆ドルの経済価値(付加価値)を生み、今後も拡大が見込まれている。
36年前の1つの特許が、いま”あなたのスマホ”を動かしている——その物語を、今日は紐解いていこう。
その特許とは何か?
CDMA(Code Division Multiple Access)の誕生
US Patent 4,901,307が提案したのは、CDMA(符号分割多元接続)と呼ばれる通信方式だった。それまでの携帯電話は、周波数や時間でユーザーを「区切る」方式(FDMA、TDMA)が主流だった。しかしCDMAは、同じ周波数帯を複数のユーザーが”同時に”使うという、当時は”非常識”とさえ言われた発想を実現した。
どうやって?答えは「符号(コード)」にある。
各ユーザーに固有の符号を割り当て、信号を広い周波数帯に”拡散”する。受信側は、その符号を持つ信号だけを抽出できる。まるで満員のカフェで、自分の名前だけを聞き分けるように——CDMAは、混雑した電波空間で”誰が誰に話しているか”を識別する技術だった。
軍事技術からの民生転用
実はこの技術、第二次世界大戦中に軍事暗号通信として開発されたものだった。女優でありながら発明家でもあったヘディ・ラマールが1940年代に提唱した「周波数ホッピング技術」が、CDMAのルーツの1つと言われている。冷戦期、米軍は敵による傍受を防ぐため、信号を拡散する技術を使っていた。
Qualcommの創業者たちは、この「軍事の秘密」を民間の携帯電話に転用できると確信した。しかし当時の通信業界は懐疑的だった。「そんな複雑な技術は実用化できない」「既存のTDMAで十分だ」——そんな声が支配的だった。
それでも彼らは、1986年に特許を出願。そして4年後の1990年2月13日、米国特許商標庁(USPTO)がこの特許を正式に認可した。モバイル革命の幕が、静かに開いた瞬間だった。

なぜこれが革命的だったのか?
周波数効率の劇的向上
CDMAは、同じ周波数帯でより多くのユーザーを収容できた。従来方式と比べて、理論上は10倍以上の容量を実現できるとされた。これは、携帯電話が「一部のビジネスマン」から「全人類」へと広がる前提条件だった。
ソフトハンドオフ
CDMAは、移動中のユーザーが複数の基地局と”同時に”接続できる「ソフトハンドオフ」を可能にした。従来は基地局を切り替える瞬間に通話が途切れることがあったが、CDMAではそれが劇的に改善された。
セキュリティと耐干渉性
信号が広帯域に拡散されるため、傍受や妨害に強い。これは軍事技術由来の最大の利点であり、民生でも重要な特性となった。
2G、3G、4G、5Gへの継承
CDMAは、セルラー通信における「多元接続」や「干渉管理」といった重要な発想を広め、その後の標準化や実装にも影響を与えた。一方で、LTEや5G NRの無線多元接続はOFDMAを中心に設計されており、方式そのものはCDMAとは異なる。
あなたの1日の中のCDMA
では、この技術が”あなたの1日”にどう関わっているか、追ってみよう。

朝7:00 – アラームとニュース
あなたのiPhoneのアラームが鳴る。ニュースアプリを開くと、最新記事がロードされる。その通信は、端末内のモデムと、基地局側の無線技術が支えている。CDMAが普及させた干渉管理や多元接続の発想は、その後のセルラー技術にも影響を与えてきた。
通勤8:30 – GPS
Google Mapsで経路検索。GPSは、スペクトラム拡散技術(CDMAの親戚)を使って、衛星からの微弱な信号を正確に受信している。
昼休み12:00 – SNSと動画
InstagramとTikTokをスクロール。YouTubeで動画を再生。これらのデータ通信は、4G LTEまたは5G NRで行われ、その根底にはCDMA思想の多元接続技術が流れている。
夕方18:00 – Zoom会議
リモートワークのZoom会議。低遅延・高品質な通信を支えているのは、LTE/5Gなどセルラー網の高度化(広帯域化、低遅延化、MIMO等)だ。
夜22:00 – Netflixで映画
寝る前にNetflixで映画を観る。4K HDRのストリーミングが途切れないのは、高速・大容量のモバイルネットワークのおかげ——その基盤を作ったのが、36年前の2月13日に認可された特許だった。
もしあの日、この特許が認可されなかったら?
もしこの特許がなかったら?
スマホの普及が10年遅れた
CDMAなしでは、周波数効率の低いTDMA/FDMAが主流のまま。ネットワーク容量が足りず、スマホの爆発的普及は困難だった。iPhone(2007年)、Android(2008年)の成功も、遅れたか、実現しなかったかもしれない。
SNS、YouTube、TikTokの不在
モバイルデータ通信が貧弱なままでは、Instagram(2010年)、TikTok(2016年)、YouTube Liveなどのサービスは成立しなかった。”スマホで動画を観る”文化そのものが、生まれなかったかもしれない。
GPS、Uber、配車アプリの不在
GPS自体はCDMAと独立だが、位置情報ベースのサービス(Uber、Google Maps、出前アプリ)は、高速モバイル通信が前提だった。CDMA特許がなければ、これらのサービスも遅れた。
5Gの不在、6Gの遅延
CDMA→WCDMA→LTE→5G NRという技術の系譜が断絶。5Gの低遅延・高速化も実現せず、自動運転、遠隔医療、スマートシティなどの”未来”も遠のいた。
つまり、1990年2月13日の特許認可は、”あなたの今日”を作った日だった。
ビジネスモデルとしての遺産——「特許という名の印税マシン」
Qualcommの「ライセンス帝国」
Qualcommは、CDMA技術を製品化するだけでなく、ライセンス化した。つまり、他社がCDMA技術を使うたびに、Qualcommにロイヤリティが入る仕組みを作った。
- 300社以上の企業とライセンス契約
- 累計180億台以上のデバイスが対象
- Qualcommは、創業以来のR&D投資を1100億ドル超としている。
- ライセンス事業(QTL)の売上は四半期で概ね15億ドル前後で推移している(年度により変動)。
この「特許→ライセンス→継続収益」モデルは、知的財産を武器にしたビジネスモデルの教科書となった。
“No License, No Chips” 戦略
Qualcommは、「ライセンス契約がなければチップを売らない」という強硬な戦略を取り、FTCは2017年に提訴し、2019年に地裁判断、2020年に控訴審で逆転判断となった。Appleとは2019年4月16日に訴訟取り下げとライセンス契約で合意した。しかしその過程で、特許が持つ巨大な価値と影響力が世界に知られることになった。
スタートアップへの教訓
Qualcommの成功は、スタートアップに重要な示唆を与える。
- 技術だけでなく、特許戦略を持て
- ライセンスモデルで継続収益を確保せよ
- R&Dへの徹底投資が、長期的な競争力を作る
36年前の2月13日、この「特許という名の印税マシン」が正式に動き始めた。
未来への継承——CDMAは6G衛星通信として”復活”する

CDMAは”死んでいない”
「CDMAは3Gで終わった古い技術」——そう思っている人も多い。しかし、CDMAの思想は5G、そして6Gへと受け継がれている。
- 5G NRは、OFDMAを中心に設計され、用途に応じて多様な無線技術(MIMO等)を組み合わせている。
- 6G研究では、CDMAの干渉制御技術が、衛星通信とのハイブリッド運用で再注目されている。
LEO衛星×CDMA
Starlinkなどの低軌道(LEO)衛星通信は、地上5Gネットワークと統合される時代が来る。そこで求められるのは、複数の衛星と地上局が”同時に”接続する多元接続技術——まさにCDMAの得意分野だ。
6G時代には、CDMAの思想が宇宙と地上をつなぐ技術として、新たな形で「復活」する可能性が高い。
中国の5G/6G SEP戦争
各種調査では、5G標準必須特許(SEP)の保有でHuaweiやQualcommなどが上位を争うとされる(集計手法により順位・件数は変動する)。1990年代にQualcommがCDMA特許で築いた「特許覇権」を、今度は中国が狙っている——36年前の2月13日に始まった”特許戦争”は、今も続いている。
2026年2月13日の意味
今日、2026年2月13日。
36年前のこの日、米国特許商標庁がUS Patent 4,901,307を認可した。それは、3人のエンジニアの”非常識な夢”が、世界に認められた瞬間だった。
そして今、あなたがこの記事を読んでいるそのスマートフォンは、36年前の2月13日に認可された特許の”直系の子孫”だ。
技術は、人を待たない。しかし、人がいなければ技術は生まれない。
1990年2月13日——その日が、あなたの”今日”を作った。
そしてこれから、6G、衛星通信、AI-RANの時代がやってくる。そのとき、私たちはまた「あの日」を思い出すだろう。“36年前の2月13日に、全てが始まった”と。
Information
【用語解説】
CDMA(Code Division Multiple Access / 符号分割多元接続)
同一周波数帯で複数のユーザーが同時に通信できる方式。各ユーザーに固有の符号を割り当て、信号を広帯域に拡散することで混信を抑制する。
スペクトラム拡散(Spread Spectrum)
信号を広い周波数帯に拡散する技術。傍受や妨害に強く、GPS、Wi-Fi、Bluetoothなどの基盤技術。
特許ライセンス(Patent Licensing)
特許権者が、他者に技術の使用権を許諾し、対価(ロイヤリティ)を得るビジネスモデル。Qualcommは「チップ販売」よりも「特許ライセンス」で継続的収益を確立した。
5G NR(Fifth Generation New Radio)
第5世代移動通信の無線技術。CDMAの思想を継承しつつ、OFDMAなどを採用。高速・低遅延・多接続を実現。
SEP(Standard Essential Patents / 標準必須特許)
通信規格の実装に不可欠な特許。5G SEP保有数では、HuaweiとQualcommが上位を占める。
LEO衛星(Low Earth Orbit / 低軌道衛星)
高度約180〜2,000kmの低軌道を周回する衛星。Starlinkなどが代表例で、6G時代には地上ネットワークと統合される見込み。
【参考リンク】
Qualcomm 公式サイト (外部)
CDMA技術開発の中心企業。5G/6G技術、Snapdragonチップ、特許ライセンス情報、IR資料などを公開。モバイル通信技術の最新動向を知るための第一級の情報源。
USPTO – 特許検索 (外部)
US Patent 4,901,307を含む米国特許の検索・閲覧が可能。公的データベースとして、特許の出願日、認可日、発明者、技術概要などを確認できる。
3GPP 公式サイト (外部)
WCDMA、LTE、5G NRなどの技術仕様書を無償公開。国際標準化プロセスの透明性を担保し、技術者・研究者向けに詳細な資料を提供。
IEEE Communications Society (外部)
通信技術分野の学術論文、カンファレンス、教育リソースを提供。CDMAや5G/6G研究の最前線を知るための専門コミュニティ。
【参考動画】
チャンネル: Qualcomm 公式
長さ: 2分42秒
創業者アーウィン・ジェイコブス博士が語る、Qualcomm創業とCDMA発明の瞬間。当時の苦労と確信が、短い映像の中に凝縮されている。
チャンネル: PCMag 公式
長さ: 2分02秒
CDMAとGSMの技術的違いを、一般ユーザー向けにわかりやすく解説。2G時代の”規格戦争”の背景が理解できる。
チャンネル: Qualcomm 公式
長さ: 3分01秒
Qualcommの5Gリーダーシップと、6G時代への展望を紹介。CDMAから続く技術の系譜が、どこへ向かうのかを示唆する動画。
【編集部後記】
「地味な特許」に見えたこの技術が、実は現代文明の最も重要な基盤の1つだと気づいた。朝起きてから寝るまで、私たちがスマホを触る全ての瞬間が、36年前のこの日に始まっていた。
魅力的に見えた情報でも、裏付けが取れなければ採用しない——その厳格さこそが、私たちの信頼の証だと信じている。





































