音を刻んだ日から、音楽は時を超えた
1877年12月6日、ニュージャージーの研究室で、トーマス・エジソンが錫箔シリンダーに向かって童謡を歌いました。「Mary had a little lamb」。針が溝を刻み、もう一度針が溝をなぞると、エジソン自身の声が機械から響きました。人類が初めて「時間を保存した」瞬間です。
この日、音は空気の振動から、物理的な形へと変わりました。声は喉を離れても消えず、音楽は演奏が終わっても残るようになった。死者の声さえ蘇らせる装置として、世界は驚愕しました。
それから150年。音を記録し再生する技術は、どのように進化してきたのでしょうか。
物理的な溝から電気信号へ
エジソンの蓄音機は極めてシンプルでした。回転する錫箔に音の振動を溝として刻み、針でなぞる。しかし錫箔はすぐに劣化し、実用性に欠けていました。1888年、エジソンは蝋管式蓄音機を開発。蝋の柔らかさが精密な刻印を可能にし、繰り返し再生できるようになりました。
一方、1887年、エミール・ベルリナーは平円盤式のグラモフォンを発明。シェラック樹脂の円盤レコードは大量生産に適しており、現代まで続くレコード産業の真の起点となりました。
19世紀末から20世紀前半、78回転のSPレコードが世界標準に。3〜4分という時間制限は楽曲の構造を決定づけました。今でも多くのポップソングが3〜4分なのは、この時代の名残です。
1925年、電気録音技術が実用化されます。マイクロフォンとアンプにより、音域が拡大し、音質が飛躍的に向上。オーケストラの響き、ヴァイオリンの繊細な音色が、初めて正確に記録できるようになりました。
1948年6月21日、コロムビアレコードが33 1/3回転のLPレコードを発表。片面約23分の収録時間は、ベートーヴェンの交響曲を途中で止めずに聴ける長さでした。翌年のRCAによる45回転EPレコードの登場で、アルバム文化とシングル文化の基盤が完成します。
1958年、ステレオレコードが実用化。左右の音の分離により、音の奥行きと空間が生まれました。
音楽が「持ち歩けるもの」になった日
1963年、フィリップス社がコンパクトカセットを発表。小型で扱いやすく、録音も可能。若者たちは好きな曲を集めた「ミックステープ」を作り、大切な人に渡しました。
1979年7月1日、ソニーがウォークマンを発売。音楽が初めて「持ち歩けるパーソナルな体験」となりました。通勤電車の中、公園の散歩、ジョギング中——あらゆる日常のシーンに音楽が寄り添うようになったのです。
1982年、ソニーとフィリップスが共同開発したCDが登場。デジタル技術により、理論上は永久に劣化しない音質を実現。74分という収録時間は、ベートーヴェンの第9交響曲が丸ごと収まるように設計されたと言われています。
1990年代、ソニーが開発したMD(ミニディスク)は、CDの音質とカセットの録音機能を併せ持っていました。特に日本では広く普及しましたが、世界市場では限定的でした。
所有からアクセスへ
1995年、MP3フォーマットが標準化。音楽がデジタルファイルになりました。2001年、スティーブ・ジョブズが「1000曲をポケットに」という言葉とともにiPodを発表。iTunes Store(2003年)により、楽曲の個別購入という新しいビジネスモデルが誕生します。
2006年、Spotifyが設立されました。月額定額制で数千万曲にアクセスできる——「所有」から「アクセス」への転換です。Apple Music、Amazon Music、YouTube Musicの参入により、ストリーミング市場は爆発的に成長しました。
2016年12月、Appleが完全ワイヤレスイヤホン「AirPods」を発売。左右独立型のイヤホンは、音楽リスニング体験を変えました。現在では、ノイズキャンセリング、外音取り込み、健康モニタリングなど、多彩な機能が搭載されています。
Bluetooth技術の進化により、aptX、LDAC、AACなどの高音質コーデックが開発され、ワイヤレスでも有線と遜色ない音質が実現しています。骨伝導イヤホンは、耳を塞がずに音楽を楽しめる新しい選択肢として、スポーツや業務用途で活用されています。
2010年代以降、CD品質を超える**ハイレゾ音源(24bit/96kHz以上)**が登場。Dolby AtmosやApple Spatial Audioにより、360度に広がる空間オーディオ体験が一般化しつつあります。
音を刻むという欲求
漫画『Dr.STONE』には、印象的なエピソードがあります。文明が崩壊した3700年後の世界で、主人公たちが発見するのは、石化直前の人類がガラス瓶の底に刻んだレコード。そこに記録された歌声が、文化を失った世界の人々の心を震わせます。
高度な技術が失われても、音を未来へ残したいという欲求は、最も原始的な物理記録の原理へと回帰する。それは人間にとって、音や文化がどれほど本質的なものかを示しているのかもしれません。
150年の問い
錫箔シリンダーの溝から、脳に直接音を届けるインプラント技術まで。量子通信、DNA音楽ストレージ、意識のデジタル化——SFのような技術が現実味を帯びつつあります。
2025年現在、私たちはバッハからK-POPまで、人類が生み出したあらゆる音楽に瞬時にアクセスできます。これほど豊かな音楽環境は、人類史上かつて存在しませんでした。
蓄音機の日である7月31日。エジソンが「Mary had a little lamb」を録音し、それが機械から蘇った時の驚き。私たちは形を変えながらも、同じ驚きを今も体験し続けています。
音楽を記録し、再生する——その技術は、何のために進化してきたのでしょうか。
Information
参考リンク
用語解説
蓄音機(フォノグラフ): 1877年にトーマス・エジソンが発明した、音声を物理的に記録・再生する世界初の実用的な装置。回転するシリンダーに音の振動を溝として刻み込み、針でなぞることで再生する。
SPレコード: Standard Playing recordの略。78回転で再生される、シェラック樹脂製の円盤レコード。1894年頃から1960年代まで使用された。片面約3〜4分の録音が可能。
LPレコード: Long Playing recordの略。33 1/3回転で再生される、塩化ビニール製の円盤レコード。1948年にコロムビアレコードが発表。片面約23分、両面で約46分の録音が可能。
ハイレゾ音源: CD品質(16bit/44.1kHz)を超える高解像度のデジタル音源。一般的には24bit/96kHz以上を指す。より細かい音の情報を記録できるため、原音に忠実な再生が可能とされる。
空間オーディオ: 従来のステレオを超え、360度方向から音が聞こえるような立体的な音響体験を提供する技術。Dolby AtmosやApple Spatial Audioなどが代表的。































