カシオ計算機は、ポータブルスタンドアロンサンプラー『SXC-1』を2026年5月28日に発売する。
予約開始は4月21日、価格はオープン価格である。1ショットやループ、効果音など208種類の音源を内蔵し、16個のパッドを搭載する。波形や状態を表示するOLEDディスプレイを備え、質量は315g(電池含まず)。USB給電および乾電池に対応し、eneloop4本使用で約2時間駆動する。マイクとスピーカーを内蔵し、外部機器なしで録音から再生まで完結する。
シーケンス機能、異なるテンポ(BPM)の音源を自動調整するBeat Sync機能、エフェクト機能を搭載する。1980年代に発売した電子キーボード「SK-1」「MT-40」を一部含むプリセット音源を収録。無料の専用スマートフォンアプリと連携し、楽曲や波形の編集、本体アップデートに対応する。
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初心者でも手軽に楽曲制作・演奏ができるサンプラー | CASIO
※アイキャッチはカシオ計算機公式プレスリリースより引用
【編集部解説】
カシオ計算機が『SXC-1』を発表したこのタイミングには、明確な戦略的意図が見て取れます。注目すべきは、カシオが2026年4月1日付で「サウンド・クリエーション事業部」を新設したという事実です。同事業部は、プロでなくとも誰もが発信者になれる「クリエイターエコノミー市場」に向けて製品とサービスを展開するために設けられたものであり、本製品はその象徴的な第一弾プロダクトと位置付けられます。
本機が初めて公の場に姿を見せたのは、2026年1月に米国で開催された世界最大級の楽器展示会「NAMMショー」でした。当時は試作機としての展示にとどまっていましたが、米『Gearnews』など海外の専門メディアが「NAMM初日のサプライズのひとつ」と報じるなど、注目を集めていました。
音楽史的な視点から見ると、本機はカシオが再びサンプラーを前面に打ち出した新製品として注目されます。1985年に発売された『SK-1』は、当時100ドル前後という破格の価格で「一般家庭にサンプリング技術を持ち込んだ画期的な製品」と評され、エレクトロニック音楽デュオのオウテカなどの電子音楽文脈でも言及されることのある名機です。カシオのサンプラー『FZ-1』も、1980年代後半以降のサンプリング機材の系譜を語るうえでしばしば名前が挙がるモデルです。今回プリセット収録元のひとつとして挙げられる『MT-40』は、その内蔵リズムが1985年の「Under Mi Sleng Teng」に用いられたことで知られ、デジタル・ダンスホール史を語る際にしばしば参照されるキーボードでもあります。SK-1とMT-40の音色を新機に内蔵した決定は、単なる懐古趣味ではなく、自社の音楽文化遺産をZ世代クリエイターに継承するという意識的な選択と解釈できます。
競争環境にも目を向けましょう。現在の小型サンプラー市場では、Teenage EngineeringのPO-33 K.O.やEP-133 K.O. II、ローランドのSP-404MKIIといった製品群が比較対象として挙がりやすいです。特にPO-33はメーカー自身が「世界で最も売れたサンプラー」と主張するほどで、この市場には明確な需要が存在します。カシオは16個の本格パッド、OLEDディスプレイ、スマートフォンアプリ連携を搭載した意欲作で、この競争領域に切り込んだ形です。
一方で、海外の専門メディアからは指摘もあります。米『Gearnews』は、ハードウェアMIDI端子が搭載されていない点と、連続駆動時間が約2時間にとどまる点を「残念な点」として挙げています。他のシンセサイザーやグルーヴボックスと連動させたセッションや、長時間のライブ運用を想定するユーザーにとっては、購入前に慎重に検討すべきポイントとなるでしょう。
【用語解説】
サンプラー
録音した音をパッドなどのボタンに割り当てて再生・加工できる電子楽器。1970年代末に登場し、ヒップホップやエレクトロニック音楽の発展に影響を与えた制作ツールである。
BPM(Beats Per Minute)
1分間あたりの拍数を示す、楽曲のテンポ単位だ。数値が大きいほど曲が速くなる。
Beat Sync(ビートシンク)
異なるテンポで録音された素材を自動的にマスターテンポへ同期させる機能のこと。ループ素材どうしを違和感なく重ねるために用いられる。
DAW(Digital Audio Workstation)
コンピューター上で楽曲を制作・編集・録音できる統合ソフトウェアの総称である。Logic Pro、Ableton Live、Pro Toolsなどが代表例。
NAMMショー(The NAMM Show)
米国の全米楽器商協会が毎年1月にカリフォルニア州アナハイムで開催する、世界最大級の楽器・音響機器の見本市。新製品発表の場として世界中の音楽業界関係者が集結する。
スレング・テング(Sleng Teng)
1985年にジャマイカで制作されたレゲエ楽曲『Under Mi Sleng Teng』の伴奏リズムを指す。デジタル・ダンスホール誕生の象徴とされている。
エイフェックス・ツイン(Aphex Twin)
英国の電子音楽家リチャード・D・ジェームスの主要活動名義である。1990年代以降のエレクトロニカ/IDMジャンルを代表するアーティスト。
【参考リンク】
カシオ計算機 SXC-1 製品ページ(外部)
SXC-1の公式製品ページ。仕様詳細や使い方動画、チュートリアル情報が公開されている。
カシオ 電子楽器ヒストリー『SK-1』公式解説(外部)
カシオ電子楽器事業40周年企画内で公開されている、1985年の名機『SK-1』の公式解説ページである。
The NAMM Show 公式サイト(外部)
本機が初披露された世界最大級の楽器・音響機器見本市「NAMM Show」の公式サイト。
Teenage Engineering PO-33 K.O. 製品ページ(外部)
SXC-1の競合製品と位置付けられる、スウェーデン発のポケット・サンプラー公式ページ。
【参考記事】
Casio SXC-1: The New Sampler Syncs Loops, But Will it Chop Them?(外部)
80バンク構成、SK-1・SK-5・CZ-101・MT-40由来のプリセット音源、参考価格¥39,930(約250ドル)、16bit/48kHz・64GBなどの詳細仕様を報じる最新記事。
カシオ、小型の音楽制作機器 レトロ音源好きな初心者向け(外部)
カシオが2026年4月1日付で新設した「サウンド・クリエーション事業部」と、本機が第一弾プロダクトである点を中川副事業部長のコメントとともに報道。
Casio’s SXC-1 Is a 315-Gram Sampler Pointed Directly at Teenage Engineering(外部)
本機をTeenage Engineeringが築いてきた美意識ラインへの正面参入と分析し、208音源と遺産継承の戦略性を評価する記事。
40 years after the SK-1, Casio is making waves with another fun-looking sampler(外部)
「SK-1から40年」という歴史的文脈で本機を位置付け、16bit/48kHz仕様、64GBメモリ、1.3インチOLEDなどの仕様に注目した取材記事。
Legacy of the Casio SK-1 Sampling Keyboard(外部)
当時のプロ向け高額サンプラー市場とSK-1の100ドル前後という価格を対比し、一般消費者にサンプリングを開放した歴史的意義を解説する長編記事。
Casio’s SX-C1 is a handheld sampler with a focus on fun(外部)
NAMM 2026会場でのプロトタイプ取材記事。「fun(楽しさ)」を強調する開発姿勢と、1.3インチOLED・Dパッド・8ビット風フォント等の意匠を報じている。
【関連記事】
ヤマハがAI音素材生成を検証、SEQTRAKアプリに統合へ。人間主導の創造性を支援する設計思想
NAMM 2026で発表された音楽制作機器という共通の文脈。ヤマハが「AI統合」を打ち出した一方、カシオは「原始的身体性への回帰」を打ち出す対比構造が浮かび上がる。
【Fender Studio】伝説のアンプがDAWに直結。AI技術で音楽制作の壁を打ち破るフェンダーの挑戦
伝統的楽器メーカーがクリエイター向けツールを刷新する構図が、今回のカシオ『SXC-1』と重なる一例。
生成AIと著作権の共存へ – Musical AIのアトリビューション技術が音楽業界を変える
AI時代の音源の帰属問題を論じた記事。今回取り上げた「レトロ音源のデジタル継承」というテーマとも間接的につながる視点を提供する。
【編集部後記】
AIが楽曲を丸ごと生成できる時代に、あえて「自分の手で録音し、パッドを叩く」という原始的な行為へと立ち戻るこの『SXC-1』は、私たちに静かな問いを投げかけているようにも感じられます。音楽制作は、もう一部の専門家だけのものではなくなりました。
街の音、家族の声、散歩で出会った鳥のさえずり——あなたの日常を構成する音は、どんな楽曲の素材になるでしょうか。テクノロジーの進化が、かえって私たち一人ひとりの「手触り」の価値を引き出してくれる。そんな現在地を、本機は教えてくれる1台なのかもしれません。











