インド政府、削除不可能な政府アプリ「Sanchar Saathi」を全端末にプリインストール義務化へ

[更新]2025年12月2日

 - innovaTopia - (イノベトピア)

インド政府は国内のすべてのスマートフォンメーカーに対し、政府アプリ「Sanchar Saathi」をすべての端末にインストールすることを要求する指令を発行した。メーカーには90日以内の実施が求められ、ユーザーによる削除は不可とされる。

このアプリはインド電気通信省(DoT)が開発し、Google PlayとAppleのApp Storeで提供されている。主な機能は、詐欺の疑いがある着信やメッセージ(WhatsAppを含む)の報告、+91国コードの着信電話の報告、端末の紛失・盗難時のブロック、IMEI番号の検索による端末の真贋確認である。

昨年の研究によると、インドのネットユーザーのほとんどが毎日3通以上の怪しい通信を受け取っている。アプリは通話記録とメッセージにアクセス可能で、詐欺報告時にDoTと情報を共有する。

Internet Freedom FoundationのApar Guptaは、強制ではなくアプリの改善に注力すべきだと批判している。スマートフォンメーカーは指令に対してまだ公式な反応を示していない。

From: 文献リンクIndia demands smartphone makers install a government app on every handset

【編集部解説】

インド政府が打ち出したこの指令は、単なる詐欺対策アプリの導入にとどまらず、デジタル主権と個人プライバシーの境界線を巡る21世紀的課題を象徴する事例として注目に値します。

2025年11月28日に発令されたこの指令により、スマートフォンメーカーは2026年2月26日までに「Sanchar Saathi」をすべての新規端末にプリインストールしなければなりません。既に流通している端末についても、ソフトウェアアップデートを通じた強制インストールが求められています。

Sanchar Saathiは2025年1月にモバイルアプリとしてローンチされ、すでに顕著な成果を上げています。政府発表によれば、70万台以上の紛失・盗難端末の回収、370万台の盗難端末のブロック、3000万件以上の不正モバイル接続の停止を実現しました。特に2025年10月だけで5万台の端末が回収されており、月次回復率は6月から10月にかけて47%増加しています。

このアプリの中核をなすのは、IMEI(International Mobile Equipment Identity)番号の一元管理システムです。IMEIは各端末固有の15桁の識別番号で、これを改ざんしたり複製したりする手口が、インドにおける詐欺や違法通信事業の温床となっていました。インドには12億以上のモバイル契約者がおり、巨大な中古端末市場も存在します。盗難端末の再販や、なりすまし通話による詐欺が深刻な社会問題となっていたのです。

しかし、この施策には重大なプライバシー上の懸念が伴います。Sanchar Saathiは通話記録やメッセージへのアクセス権限を持ち、ユーザーが詐欺を報告した際にこれらの情報を電気通信省と共有します。つまり、インド政府は間もなく数億台の端末上の個人情報にアクセスする手段を得ることになります。

Internet Freedom FoundationのApar Gupta氏は、「強制的にインストールさせるのではなく、アプリの改善に注力すべきだ」と批判しています。削除不可能な政府アプリの強制インストールは、同意なきデータ収集や監視への懸念を引き起こすのは当然でしょう。

特に注目すべきは、Appleがこの指令にどう対応するかです。同社は内部ポリシーとして、販売前の端末に政府や第三者のアプリをプリインストールすることを禁じています。実は、AppleとインドのTRAI(インド電気通信規制庁)は2017年から2018年にかけて、迷惑電話対策アプリ「DND(Do Not Disturb)」を巡って激しく対立した歴史があります。

当時、TRAIはユーザーの通話記録とメッセージログ全体にアクセスする権限を要求しましたが、Appleはこれをプライバシー侵害として拒否。TRAIのRS Sharma会長は「いかなる企業もユーザーデータの守護者になることは許されない」と述べ、Appleを「データ植民地主義」と非難しました。最終的に、2018年にAppleはiOS 12で制限付きのスパム報告機能を導入し、TRAIとの妥協点を見出しました。

今回の指令は、あの対立よりもはるかに強硬です。Appleはインド市場で約10%のシェアを持つに過ぎませんが、インドは世界第2位のスマートフォン市場であり、同社の成長戦略において極めて重要な位置を占めています。Counterpointのアナリストは、Appleが「強制プリインストールではなく、ユーザーにインストールを促す」という妥協案を模索する可能性を指摘しています。

興味深いのは、インド国民の反応が必ずしも否定的ではないという点です。インドではAadhar(デジタルID)やUPI(統一決済インターフェース)といった政府主導のデジタルサービスが日常生活に深く浸透しており、政府アプリへの抵抗感が他国より低いと考えられます。実際、多くのインドユーザーが詐欺対策の観点からこの施策を支持する声も見られます。

ロシアも2025年9月から、国産メッセンジャーアプリ「MAX」のプリインストールを義務化しており、インドはこうした流れに続く形となります。しかし、民主主義国家であるインドが取るこの措置は、より広範な影響を及ぼす可能性があります。

技術主権とユーザーの自律性、セキュリティとプライバシーの間でどのようなバランスを取るべきか。インドのこの実験は、デジタル時代における国家とテクノロジー企業の関係性を再定義する試金石となるでしょう。

【用語解説】

IMEI(International Mobile Equipment Identity)
各モバイル端末に割り当てられる15桁の固有識別番号。端末の製造元、モデル、シリアル番号などを特定でき、盗難端末の追跡やネットワークからのブロックに使用される。改ざんや複製が行われると、同一のIMEIが複数の端末で同時に使用される状況が生まれ、詐欺や違法通信の温床となる。

TRAI(Telecom Regulatory Authority of India / インド電気通信規制庁)
インドにおける電気通信サービスを規制・監督する独立規制機関。1997年に設立され、通信事業者の免許付与、料金規制、品質基準の設定、消費者保護などを担当する。2017〜2018年にAppleと迷惑電話対策アプリを巡って対立した歴史を持つ。

Aadhar(アーダール)
インド政府が運営する12桁の個人識別番号システム。2009年に開始され、生体認証(指紋、虹彩スキャン)と紐づけられた世界最大規模のデジタルIDシステムである。銀行口座開設、携帯電話契約、政府給付金の受給など、インドの日常生活に不可欠なインフラとなっている。

UPI(Unified Payments Interface / 統一決済インターフェース)
インド国立決済公社が開発したリアルタイム決済システム。2016年にローンチされ、銀行口座間での即座の送金を可能にする。スマートフォンアプリを通じて利用され、インドのデジタル決済革命を牽引している。

Internet Freedom Foundation
2016年に設立されたインドの非営利組織で、デジタル権利、オンラインの自由、プライバシー保護を擁護する。政府のインターネット規制やデータ保護政策に関する監視活動を行い、市民のデジタル権利を守るための法的支援や政策提言を実施している。

【参考リンク】

Sanchar Saathi公式サイト(外部)
インド電気通信省が運営する公式ポータル。IMEI確認、端末ブロック、詐欺報告などの機能を提供。

Sanchar Saathi – Google Play(外部)
Android版Sanchar Saathiアプリのダウンロードページ。1140万回以上のインストール実績を持つ。

Sanchar Saathi – App Store(外部)
iOS版Sanchar Saathiアプリのダウンロードページ。2025年1月にリリースされた最新版。

Department of Telecommunications(DoT)(外部)
インド電気通信省の公式サイト。通信政策、規制、デジタルインディア施策に関する情報を提供。

Internet Freedom Foundation(外部)
インドのデジタル権利保護団体。オンライン自由、プライバシー、データ保護に関する擁護活動を展開。

【参考記事】

India Orders Phone Makers to Pre-Install Sanchar Saathi App to Tackle Telecom Fraud(外部)
インド政府が90日以内にSanchar Saathiのプリインストールを義務化。ロシアも同様の措置を実施。

Government mandates pre installation of Sanchar Saathi app on all new smartphones(外部)
Apple、Samsung、Xiaomiなど主要メーカーに90日以内の対応を要求。Appleの内部ポリシーとの衝突を指摘。

India Orders Mandatory Pre-Installation of Sanchar Saathi App on New Smartphones(外部)
70万台以上の回収、370万台のブロック、3000万件の不正接続停止を達成したアプリの強制導入を報道。

India orders phone makers to pre-install state-owned web safety app: Report(外部)
2025年11月28日の指令を報道。Appleは過去にTRAIの迷惑電話対策アプリで対立した経緯がある。

Sanchar Saathi becomes compulsory on new phones(外部)
2026年1月28日以降の全端末にプリインストール必須。プライバシー擁護団体は同意なきデータ収集を懸念。

Apple avoids iPhone ban in India by approving regulator’s anti-spam app(外部)
2018年にAppleがTRAIの迷惑電話対策アプリを承認し対立を終結。iOS 12で妥協した歴史的経緯を解説。

TRAI’s anti-spam app removed from App Store(外部)
TRAIのDNDアプリが2021年にApp Storeから削除。2017年からのAppleとの対立の詳細を報道。

【編集部後記】

今回のインドの決定を、みなさんはどのように受け止められるでしょうか。セキュリティ強化のために個人の選択肢を制限することは、果たして正当化されるのか。私たち編集部も明確な答えを持っているわけではありません。ただ、この問題は決して遠い国の出来事ではなく、日本を含む世界中で起こりうる未来の姿かもしれません。政府主導のデジタルインフラが日常に溶け込んでいるインドだからこそ実現できた施策なのか、それとも民主主義国家における新たな標準となるのか。みなさんのご意見をぜひお聞かせいただければと思います。

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Satsuki
テクノロジーと民主主義、自由、人権の交差点で記事を執筆しています。 データドリブンな分析が信条。具体的な数字と事実で、技術の影響を可視化します。 しかし、データだけでは語りません。技術開発者の倫理的ジレンマ、被害者の痛み、政策決定者の責任——それぞれの立場への想像力を持ちながら、常に「人間の尊厳」を軸に据えて執筆しています。 日々勉強中です。謙虚に学び続けながら、皆さんと一緒に、テクノロジーと人間の共進化の道を探っていきたいと思います。

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