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Music×Tech #07「Mack the Knife」――壁を越えた歌声と電波の自由

 - innovaTopia - (イノベトピア)

ベルリンで、二度鳴った曲

1965年3月のある夜、東ベルリンのFriedrichstadt-Palast Music Hallは異様な熱気に包まれていました。18,000人の観客が、アメリカから来た一人のジャズマンを待っていました。Louis Armstrong、61歳。ベルリンの壁が築かれてから4年、冷戦の最前線で、彼は鉄のカーテンを越えた最初のアメリカ人ジャズ・エンターテイナーでした。

ステージに立ったArmstrongは、いつものしわがれ声で歌い始めます。「Oh, the shark has pretty teeth, dear…」”Mack the Knife”。東ドイツの観客の多くは、この曲のレコードを一枚も持っていませんでした。公式には存在しない音楽だったからです。それでも彼らは、ラジオの雑音越しに、この曲を知っていました。

皮肉なことに、この曲は37年前、同じベルリンで生まれていました。1928年8月31日、Theater am Schiffbauerdammで初演された「三文オペラ」の冒頭曲、「Die Moritat von Mackie Messer」。ベルリン生まれの曲が、アメリカを経由して、壁の向こう側の故郷へ帰ってきたのです。

二つの顔を持つ歌

1928年のベルリンは、崩壊の予感に満ちていました。Bertolt BrechtとKurt Weillが作り上げた「三文オペラ」は、資本主義社会の偽善を辛辣に描く作品でした。”Mackie Messer”は殺人犯の物語を、まるで民謡のように淡々と語ります。バレル・オルガンの伴奏、ドイツ語の鋭い子音、そして毒を含んだ諧謔。初演は400回以上の公演を重ね、ベルリンの富裕層は、自分たちを嘲笑する曲に拍手を送りました。

5年後、ヒトラーが政権を握ると、ブレヒトは亡命し、ユダヤ人だったWeillもアメリカへ逃れました。曲は「退廃芸術」として禁じられ、ベルリンから消えます。

それから27年後の1955年9月28日、ニューヨークのColumbia RecordsのスタジオでArmstrongがこの曲を録音しました。プロデューサーのGeorge Avakianが、オフブロードウェイで再演されていた「三文オペラ」を観て、「これはヒットする」と直感したのです。Marc Blitzsteinによる英語訳の歌詞は、ドイツ語の毒を薄め、代わりにスウィングのリズムを与えました。Armstrongのトランペットは柔らかく、ミュートをかけて。Billy Kyleのピアノはキラキラと。2ビートのベースとドラムが弾むように。「Dig, man, there goes Mack the Knife!」Armstrongは、殺人犯の物語を、まるで友人を紹介するかのように軽やかに歌いました。

1956年2月、この録音はBillboard Top 100で20位に達します。ドイツの反資本主義的な歌が、アメリカのポップチャートに入ったのです。

電波は、壁を知らない

その頃、東ドイツの人々は秘密を持っていました。夜になると、ラジオのダイヤルを西へ回すのです。

1946年2月7日、アメリカ占領地区に設立されたRIAS (Rundfunk im amerikanischen Sektor) は、東ドイツで最も人気のある「敵」の放送局でした。ニュース、音楽、そしてジャズ。東ドイツ政府はRIASを「反動的プロパガンダ」と非難し、1950年代から電波妨害装置を全土に配備しました。2キロワット、3キロワット、そして高出力のジャミング送信機が、西側の周波数に雑音を送り続けました。

しかし、電波は物理法則に従うだけです。政治的境界線を認識しません。大気の状態、時間帯、周波数によって、ジャミングが効かない瞬間が必ず訪れました。東ドイツのリスナーたちは、手作りの指向性アンテナを作り、雑音の隙間を探しました。公式には禁止され、時には罰せられることもありましたが、彼らは聴き続けました。

RIASから流れるArmstrongの”Mack the Knife”。彼らは、この曲がかつてベルリンで生まれたことを知っていたかもしれません。あるいは知らなかったかもしれません。重要だったのは、この音楽が壁を越えて届いていたという事実です。

帰還

1965年3月、Armstrongは東ベルリンで6日間、毎日2回の公演を行いました。Leipzigの巨大な見本市会場でも演奏しました。そして当然のように、”Mack the Knife”を歌いました。

記者会見で、西ドイツのジャーナリストがArmstrongに尋ねます。「ベルリンの壁について、どう思いますか?」Armstrongは答えました。「壁は見たよ。でも俺が心配してるのは壁じゃない。明日の夜、演奏する観客のことだ。コンサートホールに入ったら、他のことは全部忘れて、Satchmo(Armstrong自身の愛称)に集中してくれ」。そして付け加えます。「言いたいことは言えないけど、もし受け入れてくれるなら、そういうクソはみんな忘れてくれ」。

東ドイツ政府は、Armstrongの訪問を宣伝材料にしようとしました。「アメリカの人種差別に抗議する活動家」としての招待だったと公式には説明されています。実際、Armstrongは1957年にアーカンソー州の学校統合妨害事件に激怒し、「政府は地獄へ行け」と公言した人物でした。

しかし、Friedrichstadt-Palastで起きたのは、政治的メッセージの伝達ではありませんでした。音楽が鳴っただけです。1928年にベルリンで書かれた歌が、1955年にニューヨークで変容し、ラジオ電波に乗って壁を越え、そして1965年、生身の歌手によって故郷で歌われました。

この訪問の後、東ドイツでは予期せぬことが起きます。フリージャズのシーンが急速に広がり始めたのです。当局が意図したものとは全く違う形で。

技術の勝利

東ドイツは1978年、RIASへの電波妨害を正式に中止しました。理由は「外交的威信」でしたが、実のところ、ジャミングは効果がなかったのです。物理法則は、イデオロギーより強かった。

“Mack the Knife”は今も歌われています。Bobby Darinの1959年版が最も有名ですが、Louis Armstrongの1955年録音は、アメリカ議会図書館の「National Recording Registry」に登録されています。ベルリンで生まれ、ニューヨークで育ち、ベルリンへ帰った歌。

技術は音楽を運び、音楽は境界を無視しました。

電波は壁より速く、ジャミングより賢かったのです。


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関連リンク

用語解説

RIAS (Rundfunk im amerikanischen Sektor)
1946年にアメリカ占領地区ベルリンで設立されたラジオ放送局。冷戦期、東ドイツで最も人気のある西側メディアだった。

電波妨害(ジャミング)
特定の周波数に強力な雑音信号を送り、通信や放送を妨害する技術。東側諸国は西側放送に対して組織的に実施したが、技術的・外交的理由から限定的な効果しか得られなかった。

三文オペラ (Die Dreigroschenoper)
1928年にベルリンで初演されたBertolt BrechtとKurt Weillによる音楽劇。資本主義社会の偽善を風刺する作品で、ナチス政権下で「退廃芸術」として禁止された。

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Satsuki
テクノロジーと民主主義、自由、人権の交差点で記事を執筆しています。 データドリブンな分析が信条。具体的な数字と事実で、技術の影響を可視化します。 しかし、データだけでは語りません。技術開発者の倫理的ジレンマ、被害者の痛み、政策決定者の責任——それぞれの立場への想像力を持ちながら、常に「人間の尊厳」を軸に据えて執筆しています。 日々勉強中です。謙虚に学び続けながら、皆さんと一緒に、テクノロジーと人間の共進化の道を探っていきたいと思います。

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