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哲学者「宮村悠介」と対談:「人格ってどんなもの?」「今の時代に問われる人格と教養」-AI時代、移り行く社会で哲学は必要か

[更新]2026年2月5日

AIやテクノロジーが人間の在り方を問い直す現代において、あらためて注目を集めているのが哲学という基礎的学問です。

AIに「人格」はあるのか——。人間と同じようにふるまい、対話し、時には創造的な提案さえ行うAIが日常に溶け込む今、この問いはもはや思考実験の域を超えています。人格を持つかのような存在を人工的に作り出せてしまうという事実は、私たちの社会や倫理観にどのような変化をもたらすのでしょうか。そしてそもそも、私たちが日常的に使っている「人格」という言葉の意味を、私たちはどこまで理解しているのでしょうか。

今回、大正大学准教授の宮村悠介先生に、人格論が辿ってきた時代ごとの変遷と、テクノロジー時代の今こそ哲学的思考が必要になるのではないか。についてお話ししました。

宮村悠介(みやむら・ゆうすけ)

1982年生まれ。埼玉県出身。
東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻出身
博士(文学)。専門は倫理学・比較思想。
現在、大正大学文学部准教授。カント哲学を中心に、共同体論、人格論、和辻哲郎研究などを手がける。
主な著書に『カント「人倫の形而上学」の生成』(春風社)
訳書に、I・カント『人倫の形而上学 第二部 徳論の形而上学的原理』(岩波文庫、2024年)、G・クリューガー『カントの批判における哲学と道徳』(月曜社、2024年))
共著に『現代哲学の名著』『日本哲学小史』『近代哲学の名著』『和辻哲郎の人文学』(ナカニシヤ出版、2021年)、『ACPの考え方と実践 エンドオブライフ・ケアの臨床倫理』(東京大学出版会、2024年)などがある。

宮村先生はゼミでもカントを扱っているらしく、私自身も美学と倫理学からもカントの哲学には非常に関心があるので、読んでみようと思っています。(積読が増える……

普段ゼミを行っている教室には、ニーチェやタレスのポップが展示されていました。学生がオープンキャンパスの時に作ったものらしく、部屋に入るなり目に入ってクスっ笑ってしまいました。

どんな研究をされているの?

野村「本日はよろしくお願いします。innovatopiaの野村です」

宮村「よろしくお願いします。大正大学文学部准教授の宮村です」

野村「宮村先生は、人格について研究をされていますね。研究をするきっかけや、どうして人格の研究というものをされているのかを教えてください」

宮村「人格というテーマを通じて、人間というテーマについて研究したかった。というのがあります。カントの哲学の根本は『人間とは何か』問いなのですが、それでは広すぎるので人格に焦点を絞って、人間とは何かに応えていきたい。と考えています」

野村「宮村先生はどのようにして人格の研究へと関心が向かっていったのですか?」

宮村「2011年に大学の講義で『人格』を扱ってから15年ぐらい人格についての哲学は授業のテーマとして、とりわけ近現代哲学史をめぐる議論で便利な切り口だと考えて、今は研究の文脈で人格の問題を扱っています」

人格って結局何?哲学者はどう考えていたの?

人格ってどういう意味?
野村
「人格と聞くと、例えばSF小説でたびたび話題になる『AIに人格があるのか?』という話や、例えば人との関わりの中で主に上司や目上の方から『お前の人格に問題がある』と言われたり、そういう場面で使われる言葉ですが、『人格があるのか』、『人格に問題がある』、と言われても肝心の人格というものはどういう意味なのか?と問われるとなかなか難しいですね。昔の哲学者たちはどのように、人格というものを解釈していたのですか?」

宮村「この問題の肝は、人格という言葉を日本語で考えても答えは出ないということです。日本が西洋文化と関りを持つようになって、『不動産』とか『権利』とか『義務』とか、明治時代にヨーロッパの言葉の翻訳の中で作られた言葉です。なので、日本語の中だけで考えても答え探しは難しいでしょう。『人格』は英語だと『person』、フランス語なら『personne』といった具合です。これは『persona(ペルソナ)』というラテン語を語源にしています。ペルソナとは元々は『仮面』という意味です」

宮村「その意味が転じて『仮面』→『役柄』→『役者』となって、それが『人格』という言葉になったというわけです。例えば、家族にしてもそうですね。私たちは父親もしくは子どもという役柄をこの中で演じていて、今の状況もそうです。私は大正大学の教員として、野村さんは記者として役割を演じながら、ここにいるわけです。例えば、ホッブスは『人格とは役者』だと言っていました。人格の問題の肝はここですね。元々は『仮面』という意味だったというのが大切です」

野村「そうなんですね。確かに私は今『会社員』の仮面をかぶっていますね。友人と話すように宮村先生とお話しているわけではありません。『本当の自分』って言葉がありますね。人格と言われると、例えば『人格否定』という言葉がありますが、人格否定と言われると自分の根本を否定される体験のような印象を持っていたので、人格という言葉からも『人間のコア』のような部分を想定していましたが、どちらかと言えば、元々は役柄のようなエクスターナルなものだったんですね」

宮村「ここまでの話なら、そうなりますね。ただ近代以降は野村さんのような考えになっていきました、もっと複雑なことを言えば、中世でも意見が分かれていて、ボエティウスがそうでしたが、『人格』を『個別的な実体』と考える人もいれば、関係の中で立ち現れる仮面であると考える場合もありました。ここで人格の歴史についてお伝えします」

「人格」という言葉の歴史

宮村さんがインタビューの際に内容をホワイトボードにまとめてくださりました。

中世の人格論:人格という言葉はそもそもどこから?
宮村
もともとは、人格としての『ペルソナ』という言葉はキリスト教理の中からきています。ペルソナというのは元々は大した言葉じゃなかったんです。先ほどもお話ししましたが、ペルソナという言葉は、人によって相反する定義をされました。アウグスティヌスは『神というのが『父・子・精霊』というペルソナがあるということから、『ペルソナは関係』であると考えました』。しかし、ボエティウスという別の人もペルソナについて『理性的な本性を持つ個的な実体』と相反する解釈をしていました。ボエティウスは野村さんが言っていた『実体』のようなものを想定していました。そこからアウグスティヌスのような『ペルソナとは関係だ』という立場がのちに、和辻哲郎やレーヴィットに受け継がれて、ボエティウスの『人格は実体的なもの』という立場がカントやロックに受け継がれていったという歴史があります。(上画像参照)」

野村「アウグスティヌスがいうには、他人との関係自体がペルソナ、つまり人格であると考えているのですね。個人の核のようなものを人格だと考えているのはボエティウスの系譜だったんですね。ボエティウスはどんな方でどの様に、この考えに至ったのですか?」

宮村「ボエティウスは政治家でもあったのですが、ギリシアの論理学をラテン世界に移した功績がある人です。その傍ら、ボエティウスは神学に関する論文を書いていました。ボエティウスは、『キリストは神と人間の二つの本性を持っている。だがひとつのペルソナである。しかし、石や木や動物はペルソナを持っていなくて、人間の様に理性的で個的なものは人格が宿っているんだ』。と考えていました。」

宮村「実は中世と近代の間に、トマス・アクイナスという大物がいるのですが、今回は省略してここからは近代の話をしていきます。トマス・アクイナスは『神の場合は関係自体がモノのように存在している』と考えていました。話の本筋にはあまり関係ないですが、彼は『関係』と『実体』という二つの相反する概念を止揚しようと試みたわけですね」

近代の人格論:人格は実体?
野村「しばらく時代を経て、近代に入り、ロックとカントの時代になっていくんですね。ロックはイギリス経験論で有名ですね。『ダブラ・ラサ』つまり人間は白紙の状態で生まれてくるということを知っている人が多いのではないでしょうか。カントは高校でも倫理や現社の科目の中で扱います。この二人はどうやって人格の人格の議論を進めていったのですか」

宮村「ロックは『意識 (consciousness)』というものを考えました。ここでの意識というのは、異性を意識する。という意味での意識ではなく、意識不明の重体のような意味での意識です。ロックは『意識というものがある限り人格の統一が成り立つ』と考えていました。自分が昨日とか一年前に何をしているのかがわかっている限り人格の統一性が成り立つ。というわけです。これが人格の古典的な定義になります

野村「ロックは、連続性や持続性によって人格を担保しようと考えていたんですね。ボエティウスの言う「実体」にそう言われれば近い概念ですね。カントはどのように人格について考えていたのですか?」

宮村カントは、『手段として人格を扱ってはいけない、それはそれ自体を目的にするべき』だと言いました。だからカントは例えば自殺について、『自殺というのは人格を生きていて辛くない生活を送る手段として人格を見ていて、それは例えば、『洗えなくなったスポンジ』や『書けなくなったペン』の様にいらなくなったから捨てるということになるからいけないことなんだ』と言いました。また、偽証について『他者に返せもしないのに、嘘の約束をしてお金を借りることを他者をお金を引き出す手段として使っている』からいけない』と言っていました。人格を何かをするための手段にするのはNGという風に考えたのです」

野村「カントの人格は『それ自体』として扱うべきだ。という言葉には、人格は尊いものだという前提が存在すると思うのですが、なぜカントは人格は尊いものだと考えていたのですか?」

宮村「そうですね。それについては、カントは『人間は快楽に流れてしまうような傾向性に従わず、自分を律して道徳に従う能力があるから』という部分を論拠にしていました。それがカントにとって尊いことだったのです。石や馬は道徳的にふるまうことはできませからね」

宮村「カントの考え方は近代日本哲学にも脈々と受け継がれていきました。近代哲学を考えるにしても、やはり、『カントに何かしらの応答を示さないとならない』ぐらいの存在です。人格論の観点からもカント以後は『カントの人格論を批判するのか賛成するのか、何かしらの態度表明はしないと人格について論じられない』存在になっています

カント以後の人格論:人格は間柄?

大正大学のゼミ室の風景:学生の作ったポップやゼミの当番が書いてあり少し学生時代を思い出しました。

野村「カント以後は、『カントを受け継ぐ側』、『カントを批判する側』に別れていったという話でしたが、レーヴィットはどのような応答をしましたか?」

宮村「カントの人格論を受け継いでいました。レーヴィットは自分の師匠であるハイデガーを批判するという形でカント擁護行っています。ハイデガーは自分自身の存在に関わる『現存在(Dasein)』の構造があるのですがそれを批判しました。ハイデガーの思想では他者との関係が表に出てこない、レーヴィットは役割というものにこだわって他者との関係の中にいる個人というのを論じたかったので、ハイデガーの孤立している人間の像を批判する、という形で自分の師匠に応答しました。カントの人格はもっと他者を尊重し合ったり、人間同士の相互作用があったのことからもカントを擁護しました。」

宮村「レーヴィットは、役割を演じている。学生との間では教師、家族という中では父親、そういう役割を演じるのが人間なんだと言ってハイデガーを克服しようとしました。『ペルソナというのは間柄なんだよ』という発想です」

野村「和辻哲郎さんはどんな方なんですか?」

宮村「和辻さんは、『人格』ではなくて『資格』という言葉を使いました。レーヴィットの人格というもののことを彼はそういいました。彼の言う『資格』は『ペルソナ』と同じ意味であることは読めば明らかなのですが。和辻さんの人間の定義は『間柄的存在』でした。人間は個人である上でさらにで他者なんだと言いました。私は、個人でもあり、例えば私で言えば、大正大学の教員なんだということですね。『人間というのは個人性と社会性の二つを持っている。そういう存在なんだ』と言いました

野村「私という個人は私自身であり、そして、今この場ではinnovaTopiaの記者でもある。そういうことですね」

宮村「そうですね。ここで『人倫的組織』という言葉があります。和辻さんは『家族』から始まって『文化的共同体』、そして最後は『国家』と関係が重なっていき、人格というものはそういった共同体の重層的なものとして統合されている。と、和辻さんは考えました。劇団という全体があるから、舞台の上で踊るという役割がある。一人で踊っていたら変な人。和辻さんは人格という言葉について『個々だけを見ようとすると足りないんだ』ということを批判しました

野村「つまり、家族でもあり国家の一員、会社の一員、そういうものが平面ではなくて積み重なって人格ってできているんですね。『私』というのは、重層的な存在の中の一つとして存在するんですね。例えば『2』は偶数であり素数ですけれども、偶数の『2』や素数の『2』が独立して存在するわけじゃなくて、『2』はそれ自体として一つだよって感じですかね

野村「ここまで人格について様々な解釈が歴史の中でされてきた中で、一番宮村さん的にしっくりきた、議論は誰の議論でしたか?」

宮村「レーヴィットですかね。私も人格はどちらかと言えば関係が基盤だと感じます。人格という言葉を現象学的にリヴァイヴァルさせた功績が大きいなと思います。人格というテーマに新しい光を当てた人物だなと感じます」

結局僕たちは孤独?
野村
「例えばですが、『こんな場所じゃ自分を出せない』とか、『こんなのは、本当の自分じゃない!』という主張をする若者を、小説やドラマでもよく見るような気ばします。しかし人間の人格が間柄で決まるとしたら、私自身が無視することのできない一人の時の自分、若者っぽい言い方をすると「本当の自分」ってあるんですか?劇団がなくなっても、演者までもが劇団と共になくなるわけではない気がするのです」

宮村「そうですね。シェーラーがそれについては論じています。20世紀の哲学者なのですが、彼は『私たちは社会的なペルソナと同時に、自分だけの自分がいるんだ』と言っていましたね。それを「秘奥人格」と呼んでいました。シェーラーはハイデガーの兄弟子でした。社会的なペルソナの背後に、そういうものがあるんじゃないか、そのうえで僕たちは孤独なんじゃないか。とシェーラーは考えました。例えば、今日はクリスマスですがリア充も一人で過ごしている人も、仮面に入りきらない孤独な自分がいるんだってことですね(インタビュー当日はクリスマスでした……)。言ってしまうと社会的にはさらけ出せないものがあるんじゃないかということです。彼の思想にはカトリックの方だったりニーチェとキルケゴールの影響もあると思います。授業で話すとウケがいいですね。どこか皆さん『本当の自分』がいるという感覚があるのだと思います」

野村「僕もシェーラーの感覚は非常に共感します。どうしても本当の自分がいたりしそうな気がしてしまいます。『自分探し』なんて言葉が正にその欲求の表れだなと思います」

宮村シェーラーは『人間が人格である以上孤独は取り除けない。どんなに愛する人でもどんなに親しい人でもどんなに社会がよくなろうと孤独は人格としての人間からは無くすことはできないんだ』と言っていました。最終的には彼は教会の中で全ての人格は連帯する。つまり、教会で神と向き合って秘奥人格を神に開くしかないとシェーラーは言っていましたが、ただ人には開けないですね」

AI・教育・人格

生命倫理と人格論:お腹の中の赤ちゃんは「人格」?
野村
「今までのお話を伺って『確かに、日本語でとらえていたら人格ってわからないですが、ペルソナという形なら色々説明できそう』という気がしてきましたね。現代において人格が問題になる場合ってどういう場合ですか?この議論はどのような場面で用いられるのでしょうか?」

宮村「生命倫理学という分野があります。その中のパーソン論が重たる例ですね。例えば『妊婦の腹にいる赤ちゃんは人格なのか』という話です。お腹の中の赤ちゃんはさっきの話ですと、ロック曰く『意識らしきものを持ってない』ので中絶は合法でよさそう。そういう議論があった時期があります。最近は、動物とAIが人格の問題の境界になります。ペットは家族の一員ですし、人格=関係というさっきの図式から見ると、そんなに人格として扱っても不自然ではなさそうですよね。でも、ペットは法律では物件として扱われていました。レーヴィットや和辻に言わせればペットを『家族』と呼ぶことがある以上、そこには家族のような相互関係があるということは、ペットも人格と呼んでもいいのではないか、でもカントは違う。となってきますね。

野村「確かにペットを迎え入れることを『新しい家族が増えた』と表現する方もいますし、『人格=関係』という話なら人格として扱う必要がありそうですね」

宮村これからはAIやロボットが人格の境界になります。意識とか理性とか言ってもそれは測定できる代物では今はありません、だけど、人格というものを『人格=関係』モデルで考えると、家族の一員としてロボットやAIがふるまって間柄が成り立つならAIとかロボットも人格的な存在を持つということも考えられるかもしれません。まだ何とも言えないですが。現在進行形の課題です。」

野村「例えばさっきの話ですが、妊婦の中絶の場合ですと、『人格=関係』モデルで考えると、お腹の中にいる時点でお腹を蹴ったり母親が自分の子がお腹にいることを念頭にふるまいます。母親と人倫的組織を結んでそうですし、立場の取り方で人格の扱いも変わりそうですね」

宮村「そうなると、今度は望まない妊娠の扱いが難しくなる。『人格=関係』モデルだけでも説明が難しいことが出てきますね。レーヴィットは相互承認というものを考えていました。カントのお互いを目的として尊重し合うの大事なんだという発想からきた考え方です。何にしても難しい問題です」

ゼミ室内で宮村先生のお話を伺いました。学生とのディスカッションを行うのに主に使われるらしく、中もロールズからギリシア哲学まで様々な書籍がありました。(写真:宮村悠介准教授)

ロボットと人格論:ドラえもんは人格?
野村
「僕はチャットGPTに悩み相談を定期的にするのですが、生活の中の問題をAIに打ち明ける中で、こう応答してくるだろうなと思いながらプロンプトを変えるような、人間関係の中で行っている意思疎通のための努力をAIを相手にしている瞬間があります。もしもの話、『AIは人格』というところから派生して『AIは人権を持つ』ということはあると思いますか?

宮村「ロボットというものを考えると、例えば、鉄腕アトム、ドラえもんのような存在。ああいうものが生まれたときに人格の問題にはなると思います」

野村「確かに、ドラえもんは野比家でも家族のようにふるまい、ジャイアンやスネ夫たちと遊んで人倫的組織を結んでいるような気がします。鉄腕アトムもそうですね。コミュニケーションを人間と行い、問題解決に向けて博士と会話をするシーンがあります。明らかに人格を結んでいるように見えますね。」

野村「こうなってきますと、ドラえもんのような存在が世の中に現れた時、『AIに人格があるんだよ。だから、AIには人権があるんだよ』そう国と制度が変わらないといけない。しかし、ロボットの語源はチェコ語で「苦役」を意味する「robota」から来ていますよね。生まれからして、労働のための手段です。カントは、人格は手段ではなく目的として扱うべきだ。と言いましたがロボットは生まれからして、カント流に扱うことができない。そういう矛盾が生まれてくるかもしれません」

宮村今は『人間=人格』ですけど、AIや動物、そういうものも人間と同じような権利を与える。AIのような人格を私たちが作れるとなると。AIに対しては製造責任というものが問われそうです。例えば子どもは作ったら終わりではないですね。もっと言えば、介護用ロボットは人間の労働負担を減らすために作られた。でも、介護従事者は介護のために作られた存在ではない。そこが介護従事者と介護ロボットの違いですね。介護ロボットが人格や意識を備えたらどうなるんだろうというところですね。『介護のためという手段から生まれた存在』が『目的それ自体』になったら、保険とか休暇とか必要なのかなという議論になりそうです」

人格論の魅力、教育、なぜ人は哲学をするの?
野村
「今まで人格の研究をしてきてる中で、人格をめぐる議論や哲学はどのような点で面白いと感じましたか?また、最初にお話しされていた『人間とは何か』について宮村先生自身が研究の中で分かったことはありますか」

宮村一番は、人間って複雑な存在だなということです。人間が矛盾しているように、人格も矛盾している。『間柄』でもあり『実体』でもある。『仮面』でもあり『絶対に孤独』でもある。そういうねじれが面白いですね。『ペルソナ』でもあり『秘奥人格』でもあり、ダイナミックな存在である。人間と同じで人格の研究自体もいろんな矛盾をはらんでいる。これが魅力ですね」

野村「宮村先生は大学教員ですね。研究者でもあり教育者でもあります。例えば、教育基本法制定の要旨では『人格の完成』が掲げられています。宮村先生が教育者として学生の人格を育てるうえで考えていることはありますか?」

宮村まず、外側からは人格は形成できないですね。内側の『綺麗なものを見たい』、『学びたい』という気持ち。内からの衝動に従って芸術鑑賞や読書をする。それが人間のような気がします。教師にできることと言えば、『内的な衝動を促す。もっとそれを強める。』ではないでしょうか。人格はロボットではないので、外部から人格を作ることはできない。それぞれが自分のやりたいように己を伸ばすことしか人格は育めないと思います。また、倫理というのは人格の尊重です。他者の人格を尊重をすることは教えないといけないですね。ハラスメントは人格を傷つける存在ですね。それはいけないということを、何がハラスメントにあたるのかを考える思慮を、道徳教育として教える必要はあるのかなと思います」

野村「どこのCMとは言わないですが。『やる気スイッチ』を押すのが教育者の役割かもしれませんね。行動を強制することは相手が人格である以上できないですね。宮村先生は倫理学の教員ですね。哲学を教えるうえで学生に対してどのようになってほしいという願いや、促していること、もっと言えば学んだ学生がどのように育ってほしいという気持ちはありますか?

宮村「哲学は実学というよりも教養の色が強い学問です。例えば哲学や歴史を含めて様々な教養を深めてほしいなと思います。ここでの教養というのは、人格の形成に役立つもの、例えば音楽美術もそうですし、文学思想もそうです。直接飯のタネにならないけど人格を深くしてくれるものが教養なのかなと思います

宮村「人間として知識や感性の幅を広げる。例えば何か問題にあたったり、何か感じたときに『プラトンとかカントがこんなことを言っていたなあ……』と思ってくれたら嬉しいなと思いますね。困った時どうしようもない時に、哲学は色々な考え方が何千年も蓄えられています。引き出しを増やすという意味でも教養を持つことは良いのではないかと思います」

野村哲学は自分を救ってくれる言葉の書棚を増やすという意味で確かに意味があるのではないかと思いますね。僕も哲学を学ぶ中で、様々な考え方のフォーマットを知っていることは知らないところで役になっているなと感じることがあります」

宮村「そうですね。ふと、昔読んだ本を困った時にひも解くと少し心の支えになることが私にもあります。」

宮村「また、文化の継承の役割を哲学者は果たしています。それを未来の人につないでいく役回りです。そういうのは大学がないとできないですね。哲学は諸学の根源なので、先ほどお話ししたロボットやAIが人格を持つような話の様に、今まで私たちがなんとなく、もしくは、当たり前に受け入れてきた概念が揺るがされることがあります。根本的なことを考え直さないとならないとなると過去の言葉や考え方に頼る必要がある。そういうときのために哲学は常に待ち構えていると思います」

野村「哲学はいろんな言葉の図書館で、地盤が揺らされたときに最後の安全基地の様に存在するんですね」

宮村先生の推薦図書

野村「これから哲学を学ぶ高校生や大学生に読んでほしい本やおすすめの本はありますか?さっき哲学は『書棚』のようなものという話をして聞きたくなってしまいました」

宮村「そうですね。アウグスティヌス『告白』が面白いですね。山田晶の中公文庫の訳が非常に良いです。高校生は自伝を授業で読むと思うのですが、自伝にはアウグスティヌスが回心するまでについて書かれています。ほかにも、時間と記憶について、この後で創世記の解釈へと流れていきます。三位一体論の議論のたたき台が書かれています。非常に面白いです」

野村「アウグスティヌスは聞いたことがあります。とても奔放な方であるという風説が有名ですね」

宮村「それなのですが、実は現代の水準からすると大したことはしていません。身分の違いがあって結婚できない人と同棲していたぐらいですね。彼は修辞学の講師というエリート職についていました。今でいうと東大を出て国家官僚である。そういう方ですね。奔放なエピソードが多く語られますが。アウグスティヌスは恋人がいるうちは浮気とかは全くしていません」

野村「現代の価値基準だと、『身分の違いを顧みずに共に暮らして、しかもその間浮気をしない』というのはかなり誠実に思えますね」

宮村「結局アウグスティヌスは親に『結婚しなさい!』と言われて同棲していた女性と別れました。しかし、結婚相手が幼かったので、アウグスティヌスは我慢できなくて結局ほかの女性に浮気するのですがまあ……僕もこれは擁護できないです。でも、本当にドン・ファンのようなイメージを持たれる方もいますが、そこまでではなかったんです」

野村「うーん。これもペルソナなんですかね。幼い結婚相手の前に立ったアウグスティヌスのペルソナと同棲生活中のアウグスティヌスのペルソナは違いますからね」

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野村貴之
大学院を修了してからも細々と研究をさせていただいております。理学が専攻ですが、哲学や西洋美術が好きです。日本量子コンピューティング協会にて量子エンジニア認定試験の解説記事の執筆とかしています。寄稿や出版のお問い合わせはinnovaTopiaのお問い合わせフォームからお願いします(大歓迎です)。

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