「戻る」ボタン以前のWebにあったもの
1991年2月26日。スイス、ジュネーブにあるCERN(欧州原子核研究機構)の一室で、一台の黒い立方体のコンピュータ「NeXTcube」の画面に、歴史を塗り替えるソフトウェアが映し出された。ティム・バーナーズ=リーが開発した、世界初のWebブラウザ「WorldWideWeb」である。
現代の私たちが使うChromeやSafariは、情報の「閲覧」に特化したテレビのような存在だ。しかし、35年前にティムがデモンストレーションしたそのプロトタイプには、今のブラウザが失ってしまった決定的な機能が備わっていた。それは、表示されているページをその場で書き換え、リンクを編み直すことができる「エディタ(編集)」機能である。
ティムが1989年に執筆した草案『Information Management: A Proposal』に添えられた概念図(当時最新のコンピュータで描かれたもの)が示す通り、Webは当初、情報の消費地ではなく、人類が知を共同で編み上げる「工房」として設計されていた。
閲覧特化への分岐点:なぜ「エディタ」は消えたのか
Webが爆発的に普及する過程で、ブラウザはその姿を劇的に変えた。その分岐点は1993年、画像表示を可能にした「Mosaic」の登場にある。
| 年代 | ブラウザの役割 | 主な特徴 | 変化の理由 |
| 1991 (WorldWideWeb) | Read / Write | 閲覧と編集が一体。誰もがリンクを生成できた。 | 専門家同士の「知の共有」が目的。 |
| 1993 (Mosaic以降) | Read Only | 閲覧の快適性が向上。一般層へ爆発的に普及。 | メディア化による「情報の非対称性」の発生。 |
| 2000s (Web 2.0期) | Interactive | SNSでの「投稿」が可能に。 | プラットフォームによるユーザー囲い込み。 |
| 2020s (Modern Web) | Collaborative | Notion/Figma等、ブラウザ内で「共創」が復活。 | 35年前の「ティムの理想」への回帰。 |
商業化された「Web 1.0(閲覧中心の時代)」以前のWebは、もっと自由で、誰もがページを編纂できるツールだった。Mosaic以降、Webが「メディア」としての道を歩む中で、専門知識のないユーザーから「書き換える権利」が失われていったのである。
【コラム:NeXTSTEPの遺伝子 ── 35年前の「未来」】
世界初のWebブラウザが誕生したプラットフォーム、それがスティーブ・ジョブズの生んだNeXTSTEPである。このOSには、現代の私たちが「最新」と感じるUXの原型がすでに備わっていた。
- 「Dock」と直感的UI: 画面端にアプリを並べる「Dock」や、ドラッグ&ドロップによるオブジェクト操作。これらは後にAppleに引き継がれ、現在のmacOSやiPadOSのマルチタスクUIの直系となった。
- オブジェクト指向の魔法: 開発者はコードを最小限に抑え、ボタンやウィンドウをパズルのように配置できた。ティムがわずか数ヶ月でWebブラウザを完成させられたのは、この驚異的な生産性のおかげである。
- 「戻る」ボタンがない空間: 初代ブラウザには「戻る」ボタンがなく、リンクを開くたびに新しいウィンドウが展開された。これは情報を一方向の「流れ」ではなく、複数の文脈(コンテキスト)が並置される「空間」として捉えていた証左であり、iPadOSのステージマネージャの思想にも通じている。
未来予測:AIが「最後のエディタ」になる
現在、私たちは35年ぶりにWebの原点へ回帰しようとしている。
NotionやCanvas(ChatGPT)のようなツールは、ブラウザを再び「エディタ」へと作り替えている。さらにAIエージェントの登場は、この動きを加速させるだろう。
ユーザーが「このページをこう書き換えて」と命じれば、AIがリアルタイムでHTMLを生成・修正する。これは、ティム・バーナーズ=リーが1991年に手動で行っていた「情報のリンクと編纂」を、AIが自動化する世界である。
Webの「次」は、Webの「最初」にある
2月26日は、私たちが「情報の消費者」という枠組みに固定される前の、自由なインターネットの設計図が示された日だ。現代のイノベーションは、新しい技術の開発というよりも、35年前に提示されていた「知性は繋がることで増幅される」というシンプルな理想の、最新技術による再実装であると言える。
【用語解説】
ハイパーテキスト
文書の中に別の文書への参照(リンク)を埋め込み、複数の情報を網目状に関連付ける仕組み。
WYSIWYG(ウィジウィグ)
編集画面と出力結果が一致するインターフェース。初代ブラウザはこの方式で、見たままにWebを編集できた。
オブジェクト指向
プログラムを「操作の対象(オブジェクト)」の集まりとして捉える考え方。NeXTSTEPはこの設計を徹底しており、直感的な開発を可能にしていた。
Read/Write Web
情報を閲覧(Read)するだけでなく、誰もが自由に書き込み(Write)や更新ができるWebの理想的な形態。
分散型プロトコル
特定の巨大企業にデータを集約させず、複数のサーバーやユーザー間で自律的に情報をやり取りする通信規格。
【参考リンク】
CERN – The birth of the Web
世界初のWebサイトやブラウザが誕生した場所、CERNによる公式解説ページ。当時のNeXTコンピュータの画像や、ティム・バーナーズ=リーの当初の提案書を閲覧できる。
W3C – WorldWideWeb: First Browser
ティム・バーナーズ=リーが創設したWeb標準化団体W3Cによる、初代ブラウザの紹介ページ。開発の背景や機能の詳細が記録されている。
Notion
ドキュメント作成やデータベースを一つのキャンバスで統合したツール。「ブラウザ上で情報を編み直す」という現代の共創型Webを代表するサービスである。
Figma
ブラウザ上でリアルタイムに共同編集が可能なデザインプラットフォーム。複数人で同時に「作る」体験を提供し、Webブラウザを高度な制作環境へと進化させた。
The AT Protocol (Bluesky)
SNS「Bluesky」の基盤となるオープンな分散型プロトコル。ユーザーが自らのデータやつながりを自力で管理・所有できるWebの形を目指している。








































