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1月6日【今日は何の日?】ファブリス・ベラールが円周率πを2.7兆桁まで計算|検証方法は?スパコンを超越するアルゴリズム

 - innovaTopia - (イノベトピア)

2010年1月6日、フランスのプログラマー、ファブリス・ベラールが円周率πを2兆6999億9999万9990桁まで計算したことを発表しました。使用したのは、彼の自宅にある一台のデスクトップPC。費用は約2000ユーロ(当時のレートで約27万円)でした。

前年に日本のスーパーコンピュータが樹立した記録を、約1200億桁更新する快挙です。しかし、この発表を聞いた多くの人がまず抱いた疑問は、おそらく同じものだったでしょう。

「でも、どうやって検証したのか?」

2000年続く、無限への挑戦

紀元前3世紀、古代ギリシャの数学者アルキメデスは、円に内接・外接する正96角形を使って円周率を計算しました。結果は3.14まで。すべて手計算です。

5世紀、中国の祖沖之は小数第7位まで求めました。詳しい方法は伝わっていませんが、この記録は1000年間破られることがありませんでした。

手計算の時代、誤りは避けられませんでした。1873年、イギリスの数学者ウィリアム・シャンクスは15年かけて707桁まで計算しましたが、527桁目から間違っていたことが後に判明します。それでも彼の計算は70年間信じられ続けました。検証する手段がなかったからです。

1949年、世界初の電子計算機ENIACが70時間かけて2037桁を計算。人間が一生かかっても到達できない領域を、機械は数日で踏破しました。1973年には100万桁に到達。計算機の出現は、人類の計算能力を指数関数的に加速させました。

しかし計算速度が上がっても、検証の問題は残り続けました。どうやって、その計算が正しいと証明するのか。

2009年8月、日本の筑波大学にあるスーパーコンピュータT2K-Tsukubaが、約73時間で2兆5769億桁を達成。当時の記録保持者です。

そして2010年1月6日。ベラールは自宅のPCで、スパコンの記録を超えました。

計算期間は131日。使用したのは、Intel Core i7 2.93GHz、RAM 6GB、ハードディスク7.5TB(1.5TB×5台)という構成です。当時としても決して高性能ではありませんでした。

最後の桁だけを、確かめればいい

2.7兆桁が正しいかどうか、どうやって確認するのか。

通常なら、別のコンピュータで最初から2.7兆桁すべてを計算し直し、一致するかを確認する必要があります。しかしそれでは、元の計算と同じ時間がかかってしまいます。

ベラールが使ったのは、Bailey-Borwein-Plouffe(BBP)アルゴリズムという検証方法でした。このアルゴリズムの革新性は、一言で言えばこうです:

n番目の桁だけを、前のn-1桁を計算せずに直接求められる。

不可能の証明

1995年以前、数学者たちはこう考えていました。円周率のn番目の桁を知るには、1番目からn-1番目まで、すべての桁を順番に計算するしかない。それが数というものの本質だ、と。

円周率は無限級数の和として表されます。どの項も前の項に依存し、すべてが絡み合っています。だから途中を飛ばして、ある一点だけを取り出すことはできない——少なくとも、そう信じられていました。

ところがBBPアルゴリズムは、その「常識」を覆しました。πを16進数で表現すると、特定の位置の桁だけを独立に計算できる公式が存在したのです。まるで分厚い本の最終ページだけを開いて、そこに書かれた文章を確認するように。

なぜ16進数なのか。10進数では同じことができません。これは数学的な構造の問題です。BBP公式は、16の累乗(16^k)を基準にした級数として円周率を表現します。この構造により、modular arithmetic(剰余演算)という手法を使って、特定の桁だけを効率的に計算できるのです。

検証という設計思想

1995年、カナダの数学者サイモン・プルーフは、PSLQ(整数関係発見アルゴリズム)を使ってBBP公式を発見しました。デビッド・ベイリー、ピーター・ボルウェインと共同で発表されたこの公式は、数学界を驚かせました。

ベラールは、BBPアルゴリズムを使って計算結果の最後の50桁(16進数)を独立に計算し、元の計算結果と照合しました。検証にかかった時間は34時間(9台のPCで並列処理。1台なら13日)。103日かけた計算を、わずか34時間で検証できたのです。

彼のRAMにはECC(エラー訂正コード)がありませんでした。100日以上の計算中、ビットエラーが発生する可能性は高かったはずです。だからこそ、検証ステップが複数組み込まれていました。

計算の正しさを証明できない計算は、意味がない。ベラールは最初から、検証可能性を設計思想に組み込んでいました。これは単なる数学の問題ではなく、システム設計の問題でもあったのです。

FFmpegの作者、もう一つの無限

ファブリス・ベラールは1972年、フランス・グルノーブル生まれ。17歳のとき、実行ファイル圧縮ソフト「LZEXE」を開発しました。

彼の名前を知らなくても、彼の作ったソフトウェアを使っている人は世界中に数十億人います。FFmpeg(動画・音声処理ソフト)とQEMU(仮想化ソフト)の開発者だからです。YouTubeからNetflix、Android端末まで、あらゆる場所でFFmpegが動いています。

円周率の計算は、彼にとって「趣味」でした。14歳のとき、πに関する本をもらって以来、記録の推移を追い続けていたそうです。1997年には、BBP公式の改良版「ベラールの公式」を発表。これは元のBBP公式より高速でした。

計算期間131日の内訳は、こうです。バイナリ(2進数)での計算に103日。検証に34時間(9台のPC並列、1台換算で13日)。10進数への変換に12日。最終検証に3日でした。

2010年の記録達成後、彼はこう語っています。「任意精度演算(arbitrary-precision arithmetic)は、アルゴリズムやコンピュータをテストするのに使えます。それに、楽しいんです」

スーパーコンピュータは、圧倒的な計算力で正面突破します。ベラールは、賢いアルゴリズムで迂回しました。彼の手法は、元の方法より約20倍効率的だったと言われています。

個人 vs 巨大システム。この構図は、しかし単純な対立ではありません。ベラールが使ったChudnovsky公式も、BBP公式も、20世紀以前に培われた数学の知識の上に成り立っています。そして彼のソフトウェアは、無数の人々の日常を支えています。

知性は、積み重なり、つながり、進化します。

計算と証明のあいだで

ベラールの記録は、2010年8月、日本のシステムエンジニア近藤茂とアメリカの学生アレクサンダー・イーによって破られました。5兆桁。そして記録は更新され続け、2025年1月現在、円周率は314兆桁まで計算されています。

πは無限に続きます。どこまで計算しても、終わりはありません。

では、なぜ人類は計算し続けるのでしょうか。実用上、数桁あれば十分です。物理学の計算でさえ、せいぜい数十桁しか必要ありません。

BBPアルゴリズムが教えてくれたのは、「計算できること」と「検証できること」は別の問題だということです。どれほど強力な計算機があっても、その結果を証明できなければ、それは単なる数字の羅列に過ぎません。

検証可能性——この思想は、形を変えて現代に響いています。AIが出した答えを、どう説明するのか。ブラックボックスではなく、透明性をどう確保するのか。説明可能なAI(XAI)が求められる時代に、ベラールが2010年に示した設計思想は、何を意味するのでしょうか。

答えは、おそらくまだ書かれていません。


Information

【参考リンク】

【用語解説】

Bailey-Borwein-Plouffe(BBP)アルゴリズム
1995年に発見された、円周率のn番目の16進数桁を直接計算できる公式。それまでは不可能と考えられていた「前の桁を計算せずにn番目の桁だけを求める」ことを可能にした。検証作業を劇的に高速化する。

Chudnovsky公式
ダビッド・チュドノフスキーとグレゴリー・チュドノフスキー兄弟が1988年に発表した円周率計算公式。ラマヌジャンの研究をもとにしており、収束が非常に速い。現代の円周率計算記録の多くがこの公式を使用している。

任意精度演算(Arbitrary-precision arithmetic)
通常のコンピュータが扱える数値の桁数には限界があるが、任意精度演算ではメモリが許す限り何桁でも正確に計算できる。円周率のような巨大な桁数の計算に不可欠。

FFmpeg
ファブリス・ベラールが2000年に開発を始めた、オープンソースの動画・音声処理ソフトウェア。動画変換、編集、ストリーミングなど幅広い用途に使われ、世界中の数十億のデバイスで稼働している。

QEMU
ベラールが開発した、オープンソースの仮想化ソフトウェア。異なるCPUアーキテクチャをエミュレートでき、ソフトウェア開発やシステムテストに広く使われている。

XAI(Explainable AI / 説明可能なAI)
AIの判断プロセスや推論過程を人間が理解できる形で説明できるようにする技術や概念。ブラックボックス化したAIの透明性を確保し、信頼性を高めることを目指す。医療診断や金融審査など、説明責任が求められる分野で特に重要視されている。

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Satsuki
テクノロジーと民主主義、自由、人権の交差点で記事を執筆しています。 データドリブンな分析が信条。具体的な数字と事実で、技術の影響を可視化します。 しかし、データだけでは語りません。技術開発者の倫理的ジレンマ、被害者の痛み、政策決定者の責任——それぞれの立場への想像力を持ちながら、常に「人間の尊厳」を軸に据えて執筆しています。 日々勉強中です。謙虚に学び続けながら、皆さんと一緒に、テクノロジーと人間の共進化の道を探っていきたいと思います。

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