【良書紹介】AI時代の人間の救い『技術とは何だろうか 三つの講演』(ハイデガー)

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AIについて語る言葉は、たいてい能力の話から始まる。何ができるのか?どう使えばよいのか?人間の仕事をどこまで代替するのか?しかし、それらの手前には、もっと大きく、答えにくい問いがある。そもそも技術とは、人間が目的のために使う道具なのだろうか?それとも、人間が世界を見て、自らを理解する仕方にまで関わるものなのだろうか?

マルティン・ハイデガー『技術とは何だろうか 三つの講演』(森一郎編・訳、講談社学術文庫)は、第二次大戦後の1950年代に行われた三つの講演を収める。「物」では瓶を、「建てること、住むこと、考えること」では橋や家屋を手がかりとし、最後の表題作で現代技術の問題へ向かう。身近な物から世界へ、そして技術へと進むこの一冊は、技術を機械や道具だけの問題として考えることを許さない。

本書は、もちろんAIを直接論じた本ではない。だが、文章や画像をAIによって生成できるいま、本書の問いは古びるどころか、私たち自身に向けられているように思える。ここでは三つの講演の歩みをたどりながら、AIの性能や活用法を論じる一段手前に立ち戻り、AIの時代に「技術とは何か」を考えてみたい。

AI時代に人間は尊厳を保持できるのか

私たちはAIを「使う」と言います。文章を書かせ、画像を作らせ、情報を整理させ、判断を補助させます。この言い方をするかぎり、AIは人間が目的を達成するための手段です。そして、それを開発し、導入し、運用することは人間の行いです。

ハイデガーも、まずは技術についての一般的な理解から出発します。技術は目的のための手段であり、人間の行いである、という理解です。しかし、技術をこのように定義するだけでは、「技術の本質」に到達できないと考えます。技術と技術の本質とは、同じではないからです。

技術が手段にすぎないのであれば、人間がその目的と使い方を正しく定めれば、技術は制御できるはずです。技術が手に負えなくなることを恐れるときにも、私たちは安全な運用方法を設け、規則を作り、さらに高度な管理技術を導入することで、もう一度それを人間の手の内に戻そうとします。

しかし、そのように技術を制御しようとする行為そのものが、すでに技術の働きによって方向づけられているとしたらどうでしょうか?人間が技術を操っていると思っているそのときに、人間もまた、技術によって一定の行動を取るよう駆り立てられているのだとしたら、技術を単なる手段として捉えるだけでは不十分です。

ハイデガーは、手段という考えに含まれる因果性へとさかのぼります。何かが作られるとき、そこには材料、形、目的、そして作り手が関わります。伝統的に「四原因」と呼ばれてきたものです。

ただし、四原因は、一つの結果を機械的に引き起こす四種類の力なのではありません。それぞれが、何かを「こちらへ前にもたらして産みだす」ことに関与します。それまで隠れていたものが、私たちの前に姿を現すために、四つの原因がともに働くのです。

ここから、技術についての別の姿が見えてきます。技術とは、すでに与えられた目的を実現するための手段である以前に、隠れていた何かを特定の仕方で顕現させる働きです。技術は、世界にあるものを、私たちの前にある何ものかとして現れさせます。

問題は、現代技術が、どのような姿で物を顕現させるかです。

現代技術は、自然や物に対して、ただそこにあるように促すのではありません。必要なものを引き出し、蓄え、配置し、いつでも利用できる状態にするよう挑発します。目の前にあるものは、それ自身の仕方で存在する「対象」である以上に、必要に応じて動員できる「徴用物資」として現れるようになります。

このとき、機械や技術システムも、もはや人間の前に置かれた受動的な対象ではありません。それらは人間に使われると同時に、人間へ新たな要求を突きつけます。機械を動かし、供給を維持し、効率を高め、次の需要を予測し、システム全体が滞りなく働くよう保証することを、人間に求めます。

人間は技術によって自然を徴用しますが、その人間自身もまた、徴用するように駆り立てられています。人間には、物を徴用し、配置し、利用可能にする能力があるという点で、特別な立場があります。しかし、その能力を発揮する舞台そのものを、人間が自由に作り上げたわけではありません。人間もまた、世界を徴用可能なものとして扱うよう挑発されているのです。

ハイデガーは、モノとヒトをひとしなみに資源として動員していくこの技術的な秩序を「総かり立て体制」と呼びます。その中で人間は、世界を支配する主人であるどころか、資源を動員するための「徴用係」へと近づいていきます。さらに、人間自身も人的資源として数えられ、配置され、評価される徴用物資になりかねません。

AIをこの視点から見るならば、問うべきなのは、AIが人間の命令に従うかどうかだけではありません。AIを含む技術的な体制が、世界と人間をどのようなものとして現れさせるのかを問う必要があります。

AIは、私たちが与えた問いに答えます。しかし同時に私たちも、AIが処理できる形式へ問いを整え、その出力を点検し、AIを組み込めるよう仕事の手順を作り替えることを求められます。AIを利用して生産性を高めることが目的だったはずなのに、いつの間にかAIを利用すること自体が前提となり、AIを使ってより多く、より速く成果を出せる人間であることが要求されるようになります。

これは、AIそのものに意志があり、人間を支配しようとしているという意味ではありません。AIに意志や主体性を認めなくても、それを中心として組み立てられた制度や仕事の流れは、人間の行動を方向づけます。人間がAIを動かすと同時に、AIを動かし続けるための体制が人間を動かすのです。

すると、AI時代における人間の尊厳を、単に「人間にしかできないこと」の中に求めてよいのかという疑問が生じます。

人間の価値をAIとの能力差によって説明しようとすれば、私たちは初めから、人間とAIを同じ尺度の上に並べることになります。どちらが速く書けるのか、正確に予測できるのか、多くの情報を処理できるのか、優れた成果物を生み出せるのかを比較し、その結果によって人間の価値を決めることになります。

しかし、それはすでに、人間を能力の束として、すなわち利用可能性によって測られる資源として捉えることではないでしょうか。「この仕事はまだ人間のほうが得意です」と主張するだけでは、人間の尊厳は、AIがその能力を上回るまでの暫定的な価値になってしまいます。

人間の尊厳は、AIよりも高い性能を保つことにあるのでしょうか。それとも、利用価値や処理能力へと還元できない仕方で世界と関わることにあるのでしょうか?

AIが人間を超えるかどうかという問いよりも先に、人間が自らを技術的な資源としてしか理解できなくなる危険を考える必要があります。人間の言葉がデータとしてのみ、思考が情報処理としてのみ、創造が成果物の生産としてのみ現れるなら、人間は自分自身についても、技術によって顕現させられた姿だけが真実だと思い込むかもしれません。

AI時代に人間の尊厳が失われるとすれば、それはAIが意識を持ち、人間に反旗を翻したときに初めて起こることではありません。人間が進んで自分自身を徴用物資として理解し、それ以外の人間のあり方を思い描けなくなったとき、危機はすでに始まっています。人間は、自らを利用可能性だけで測ることを退けなくてはなりません。計算できるもの、予測できるもの、効率化できるものだけを真理とせず、世界と人間が別の仕方で現れる可能性を保たないといけません。

AI時代に人間は尊厳を保持できるのか。この問いに答えるためには、技術を一方的な脅威として退けるのでも、人間が完全に制御できる道具だと言い張るのでもなく、危機をもたらす技術の本質そのものに、別の可能性が残されていないかを考える必要があります。

人間に残された救い

では、技術がもたらす危機から逃れるために、人間は技術を捨てるべきなのでしょうか?ハイデガーが示すのは、技術を拒絶し、その外側へ逃げる道ではありません。そもそも人間は、技術を単なる道具として自由に採用したり、手放したりできる主人ではないからです。

だからといって、より強力な制御の仕組みを作ればよいわけでもありません。技術を制御するために別の技術を導入するだけでは、あらゆるものを計算し、管理し、利用可能な状態に置こうとする関係そのものは変わりません。

ハイデガーが技術のうちに見いだす「危機」は、技術が暴走して人間に危害を加えることだけを意味しません。より根源的な危機は、技術による顕現だけが唯一の真理であるかのように見え、世界がそれとは異なる仕方で現れる可能性を、人間が忘れてしまうことにあります。

技術を通して明らかになるものは、虚偽ではありません。しかし、それが真理のすべてでもありません。技術によって世界を精密に計算し、自然の仕組みを記述し、人間の行動を予測できたとしても、それによって自然や人間を余すところなく理解したとは限らないのです。

技術的な顕現だけが支配的になれば、人間は、より根源的な仕方で真理に出会うことさえできなくなるかもしれません。これこそが、技術の本質に潜む最大の危機です。

しかし、ハイデガーはヘルダーリンの詩句を引き、次のように述べます。

だが、危機のあるところ、救いとなるものもまた育つ。

ヘルダーリン

ここでいう救いは、危機が自動的に解決されるという約束ではありません。技術の本質を危機として認識すること自体が、それまで見えなくなっていた別の可能性を開きます。技術が世界を顕現させる唯一の仕方ではなく、歴史的に現れた一つの仕方であると気づくなら、人間はその支配を絶対的なものとは考えずに済むからです。

その可能性は、技術の外から到来するのではありません。むしろ、技術がその本質を強く発揮し、あらゆるものを一つの仕方で現れさせようとするところでこそ、その顕現が決して唯一ではないことも見えてきます。危機と救いは、技術の本質の中で背中合わせになっています。その意味で、技術の本質は両義的です。

ここで人間に求められるのは、世界の主人となることではありません。ハイデガーが人間の「至高の尊厳」として重視するのは、人間が真理を思いどおりに作り出す能力ではなく、真理が現れることに関与し、それを守護する存在であることです。

本質とは、何かに固定された性質というより、それをそのものとして存続させる働きです。人間の本質もまた、計算能力や生産能力によって決まるものではありません。人間は、世界がどのように現れているのかに耳を澄まし、まだ別の仕方で現れうるという可能性を守ることによって、人間として存続させられます。

技術もまた、人間に顕現への関与を求めます。その要請に無自覚に従えば、人間は技術が示す世界だけを真理だと思い込むでしょう。しかし、自分が一つの顕現の仕方へ導かれていると知るならば、その運命との関係を結び直す余地が生まれます。自由とは、あらゆる因果関係から独立して好きなように振る舞うことではなく、真理が開かれてくる出来事に向き合うことなのかもしれません。

そのとき、技術の本質は、機械や操作といった「技術的なもの」ではなく、むしろ芸術や詩に近づきます。芸術や詩もまた、それまで隠れていたものを現れさせる営みだからです。ただし、それらは世界に利用価値を要求するのではなく、物事が別の仕方で姿を現すための場所を開きます。

この意味で、技術の危機に対する救いは、ただ新しい装置や制度を用意することではありません。技術が何を明らかにし、その一方で何を覆い隠しているのかを熟考し、技術とは異なる顕現の可能性を保護することにあります。

そのためにハイデガーが最後に残すのが、問いつづけるという態度です。問いは、対象を支配するための答えをただ要求するものではありません。自分がすでに正しいと信じている前提を揺るがし、まだ現れていないものに対して思考を開く営みです。

「問うことは、思考の敬虔さである」とハイデガーは結びます。AI時代に人間のための救いが残されているとすれば、それは完成した答えとしてではなく、技術と人間の関係をなお問い直すことのできる、この開かれた場所にあるのではないでしょうか。

【編集部後記】

問いをAIに引き渡さない

ここからは、ハイデガーの忠実な要約というより、AI時代を生きる私自身の読みです。

AIには、問いらしい文章をいくらでも生成させられます。しかし、何を問うべきかを決め、その問いによって自分自身の前提まで揺さぶられることは、単なる文章生成とは異なります。問うとは、答えを効率よく手に入れるための操作ではなく、まだ見えていない真理に対して自らを開くことだからです。

人間が自由な存在なのかについて、私は判断を保留します。それでも、人間には問いつづけることが求められている、こう私は思います。自分が世界の主人ではないと認め、わからないものの前に立ち止まり、思惟しつづける。その意味で、問うことは祈りであり、それ自体が救いなのだと思います。

「問う」ということは、保留することではありません。AIはすぐ「保留」「中立」「決めつけない」と言います。人間に求められるのは、必要に応じて、態度を示し、留保せず答えを求め、言い切る責任だと思います。

だからこそ、問いを引き受けることだけはAIに明け渡してはいけません。人類が思惟しつづけ、思考において敬虔でありつづけられるか。それが、AI時代を生き残るための鍵になるはずです。

科学によって新たな真理に到達し、まだ存在しない技術を発明する力も、既知の答えを増やすことではなく、これまでになかった問いを生み出すことから始まります。人間がこれからも問いつづけられるかどうかに、技術の未来だけでなく、人間自身の存続もかかっていると、私は思います。

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森 祐佳 Solutions Engineer
一般社団法人生活情報基盤研究機構代表理事(AS63806 Menhera®・IPアドレス管理指定事業者/LIR、ITインフラやプロトコルの開発・運用から個人の自由、プライバシー・情報科学・人文学・医学などにアプローチ)。とある会社でソリューションエンジニアの仕事をしています。 テクノロジーと人間の精神の関係を、哲学と実装の両面から探求してきました。 ITエンジニアとしてシステム開発やAI技術に携わる一方で、心の哲学や宇宙論の哲学、倫理学を背景に、テクノロジーが社会や人の意識に与える影響を考察しています。 AIや情報技術がもたらす新しい価値観や課題を、自ら学生時代に東京大学医学図書館に籠って学習した、精神医学や公衆衛生の視点も交えながら分析し、「技術が人の幸福や生き方をどう変えるのか」という問いに向き合うことを大切にしています。 このメディアでは、AIやテックの最前線を紹介するだけでなく、その背後にある哲学的・社会的な意味を掘り下げ、みなさんと一緒に「技術と人間の未来」を模索していきたいと思います。

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