「脳にスプーン1杯分のプラスチック」──2025年2月にNature Medicine誌で発表され世界に衝撃を与えた研究結果が、科学者たちから測定手法の欠陥を指摘され、信頼性に疑問符がつけられている。英ガーディアン紙が2026年1月13日に詳細に報じたこの論争は、私たちが科学報道をどう受け止めるべきかという根本的な問いを投げかけている。
1997年から2024年にかけての死後検体の脳組織でマイクロプラスチックおよびナノプラスチック(MNPs)の増加を主張する研究に対し、科学者から疑問が提起されている。この研究は汚染管理の不備や検証手順の欠如といった方法論的欠陥で批判され、批判は元の研究と同じ学術誌に「Matters arising」レターとして発表された。
ドイツのヘルムホルツ環境研究センターのデュサン・マテリック博士は、脂肪がポリエチレンの偽陽性の原因であると指摘し、肥満率の上昇が代替説明となる可能性を提案した。脳研究の責任著者であるマシュー・キャンペン教授は、MNPsの健康影響を理解する確立された方法がまだないと述べた。ガーディアン紙は7つの研究が異議申し立てを受けたと報じ、最近の分析では18の研究が人体組織とプラスチックの測定値を混同する可能性を考慮していないと指摘された。
From:
Are microplastics actually there in our bodies? Study raises doubts
【編集部解説】
この論争は、科学が本来持つべき「自己修正機能」が正常に作動している証左だと言えます。しかし同時に、現代の研究環境が抱える構造的な課題も浮き彫りにしています。
問題の核心は、分析技術の限界にあります。マイクロプラスチックやナノプラスチックは、その名の通り極めて微小な粒子です。特にナノプラスチックは100〜200ナノメートル程度と、新型コロナウイルス2個分ほどの大きさしかありません。このサイズ領域は、現在の分析技術の限界ぎりぎりに位置しています。
多くの研究で使用されている熱分解ガスクロマトグラフィー質量分析法(Py-GC/MS)は、サンプルを600度まで加熱して気化させ、その成分を分析する手法です。しかし、クイーンズランド大学のキャサンドラ・ラウアート博士らが2025年1月に発表した研究によれば、この手法には深刻な欠陥があります。人体組織、特に脳組織に多く含まれる脂肪が、ポリエチレンと同じ熱分解生成物を生み出すため、偽陽性を引き起こす可能性が高いのです。
脳は約60%が脂肪で構成されています。元の研究で検出されたマイクロプラスチックの約75%がポリエチレンだったという事実は、この偽陽性の問題と符合します。ドイツのヘルムホルツ環境研究センターのデュサン・マテリック博士が、肥満率の上昇が代替説明になり得ると指摘したのは、この文脈で理解する必要があります。
ただし、この論争を「マイクロプラスチック問題は存在しない」という結論と混同してはなりません。環境中にマイクロプラスチックが遍在している事実は変わりませんし、動物実験では健康影響が確認されています。問題は「どれだけの量が人体に入り込んでいるか」という定量的な評価の信頼性です。
この論争が重要なのは、政策形成への影響です。不正確な科学的証拠に基づいて規制を急げば、効果的でない政策が生まれる可能性があります。一方で、プラスチック業界のロビイストが「すべての懸念は根拠がない」と主張する口実を与えてしまうリスクもあります。元ダウケミカルの化学者ロジャー・クールマン氏が「bombshell(爆弾発言)」と表現したのは、この両面性を指しています。
ウィーン医科大学では、サンプルを燃焼させない新しい画像技術の開発が進んでいます。このような技術革新により、より信頼性の高いデータが得られるようになることが期待されます。科学は常に進化するプロセスであり、今回の論争も、より正確な測定手法の確立という次のステップへの礎となるでしょう。
ニューメキシコ大学のマシュー・キャンペン教授は「我々はナノプラスチックが脳内にあることを100%確信している」と述べていますが、その確信と、測定手法の改善の必要性は矛盾しません。科学的真実を追求するプロセスには、こうした対話と検証の繰り返しが不可欠なのです。
この論争が私たちに教えてくれるのは、センセーショナルな研究結果を鵜呑みにせず、その方法論や限界を理解することの重要性です。1万ドルのマイクロプラスチック除去施術や、家庭用血液検査キットといった商品が市場に出回っていますが、科学的根拠が確立していない段階での対応は時期尚早と言えるでしょう。
【用語解説】
マイクロプラスチック・ナノプラスチック(MNPs)
直径5ミリメートル以下の微小なプラスチック粒子をマイクロプラスチック、さらに小さい1ナノメートルから1マイクロメートルのものをナノプラスチックと呼ぶ。環境中に広く存在し、食品や飲料水、空気中から人体に取り込まれる可能性が指摘されている。
熱分解ガスクロマトグラフィー質量分析法(Py-GC/MS)
サンプルを高温(約600度)で加熱して気化させ、発生したガスを分離・分析することで物質の組成を特定する分析手法。マイクロプラスチック検出に広く用いられているが、生体組織の脂肪成分が偽陽性を引き起こす可能性が指摘されている。
ポリエチレン
最も一般的なプラスチック素材の一つで、食品包装や容器、ビニール袋などに広く使用される。多くのマイクロプラスチック研究で検出される主要なポリマーとされている。
偽陽性
実際には存在しないものを「存在する」と誤って判定してしまう現象。本論争では、人体組織の脂肪成分がプラスチックと誤認される可能性が指摘されている。
頸動脈プラーク
頸動脈の内壁に蓄積する脂質やコレステロールなどの沈着物。動脈硬化の一形態で、心臓発作や脳卒中のリスク要因となる。一部の研究では、このプラーク内にマイクロプラスチックが検出されたと報告されている。
Matters arising
学術誌に掲載された論文に対する正式な批判や反論を記載する形式。元の研究と同じ学術誌に掲載され、学術的な議論の場として機能する。
【参考リンク】
Nature Medicine(外部)
世界最高峰の医学系学術誌。今回論争となった脳内マイクロプラスチック研究とその批判論文を掲載。
The Guardian(外部)
英国の高品質報道機関。2026年1月にマイクロプラスチック研究への疑問を詳細に報じた。
ヘルムホルツ環境研究センター(外部)
ドイツの環境研究機関。デュサン・マテリック博士がマイクロプラスチック検出手法の問題点を指摘。
クイーンズランド大学 環境健康科学アライアンス(外部)
オーストラリアの研究拠点。キャサンドラ・ラウアート博士が検出手法の開発と検証を実施。
ニューメキシコ大学健康科学センター(外部)
マシュー・キャンペン教授のチームが脳内マイクロプラスチック研究を実施した機関。
【参考記事】
Scientists cast doubt on claims microplastics found in humans(外部)
脳の60%を占める脂肪がポリエチレンの偽陽性を引き起こす可能性を指摘したLBC報道。
Scientists question high-profile microplastics studies(外部)
2025年1月の研究でPy-GC/MS法の信頼性に疑問が示されたことを報じる記事。
Bioaccumulation of microplastics in decedent human brains(外部)
Nature Medicineに掲載された元の研究論文。2024年サンプルで50%増加を報告。
High levels of microplastics found in human brains(外部)
スプーン1杯分に相当する約5,000マイクログラム/グラムの検出を報じる詳細記事。
Microplastics probably aren’t in your brain at alarming rates(外部)
科学的根拠が不十分な段階での商業化の危険性を警告するSlate誌の分析記事。
Assessing the Efficacy of Py-GC-MS for Microplastic Analysis(外部)
ラウアート博士らのPy-GC/MS法の限界を示した2025年1月の重要論文。
Are microplastics bad for your health? More rigorous science is needed(外部)
不正確な証拠が政策や業界対応に与える危険性を論じたNature誌の2025年3月論評。
【編集部後記】
この論争は、私たちが科学報道をどう受け止めるべきかという問いを投げかけています。「脳にスプーン1杯分のプラスチック」という見出しは確かに衝撃的ですが、その測定方法は本当に信頼できるのでしょうか。科学は常に自己修正を繰り返しながら真実に近づいていくプロセスです。
センセーショナルな研究結果に一喜一憂するのではなく、その背後にある方法論や限界にも目を向ける。そんな姿勢が、これからの時代にはますます重要になっていくのかもしれません。みなさんは、どう思われますか。



































