MITのジャン=ジャック・スロタイン教授とウィンフリート・ローミラー研究員の研究チームが、2026年4月21日、古典物理学の数学的概念によって量子スケールの振る舞いを記述できることを示した論文を『Proceedings of the Royal Society』誌に発表しました。
論文タイトルは「On computing quantum waves exactly from classical action」です。両者はMITのNonlinear Systems Laboratoryに所属し、スロタイン氏は機械工学・情報科学および脳・認知科学の教授、ローミラー氏は同研究所の研究員です。研究チームは、古典力学のハミルトン-ヤコビ方程式に「密度」と複数の最小作用経路の項を加えて拡張し、二重スリット実験において2本の古典的経路のみを考慮することで、量子力学のシュレーディンガー方程式と同一の解を導出しました。同手法は量子トンネル効果、水素原子内の電子の量子波、アインシュタイン-ポドルスキー-ローゼン実験にも適用されています。
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New study bridges the worlds of classical and quantum physics
【編集部解説】
今回MITが発表した研究は、量子力学を「廃棄」するものでも「置き換える」ものでもありません。あくまで「計算する別の道」を、古典物理学の道具立てで作って見せたという話です。MIT広報がやや劇的に「橋を架けた」と表現したことで誤解されやすいのですが、両著者自身が「量子現象が古典スケールで起きていると主張しているのではない」と明確に釘を刺している点は、まず押さえておきたいところです。
ポイントは、シュレーディンガー方程式と同一の解を、ハミルトン-ヤコビ方程式に「密度」と「複数の最小作用経路」を加える形で厳密に導けたという事実です。これまで物理学者は、古典力学を量子に橋渡しする際、WKB近似のような「準古典近似」に頼ってきました。今回の研究は近似を含まず、二重スリットに対してファインマンが想定した「無限の経路の足し合わせ」を、わずか2本の古典的経路の重ね合わせで再現してしまった点に新規性があります。
実は、量子力学を流体力学的・古典的な言葉で書き直す試みには長い歴史があります。1927年のマデルング方程式、ド・ブロイ=ボームのパイロット波理論、1966年のネルソンの確率力学などです。今回の研究はこれらの系譜の上に立ちつつも、相対論的なクライン-ゴルドン方程式、パウリ方程式、ディラック方程式までを統一的な枠組みに収めうると示唆しており(プレプリント版ではマクスウェル方程式への拡張も論じられています)、射程の広さが従来研究との差別化点となっています。
なぜ今このタイミングなのかという視点も重要です。2025年は国連が宣言しUNESCOが主導した「国際量子科学技術年」、すなわち1925年にハイゼンベルクがヘルゴラント島で量子力学を構想してからちょうど100周年でした。スロタイン教授はこの研究を、まさにヘルゴラントで開かれた記念会議「Helgoland 2025」で初めて発表しています。100年の節目に「量子力学を古典の言葉で計算する」という研究が提示されたことには、科学史的な意味合いも感じざるを得ません。
応用面で最も注目すべきは、スロタイン氏自身が言及した量子コンピューティングへの含意です。量子ビット(キュービット)の挙動には非線形なエネルギー項が含まれ、現状ではこれを近似的に扱うしかありません。今回の手法が実用化されれば、量子デバイスの設計シミュレーションを、より直感的かつ計算負荷の低い形で行える可能性があります。スロタイン氏が非線形システム研究所を率い、ロボティクスや機械学習の制御理論の専門家であることも、この応用方向と無関係ではないでしょう。
さらに長期的視点で言えば、量子力学と一般相対性理論の統一——いわゆる「量子重力」の問題——への新しい入り口になる可能性も示唆されています。両理論を「すべてのスケールで成り立つ共通の記述」に乗せられるなら、現代物理学最大の未解決問題に切り込む足場になり得ます。ただしこれは著者らも「原理的には」と慎重に語っており、過度な期待は禁物です。
一方で、慎重に見るべき点もあります。本論文は『Proceedings of the Royal Society A』という権威ある査読誌に2026年4月1日付で掲載されたものですが、量子力学の新しい解釈や定式化は過去にも数多く提案されており、物理学コミュニティが本当に「ブレークスルー」と認めるかどうかは、これからの議論を待つ必要があります。ボーム的な隠れた変数理論の現代版だと見る研究者も出てくるかもしれません。
教育とリテラシーの側面でも、影響は小さくないと思われます。「量子は本質的に直観に反するもので、古典の言葉では絶対に語れない」という長年の語り口に、再検討を促す研究だからです。アーリーアダプター層の読者にとっては、量子技術を「魔法の箱」として畏れるのではなく、その動作原理に対する直感を取り戻す手がかりとなり得るでしょう。
【参考情報】
シュレーディンガー方程式
1926年にエルヴィン・シュレーディンガーが提唱した、量子力学において粒子の状態(波動関数)の時間発展を記述する基礎方程式である。20世紀以降の物理学・化学・材料科学の根幹をなす。
ハミルトン-ヤコビ方程式
古典力学の主要な定式化の一つで、19世紀にウィリアム・ローワン・ハミルトンとカール・ヤコビによって整備された。物体の運動を「作用」と呼ばれる量の偏微分方程式として表現する。
最小作用の原理
物体は、運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの差を時間積分した「作用」を最小化する経路を進むという、古典力学の根本原理である。光学のフェルマーの原理を力学に拡張したものに相当する。
二重スリット実験
2本のスリット(細い隙間)を通過させた粒子(光子・電子など)が、スクリーン上に干渉縞を描く実験。粒子が「波」と「粒子」の両方の性質を持つことを示す、量子力学のもっとも有名な実験である。
量子トンネル効果
古典力学では越えられないはずのエネルギー障壁を、量子的粒子が一定確率で通り抜ける現象である。半導体素子、走査型トンネル顕微鏡、核融合反応などの基盤となっている。
重ね合わせ(スーパーポジション)
量子的な物体が、複数の状態(位置・経路・スピンなど)を同時に取りうるという量子力学の根本的性質である。量子コンピューティングにおける計算能力の源泉でもある。
アインシュタイン-ポドルスキー-ローゼン(EPR)実験
1935年にアインシュタインらが量子力学の不完全性を主張するために提示した思考実験。後に「量子もつれ」という現象の研究の出発点となり、現代の量子情報科学の基礎を築いた。
準古典近似(WKB近似)
量子力学の方程式を、古典力学の極限において近似的に解く伝統的な手法である。今回の研究は、こうした近似を用いずに厳密解を得た点が新規性とされる。
マデルング方程式・パイロット波理論・ネルソンの確率力学
量子力学を流体力学的、もしくは古典力学に類似した枠組みで再記述しようとする20世紀の試み群を指す。今回の研究はこの系譜の上に位置づけられる。
量子ビット(キュービット)
量子コンピューターの基本情報単位。0と1の重ね合わせ状態を取りうる点が古典ビットと異なる。
ヘルゴラント(Helgoland)
ドイツ北海上の小島。1925年6月、当時23歳のヴェルナー・ハイゼンベルクがこの島で量子力学の最初の定式化「行列力学」を着想したことで知られる。
国際量子科学技術年(IYQ 2025)
量子力学誕生100周年を記念し、国連総会が2024年6月に2025年を国際年として宣言したものである。UNESCOが主導機関を務め、世界中で記念会議や啓発活動が行われた。
【参考リンク】
Proceedings of the Royal Society A — 論文掲載ページ(外部)
ローミラーとスロタイン両氏による査読論文の正式掲載ページ。2026年4月1日付。
arXiv — プレプリント版(外部)
本論文の無料公開版。改訂経緯と相対論的方程式への拡張を含む全文を読める。
MIT Nonlinear Systems Laboratory(非線形システム研究所)(外部)
スロタイン教授が率いるMITの研究室公式サイト。研究領域とメンバー一覧、主要論文を公開している。
MIT Center for Quantum Engineering — Jean-Jacques Slotine 紹介ページ(外部)
スロタイン教授の量子工学領域における経歴と本研究の位置づけが本人の紹介文として掲載されている。
Helgoland 2025 公式サイト(外部)
量子力学100周年記念会議の公式ページ。本研究が最初に発表された場である。
International Year of Quantum Science and Technology(UNESCO公式)(外部)
UNESCO公式の国際量子科学技術年特設ページ。国連総会による宣言経緯と年間活動を網羅。
Massachusetts Institute of Technology(MIT)公式サイト(外部)
本研究を行ったマサチューセッツ工科大学の公式サイト。
On computing quantum waves exactly from classical action(Proceedings of the Royal Society A)(外部)
2026年4月1日付掲載の査読論文。シュレーディンガー方程式が古典的最小作用のみで厳密に解けることを示している。
【参考記事】
Classical physics can explain quantum weirdness, study shows(Phys.org)(外部)
2026年4月22日付の科学ニュースサイトによる紹介記事。論文DOIや出版日などの書誌情報を明記している。
MIT scientists explain quantum behavior of particles using classical physics tools(Interesting Engineering)(外部)
2026年4月公開の解説記事。二重スリット実験と量子トンネル効果の2例を中心に研究のポイントを整理。
Researchers Calculate Quantum Motion Using Classical “Least Action”(Quantum Zeitgeist)(外部)
量子技術専門メディアによる解説記事。ファインマンの歴史的背景と本研究の計算上の革新性を強調している。
Helgoland 2025: the inside story of what happened on the ‘quantum island'(Physics World)(外部)
2025年9月公開。量子力学100周年記念会議の全体像を伝える。31講演・5パネル・100超ポスター・ノーベル賞受賞者4名が参集。
The United Nations Proclaims 2025 as the International Year of Quantum Science and Technology(APS)(外部)
2024年6月7日付の米国物理学会発表。国連総会による2025年国際量子科学技術年宣言の経緯を伝える。
Jean-Jacques Slotine(MIT Center for Quantum Engineering)(外部)
MIT量子工学センターによる教授紹介。Helgoland 2025での初公表や相対論的方程式への拡張可能性を記載。
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「量子力学の世界と日常世界を結ぶ橋」という表現が冒頭にあり、本記事のメッセージと直接呼応する。
【編集部後記】
「量子力学は直観に反する」「古典物理学では理解できない」——こうした言い回しは、テクノロジーに関心を持つ私たちにとって、もはや決まり文句のようなものになっていました。今回の研究は、その当たり前を少しだけ揺さぶる成果と言えます。
ただ、誤解しないでいただきたいのは、これは「量子力学は間違っていた」という話では決してないということです。むしろ、量子力学が正しいことを認めたうえで、それを古典物理学の言葉で「計算する」もう一つの道筋が示された、と捉えるのが正確です。著者ら自身も「量子現象が古典スケールで起きていると主張しているのではない」と慎重に語っています。
この成果が私たちにとって大きな意味を持つのは、量子コンピューターや量子センサーといった次世代テクノロジーが、いま実用化に向けて加速している時代だからです。量子の挙動を「魔法」ではなく「計算可能な何か」として直感的に捉え直せるなら、私たちが量子技術と付き合う姿勢そのものが変わってくるかもしれません。











