充電いらずのシャツが血圧を計測──NUS・清華大ら共同研究、ウェアラブルの次を Nature Electronics に描く

スマートウォッチの画面を確認し、スマートリングをはめ、イヤーバッドを耳に差す——「健康を管理する」ために、私たちはいくつものデバイスを身に纏う時代を生きています。しかしその未来は、もっとシンプルかもしれません。いつも通り着ているシャツが、私たちの血圧をリアルタイムで計り続けているとしたら。シンガポール国立大学の研究チームが Nature Electronics に発表した研究は、その未来を現実の射程に捉えています。


シンガポール国立大学(NUS)・アリゾナ大学・清華大学の研究チームが、スマートフォンから無線で給電するバッテリーレスのスマートテキスタイルシステムを共同開発した。このシステムは衣服に組み込まれた超薄型センサーが収縮期血圧をリアルタイムで計測するもので、詳細は学術誌 Nature Electronics に掲載された。

センサーは皮膚に直接密着し、「メタマテリアル」と呼ばれる精密設計の布地を介してスマートフォンと接続される。スマートフォンが電力供給とデータ収集を兼ねるため、ウェアラブルデバイスの課題だった充電の手間が不要になる。電力とデータの通信は別々の周波数チャネルで行われ、干渉を防ぐ仕組みだ。

初期テストでは、ユーザーが運動中であっても収縮期血圧を正確に計測できることが確認された。この精度の一貫性は、長期的な健康管理や心血管疾患の早期発見への応用が期待される。

From: 文献リンクForget smartwatches, your clothes could soon track your health

【編集部解説】

充電という「装着行為」を、私たちはずっと忘れていた

スマートウォッチを毎晩充電台に置く。スマートリングを週に一度充電する。この何気ない行為が、実はウェアラブル健康計測の最大の障壁です。医療の文脈では「コンプライアンス(装着継続率)」と呼びますが、「充電を忘れた日には使えない」という体験が積み重なるほど、装着習慣は崩れていきます。

NUS・清華大学・アリゾナ大学の3大学共同研究チームが Nature Electronics に発表したシステムは、この問題を「デバイスを改善する」ではなく「デバイスをなくす」方向で解決しようとしています。電力はスマートフォンから13.56 MHzの周波数帯で無線供給され、計測データは2.4 GHzでスマートフォンへ返送される。メタマテリアルとして設計された布地が、この2つの周波数を同時に制御する「デュアルモード」として機能します。

衣服は「着ること」が目的です。その行為に健康計測が付随するのであれば、「計測のために何かをする」という認知負荷はゼロに近づきます。装着率が上がれば、データの連続性が生まれる。それは医学的に意味のある情報への変換を可能にする、根本的な条件です。

「点」の血圧と「線」の血圧——医学的に何が変わるのか

血圧計測の現状は、「点」の集合です。家庭血圧計を毎朝1〜2回計る、あるいは病院の診察室で1回計る。しかし血圧は一日を通じて大きく変動します。早朝の起床直後、職場でのストレス下、運動中、深夜の睡眠中——それぞれに異なる値を示し、どの「点」を見るかによって評価がまったく変わります。

日本の高血圧患者数は推計約4,300万人とされており、オムロン ヘルスケアの推計では、そのうち約1,400万人が自分の高血圧を認識していないとされています。この未認識層の多くに関わるのが「仮面高血圧」——診察室では正常値を示すが、日常生活では高値が続く病態です。2007年の報告では未治療者の10〜15%、すでに治療を受けている患者でさえ20〜25%にこの状態がみられるとされており、その心血管リスクは正常血圧者の約2倍以上に及ぶとの報告があります。

24時間にわたって血圧を記録するABPM(24時間自由行動下血圧測定)は仮面高血圧の診断に有効ですが、上腕に巻き続けるカフの不快感と、15〜30分ごとの膨張による睡眠妨害は、日常的な活用を難しくしています。スマートテキスタイルが「線」の血圧を違和感なく取得できるようになれば、この診断の死角を埋める現実的な選択肢になる可能性があります。

Apple Watchがすでに走った道、その先に見えるもの

Apple Watch Series 11は2025年9月9日に発表され、同年秋にはソフトウェアアップデートを通じて「Hypertension Notifications(高血圧通知)」機能が提供開始されました。光学センサーによる血流データからアルゴリズムが「血圧が高い可能性」を推定する仕組みで、感度(高血圧者を検出する割合)は約40%にとどまります。この設計についてHealthbeatは、見逃しても致命的でなく誤通知を最小化する「specificity重視」のアプローチと分析しており、通知を受けた人にはカフ式血圧計での確認をAppleが推奨しています。

NUSらの研究が射程に捉えているのは、Apple Watchがあえて踏み込まなかった領域です。光学センサーによる推定値ではなく、皮膚上の超薄型センサーから得られる収縮期血圧の実測値。手首だけでなく、衣服がカバーする身体全体への展開可能性。そして「身につけたことを意識する必要すらない」という装着様式。「気づきの装置」としてのスマートウォッチと、「常時計測の基盤」としてのスマートテキスタイルは、似ているようで異なる技術哲学に立っています。

残された壁——「布」が医療デバイスになるまでの距離

ただし、これは研究論文の段階の成果であり、明日からシャツ売り場に並ぶ製品ではないことを率直に押さえておく必要があります。論文が Nature Electronics 誌に掲載された事実は科学的な完成度を示しますが、医療機器としての規制クリア、長期装着時の精度維持、そして何より「洗える布」として量産する産業化の壁が残されています。

特に洗濯への耐久性は、スマートテキスタイル分野で繰り返し議論されてきた論点です。日本でも東レ・NTTの「hitoe」やミツフジの「hamon」といった導電性繊維の研究は進んでいますが、心電図や運動データの取得が中心で、血圧のような変動の大きい連続生体信号を実用レベルで取り出すには、センサー、布地、給電、データ通信のすべてが連携する必要があります。今回の研究はその統合の現実的な道筋を示した点に意味があります。

そしてもう一つ、私たちが考えておくべき問いがあります。常時計測される血圧データは、誰のものになるのか。スマートフォンを介して収集される以上、それはOSベンダーや健康アプリの事業者を経由する可能性があります。衣服から取得される連続生体データのプライバシーや、保険・雇用への利用可能性は、業界全体で議論が成熟しているとは言えません。

「シャツが血圧を計る未来」が技術的に手の届く距離に来た今、私たちは便利さの先にある問いを、技術より先に整える時間を持っているのかもしれません。

【用語解説】

スマートテキスタイル(E-textile)
センサー、電子回路、通信モジュールなどを繊維や布地に組み込んだ「電子機能を持つ布」の総称。電子テキスタイル、e-テキスタイルとも呼ばれる。単なる導電性素材(スマートファブリック)から、処理回路を内蔵する高度なシステムまで幅広い。

メタマテリアル(Metamaterial)
自然界には存在しない電磁気的特性を実現するために、人工的に設計・製造された構造体。本研究では、スマートフォンからの電力をセンサーへ誘導する「表面波」を生み出す布地として機能する。電力伝送に13.56 MHz、データ通信に2.4 GHzという2つの周波数帯を同時制御する「デュアルモードメタマテリアルテキスタイル」として設計されている。

表皮センサー(Epidermal sensor)
皮膚に直接貼り付けて使う超薄型・柔軟性センサーの総称。電子スキンとも呼ばれる。伸縮性があり、動きに追随して密着するため、運動中でも高精度な生体信号の取得が可能。本研究のセンサーはバッテリーを持たず、メタマテリアルテキスタイルを介してスマートフォンから給電される。

収縮期血圧(Systolic blood pressure)
心臓が収縮して血液を送り出す瞬間に動脈壁にかかる圧力。血圧の「上の値」として一般に知られる。日本高血圧学会の基準では、家庭血圧で135 mmHg以上、診察室血圧で140 mmHg以上を高血圧と診断する。

仮面高血圧(Masked hypertension)
診察室では正常血圧を示すが、日常生活(職場・早朝・夜間など)では血圧が高値になる病態。診察室でしか血圧を測定しないと見逃されやすく、心血管リスクは持続性高血圧に匹敵するとされる。連続血圧モニタリング技術の主要な応用先として注目されている。

ABPM(24時間自由行動下血圧測定)
Ambulatory Blood Pressure Monitoringの略。上腕にカフを巻いて日常生活を続けながら、15〜30分ごとに自動で血圧を測定する検査。仮面高血圧の診断などに有効だが、患者負担が大きく日常的な活用は難しい。

NFC(Near Field Communication)
近距離無線通信規格の一つ。使用周波数は13.56 MHz。Suicaや交通系ICカード、スマートフォンの非接触決済などに広く使われている。本研究では同周波数帯をワイヤレス電力伝送(センサーへの給電)に転用している。

【参考リンク】

A battery-free wireless epidermal sensor network for continuous systolic blood pressure monitoring — Nature Electronics(外部)
NUSら共同研究チームによる一次情報源。デュアルモードメタマテリアルテキスタイルの設計仕様と実験結果を掲載。

NUS iHealthtech(シンガポール国立大学 健康イノベーション&テクノロジー研究所)(外部)
本研究の主要研究機関。スマートテキスタイルを含む身体密着型センシング技術の研究グループ一覧を参照できる。

Battery-free textile turns clothing into a real-time blood pressure monitor — Tech Xplore(外部)
本研究の解説記事。論文の技術的内容を平易にまとめており、図版も確認できる。

Apple Watch Series 11(高血圧通知機能)— Apple Newsroom(外部)
現在市販されている最も普及した血圧関連ウェアラブルの公式情報。スマートテキスタイルとの比較軸として参照。

高血圧ナビ — オムロン ヘルスケア(外部)
日本の高血圧の実態・診断基準・測定方法を患者向けにわかりやすく解説。家庭血圧計の正しい使い方も掲載。

日本高血圧学会(JSH)(外部)
高血圧診療ガイドラインや患者向け情報を提供する学術団体の公式サイト。診断基準・治療目標の一次情報源。

【参考記事】

A battery-free wireless epidermal sensor network for continuous systolic blood pressure monitoring — Nature Electronics (2026)(外部)
Kurt, Kasperら著。デュアルモードメタマテリアルテキスタイルによるバッテリーレスの収縮期血圧連続計測システムを詳述した一次論文。周波数設計、センサーアーキテクチャ、運動中の計測精度データを掲載。

Battery-free textile turns clothing into a real-time blood pressure monitor — Tech Xplore (2026年4月25日)(外部)
論文の一般向け解説記事。デュアルモードメタマテリアルの仕組みと試験結果の概要をわかりやすく整理。

Apple debuts Apple Watch Series 11 featuring groundbreaking health insights — Apple Newsroom (2025年9月)(外部)
Apple Watch Series 11のHypertension Notifications機能発表。対応国・地域や機能仕様の公式情報。編集部解説の比較軸として使用。

Apple Watch Blood Pressure Alert: What to Know About Hypertension Notifications — Healthbeat (2025年10月)(外部)
Apple WatchのHypertension Notifications機能に対する医学的評価。感度(約40%)や診断上の位置づけを解説。

高血圧患者数の統計 — オムロン ヘルスケア(外部)
日本の高血圧患者約4,300万人・未認識者約1,400万人の推計データの出典。編集部解説の疫学的背景として使用。

仮面高血圧と白衣高血圧 — 日本内科学会雑誌(苅尾七臣、2007年)(外部)
仮面高血圧の有病率(未治療者10〜15%、治療中20〜25%)を示した国内論文。編集部解説の疾患背景として参照。

仮面高血圧とは? — CureApp高血圧(外部)
仮面高血圧の心血管リスクをまとめた解説ページ。編集部解説の参考資料として使用。

【編集部後記】

「身につけたことを忘れる」装置が、私たちの身体について語り始める——これまでのテクノロジーとは少し違うかたちをした関係です。能動的に計りに行く血圧から、いつのまにか測られている血圧へ。便利さに慣れた頃には、自分の身体を最もよく知っているのは自分ではないのかもしれません。シャツが血圧を計る未来を歓迎しつつ、その情報がどこへ流れ、私たちが自分の身体とどう関わり続けるのかという問いも、片隅に置いておきたいと思います。

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乗杉 海
SF小説やゲームカルチャーをきっかけに、エンターテインメントとテクノロジーが交わる領域を探究しているライターです。 SF作品が描く未来社会や、ビデオゲームが生み出すメタフィクション的な世界観に刺激を受けてきました。現在は、AI生成コンテンツやVR/AR、インタラクティブメディアの進化といったテーマを幅広く取り上げています。 デジタルエンターテインメントの未来が、人の認知や感情にどのように働きかけるのかを分析しながら、テクノロジーが切り開く新しい可能性を追いかけています。