ノースウェスタン大学のハーサム研究室が、生きた脳細胞と信号をやり取りできる人工ニューロンの印刷に成功しました。
研究成果は、2026年4月15日付で学術誌『Nature Nanotechnology』に掲載されました。研究を主導したのは同大学マコーミック工学部のマーク・C・ハーサム教授で、研究准教授ヴィノッド・K・サングワンが共同で率いました。人工ニューロンは、半導体として機能する二硫化モリブデン(MoS2)のナノスケール・フレークと、導体として機能するグラフェンから成る電子インクを、エアロゾル・ジェット・プリンティングによって柔軟なポリマー基板上に堆積させて作製されます。
ワインバーグ文理学部のインディラ・M・ラマン教授との共同研究では、マウス小脳の切片に人工ニューロンからの電気信号を印加したところ、実在のニューロンの活動が引き起こされました。脳はデジタルコンピューターより5桁エネルギー効率が高いとされており、本研究は全米科学財団の支援を受けて行われたものです。
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Printed neurons communicate with living brain cells

【編集部解説】
ノースウェスタン大学のチームが成し遂げたのは、一言でいえば「電子回路と生体神経の”言葉”をそろえた」ことです。これまでの人工ニューロンは、有機材料では信号が遅すぎ、金属酸化物では速すぎるというジレンマを抱えてきました。今回の成果の要は、実在のニューロンとタイミングも波形も重なる時間領域に、初めて到達したという点にあります。
その鍵を握るのが、二硫化モリブデン(MoS2)とグラフェンをインク化し、エアロゾル・ジェット・プリンティングという吹き付け式の技術で柔軟なポリマー基板に積層する手法です。興味深いのは、これまで不純物として焼き飛ばされてきた安定化ポリマーを、あえて部分的に残している点です。電流を流すとポリマーがさらに分解され、導電性フィラメントと呼ばれる細い電流の通り道が局所的に形づくられる——この”意図的に残した欠陥”が、生体ニューロン特有の突発的な発火(スパイク)を生み出す仕掛けになっています。
背景として押さえておきたいのが、AIの電力問題の深刻さです。国際エネルギー機関(IEA)の見通しでは、データセンターとAI関連の消費電力は2026年に約1,000TWh——日本一国分の総電力消費に匹敵する水準へ達すると予測されています。脳がわずか約20ワット、デジタルコンピューターの10万分の1(5桁分)という桁違いの効率で動作している事実は、「AIの次」のかたちを脳に学ぶほかない、という業界の焦燥感を物語っているといえるでしょう。
今回の成果は、ニューロモルフィック(脳型)コンピューティングという大きな潮流の中に位置づけられます。IntelのHala PointやIBMのNorthPoleといった既存の脳型チップは、いずれもシリコン上で脳の挙動をシミュレートするアプローチを取ってきました。対してハーサムらの研究は、柔らかいプリント素材で、しかも生体組織と物理的に信号を授受できる素子を作ったという意味で、これまでの延長線とは異なるベクトルを示しています。
応用面で最も期待されるのは、医療分野です。聴覚・視覚・運動を補うニューロプロステーシス(神経義肢)や、Neuralinkなどが取り組むブレイン・マシン・インターフェースは、いずれも「生体の信号に合わせて自然に”会話”できる電極」を必要としてきました。時間スケールと波形が本物に近い人工ニューロンは、その基盤技術となり得ます。さらに、プリント方式は大面積化や個別カスタマイズとの相性がよく、製造コストと廃棄物を同時に抑えられる環境的メリットも見逃せません。
一方で、楽観視は禁物です。今回の実験はあくまでマウス小脳切片を用いた体外(ex vivo)試験であり、生体内での長期安定性、免疫反応、埋植時の安全性などは、これから多段階の検証を経る必要があります。脳に信号を”書き込める”技術は、裏を返せば意思や認知への介入可能性を帯びるため、倫理委員会や規制当局(日本では厚生労働省・PMDAなど)がどのような枠組みを整えるのか、今後の議論の焦点となっていくはずです。
長期的に見れば、本研究は「生物と電子回路を分けてきた境界線」を静かに溶かす一歩と捉えるべきでしょう。脳型ハードウェアがエッジAIを省電力で駆動する未来、失われた感覚を取り戻す未来、そして人間の神経系と人工の神経系が協調して働く未来——その三つの道筋すべてに、今回の”通信できる人工ニューロン”は繋がっています。
【用語解説】
二硫化モリブデン(MoS2)
モリブデン原子と硫黄原子から成る層状の遷移金属ダイカルコゲナイドの一種。グラフェンと並ぶ代表的な二次元材料で、シートを極限まで薄くすると半導体として振る舞う。シリコンでは到達しにくい柔軟性や低消費電力特性を備えるため、次世代エレクトロニクスの有力候補とされる。
グラフェン
炭素原子が蜂の巣状の六角形格子を組んだ、一原子分の厚さしかない二次元材料である。非常に高い電気伝導性と機械的強度を兼ね備えるため、電極や配線に適している。
エアロゾル・ジェット・プリンティング
液体状の電子インクを極小の霧(エアロゾル)にして、ノズルから基板へ精密に吹き付ける印刷方式である。微細な配線パターンを、柔らかい基板や曲面にも描画できる点が特徴。
導電性フィラメント
絶縁性の材料の中に、電圧をかけることで局所的に形成される細い電流の通り道を指す。メモリスタ(抵抗変化素子)の動作原理の中核であり、今回の人工ニューロンでは、ポリマーの部分的な分解によってこの微細な経路が生み出される。
ニューロモルフィック・コンピューティング(脳型コンピューティング)
脳の構造や動作原理を模倣して設計されたハードウェアおよび計算アーキテクチャの総称である。現行のノイマン型(演算と記憶を分離)とは異なり、演算と記憶を一体化することで、大幅な省電力と並列処理性能の向上を目指している。
ブレイン・マシン・インターフェース(BMI)
脳の神経活動を直接読み取り、機械を制御したり、逆に外部信号を脳に入力したりする技術の総称。医療用途のほか、コミュニケーション補助、感覚補綴(ほてつ)などが主な応用領域となる。
ニューロプロステーシス(神経義肢)
失われた神経機能を電子的に代替・補完する装置の総称。人工内耳、人工網膜、運動補助のための神経刺激装置などが含まれる。
小脳
運動制御、協調運動、学習などに関与する脳の後方下部にある領域。今回の実験では、実在のニューロン応答を検証する生体モデルとして、マウスの小脳切片が用いられた。
【参考リンク】
Northwestern University News(外部)
ノースウェスタン大学の公式ニュース配信サイト。研究成果や大学関連ニュースが一次情報として発信される。
The Hersam Research Group(外部)
本研究を率いたマーク・C・ハーサム教授の研究室公式サイト。ナノ電子材料・二次元材料の研究成果が公開されている。
McCormick School of Engineering(外部)
ハーサム教授が所属するノースウェスタン大学マコーミック工学部の公式サイト。研究紹介や教員情報を掲載している。
Nature Nanotechnology(外部)
Springer Natureが発行するナノテクノロジー分野の査読付き学術誌で、本研究論文の掲載先となっている。
National Science Foundation(外部)
米国の科学技術研究を支援する連邦機関で、本研究の資金拠出元となっている。
International Energy Agency(外部)
OECD加盟国を中心とするエネルギー政策の国際機関。データセンターとAIの電力消費予測を継続的に公表している。
Intel Neuromorphic Computing(外部)
Intelが開発する脳型チップ「Loihi」「Hala Point」に関する公式情報ページ。
IBM Research(外部)
脳型AIアクセラレータ「NorthPole」などを開発するIBMの研究部門の公式サイト。
【参考記事】
Printed neurons communicate with living brain cells(EurekAlert!)(外部)
ノースウェスタン大学のプレスリリースを配信。論文掲載日が2026年4月15日、脳と電子回路の効率差が5桁であると明記されている。
Northwestern engineers create artificial neurons that communicate with living cells(外部)
医療・ライフサイエンス分野のニュースサイト。論文の正式タイトルとDOI(10.1038/s41565-026-02149-6)が掲載されている。
Printable Artificial Neurons That “Talk” to Living Brain Cells(外部)
神経科学専門ニュースサイト。筆頭著者シュレヤシュ・S・ハドケ氏を含む全著者リストと神経科学視点の解説を掲載。
Cutting AI’s Power Consumption Down to 1/100 with Neuromorphic Devices(TDK)(外部)
IEA統計を引用し、データセンターとAIの世界電力消費が2026年に約1,000TWhへ倍増すると報じている。
Neuromorphic Chips: The Game-Changing Solution for Reducing AI’s Energy Consumption(外部)
脳型チップの2026年動向を整理。従来GPU比で最大1,000倍の効率改善や、脳の約20ワット消費電力に言及。
1,000x AI Efficiency? The Neuromorphic Chips That Could Slash Data Center Energy(外部)
IntelのHala Pointが11億5,000万個の人工ニューロンを2,600ワットで動作させていると解説している。
Neuromorphic Computing 2026: How Brain-Inspired Chips Are Revolutionizing AI Energy Efficiency(外部)
人間の脳が約20ワットで高度な認知処理を行う事実を基準に、脳型チップ開発の意義を解説している。
【関連記事】
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オランダのスタートアップInnateraによるSpiking Neural Processor T1。脳型コンピューティングの基礎概念を知るのに適した入門的記事。
【編集部後記】
「人工のニューロンが、生きた脳細胞と”会話”する」——このニュースを最初に目にしたとき、みなさんはどんな未来を思い描かれたでしょうか。医療の現場で失われた感覚を取り戻す道具でしょうか、それともAIが電力の壁を越えるための新しい礎でしょうか。
生物と電子回路の境目が少しずつ溶けていく時代に、私たち人間と機械の関係はどう変わっていくのか。この問いに”正解”はまだ存在しません。みなさんが感じた期待や、ふと心をよぎった戸惑いを、ぜひ一緒に考えさせてください。innovaTopia編集部も、答えを探している途中です。











