復旦大学のテルル・ナノワイヤー人工網膜は「動物試験段階の研究」として語られがちです。しかし、同じ研究グループが第1世代の人工光感受器で2023年5月に世界初のヒト植入手術を既に成功させていたという事実は、この技術の現在地を読み直すうえで決定的な情報です。Argus IIが残した持続可能性の課題、Neuralink Blindsightが進める皮質側アプローチに対し、復旦テルル版がどのような第三の道を提示しているのか——いま改めて整理します。
復旦大学の合同研究グループ(集成電路・微纳電子創新学院/College of Integrated Circuits and Micro-Nano Electronics・周鹏/王水源チーム、脳科学研究院・張嘉漪/顔彪チーム、中国科学院上海技術物理研究所・胡偉達チーム)が開発したテルル・ナノワイヤー網膜下人工網膜(TeNWNs)は、可視光から近赤外II区(470〜1550nm)までを電気信号へ変換し、外部電源なしに自家発電する広スペクトル網膜假体である。盲目マウスでの視覚機能回復とカニクイザル(Macaca fascicularis)での生体適合性が確認され、2025年6月『Science』誌に成果が掲載された。同研究グループは第1世代人工光感受器(金-酸化チタン・ナノワイヤー)で2023年5月に世界初のヒト植入手術を実施しており、第2世代テルル版はその発展形にあたる。
同チームは、自然の視細胞と同様に光のみで電気信号を生成するパッシブデバイスとして本人工網膜を設計しました。テルルは半導体特性に優れ、可視光から赤外光までの広帯域を吸収できる希少元素であり、線径約150nmのナノワイヤーを編んだ網状構造として網膜下に微創植入されます。盲目マウスでは、臨床安全閾値の約80分の1の弱光でも視覚誘導学習行動が確認され、カニクイザルでは植入後の網膜由来神経応答と生体適合性が示されました。
本記事は、感覚拡張という分野の文脈の中で、本研究を位置付けるものです。Argus II(Second Sight)に始まる「失われた視覚を取り戻す医療」、Neuralink Blindsightが目指す「視覚野への直接介入」と並ぶ、第三のアプローチとしての網膜下假体技術の到達点を、対比構造の中で読み解きます。
From:
Tellurium nanowire retinal nanoprosthesis improves vision in models of blindness — Science (2025)
【訂正(2026年4月20日)】本記事のタイトル・リード・ニュース概要および編集部解説の構成を訂正しました。初稿は感覚拡張全般を扱う多テーマの一次情報源(Communications of the ACM)をもとに解説していましたが、「復旦大学の人工網膜」を主題とする記事に再構成しています。あわせて、復旦研究グループが第1世代人工光感受器(金-酸化チタン・ナノワイヤー)で2023年5月に世界初のヒト植入手術を実施していた事実が記載漏れだったため、編集部解説および参考リンクに反映しました。
【追記(2026年4月20日)】復旦大学・人工網膜の最新進展について、(1)第1世代人工光感受器でのヒト初植入手術(2023年5月)、(2)テルル版(第2世代)の現時点の追跡データ、(3)ヒト臨床試験の見通しと残課題、の3点を追記しました。詳細は編集部解説をご覧ください。
【編集部解説】
この研究を今、innovaTopiaとして取り上げ直す意義は、感覚拡張という分野が「失われた機能を取り戻す医療」から「人間の能力そのものを設計し直す技術」へと静かに軸足を移しつつある、その転換点に位置する代表事例だからです。さらに、後述するように同研究グループが第1世代で既にヒト臨床に到達していた事実が、テルル版(第2世代)の意味を事後的に書き換えるタイミングでもあります。個別の新製品発表ではなく、分野全体の構造変化を読み解く視点で本研究の意味を整理します。
テルル・ナノワイヤー人工網膜が示した三つの技術的飛躍
本研究の中核は、テルル(Te)という半導体特性を持つ希少元素でナノワイヤーのネットワークを編み、視細胞が失われた網膜下に埋め込んだ点にあります。この素材は自ら発電するため外部電源が不要で、可視光に加えて最大約1550nmの近赤外II区まで電気信号へ変換できます。論文は2025年6月『Science』誌に掲載され、盲目マウスでは視覚誘導学習の成立、カニクイザルでは網膜由来神経応答と生体適合性が確認されています。従来の網膜假体が抱えていた「外部電源装置の煩雑さ」「波長帯の狭さ」「植入の侵襲性」という三つの壁を、一つの素材設計で同時に越えようとした点に、技術史的な意義があります。
同じ研究グループは、第1世代で既にヒト臨床に到達している
本研究を「動物試験段階」とのみ理解すると、文脈を取り違えます。復旦大学の張嘉漪研究員を中心とする同一研究グループは、第1世代の人工光感受器(金-酸化チタン・ナノワイヤー、Au-TiO₂ NW)で、2023年5月に世界初のヒト植入手術を既に成功させているからです。第1世代の論文は2024年に『Nature Biomedical Engineering』誌(8, 1018–1039)に発表され、復旦大学附属眼耳鼻喉科医院で姜春晖教授が執刀した手術では、原発性網膜色素変性症で完全失明していた60代男性患者が、植入後に床上の物体を識別し、白い誘導線に沿った歩行課題を完了したことが報告されています。倫理委員会には、7匹のサルで1年以上の植入実験データが提出されていました。
つまり、復旦の研究は「テルル版が動物段階、Argus IIだけが臨床済み」という時系列ではなく、第1世代の臨床経験を踏まえた上で、第2世代テルル版の技術飛躍を狙っていると理解する必要があります。第2世代では、第1世代の紫外〜緑光域から、可視光全域+近赤外II区へと帯域が大きく拡張され、自家発電性能も飛躍的に高まりました。
テルル版(第2世代)の現時点ステータスと残課題
張嘉漪は2025年7月のインタビュー(bionic-vision.org)で、テルル版についてカニクイザルにおける4ヶ月間の追跡で炎症・拒絶反応・網膜剥離・新生血管のいずれも観察されなかったと述べています。マウスの網膜神経節細胞の受容野マッピングからは、ヒトに換算した場合の角度分解能は約10〜15度と推定されており、これは大きな物体や輪郭の検出には十分な水準です。一方、第2世代のヒト臨床試験は近い将来には予定されておらず、長期的な機械的・電気的安定性、テルルイオンの生体内での挙動と安全な代謝・排出経路の確認が残課題として挙げられています。低侵襲化のための注射可能なナノワイヤー懸濁液や、植入後の皮質再教育プロトコル(ニューロフィードバックやVRトレーニング)の整備も、今後の研究課題に位置付けられています。
対比構造:Argus II / Neuralink Blindsight / 復旦テルル版
本研究の意味は、過去・現在・未来を貫く三つのアプローチの対比のなかで、より明瞭になります。
Argus II(Second Sight、米国)は2013年に米FDAの承認を取得し、世界で350人以上の重度視覚障害者に埋め込まれた、網膜上電極アレイ型の人工網膜です。しかし開発元Second Sightの財務悪化により2019年に販売終了、2020年にはサポートも実質停止し、体内のデバイスが「まだ動くのに修理できない」状態に取り残される利用者が生じました。最先端医療機器の持続可能性というテーマは、感覚拡張産業がビジネスモデルとして何を担保すべきかを問い直す材料となっています。
Neuralink Blindsight(米国)は、眼や視神経が失われた患者に対しても視覚を回復させることを目指し、視覚野(後頭葉)に電極を直接埋め込む皮質側アプローチを採用しています。FDAのBreakthrough Device指定を取得し、2026年に初の臨床試験を開始する見通しです。ただし、皮質を直接刺激することと、脳が「見えた」と知覚することの間には、依然として科学的な断絶が存在し、解像度よりむしろ「皮質可塑性をどう設計に組み込むか」が技術上の本質的な課題とされます。
復旦テルル版(中国)は、これらに対して「網膜下に置かれた光発電ナノワイヤー網が、残された網膜回路を活用する」という末梢側アプローチです。網膜回路自体が一定程度生きている網膜色素変性症などの患者を対象とし、外部電源不要・自家発電・近赤外対応・微創植入という設計思想で、Argus IIが残した持続可能性の問題と、Neuralinkが直面する皮質可塑性の問題のいずれも構造的に回避する余地を持ちます。第1世代でヒト臨床経験を蓄積している点で、Argus II・Neuralinkとは異なる位置にいます。
「AIが拡張時代の触媒」という観点
テルル版が示した広帯域・高感度はハードウェア側の到達点ですが、感覚拡張全体を見渡すと、もう一つの大きな潮流として「センサーから脳に届く前段階で、深層学習がシーンの意味単位を抽出する」というAIレイヤーの台頭があります。電極の細密化やチャネル数の増加に加え、脳に何を届けるかという知覚科学の問いが前面に出てきている点が、Argus II時代との違いです。テルル人工網膜のような自家発電パッシブデバイスは、エッジAIとの組み合わせ余地を残している点でも注目に値します。
ポジティブな射程と、三層のリスク
拡張技術の特徴の一つは、感覚障害を持たない人々にまで恩恵が広がりうる点です。近赤外への対応は、夜間視認、熱源検知、医療画像の直接知覚といった応用余地を生み、健常者を含めた市場を持ちます。一方で、潜在的リスクは大きく三つの層に分かれます。第一に、生体適合性と長期安全性──テルルイオンを含むナノ素材が数十年単位で網膜下に残存した場合の影響は、いずれの既存研究も十分な年数のデータを持ちません。第二に、ベンダーロックインと廃止リスク──Argus II問題が示したように、患者の体内に残った廃盤デバイスをどう扱うかという制度設計が世界的に未整備のままです。第三に、神経データのプライバシー──網膜信号や視覚皮質の応答データが第三者に渡る事態をどう規制するかは、現行の個人情報保護法制の範囲を超える論点です。
道具が身体の内側に入る段階へ
人類はこれまで、道具を身体の外側に配置することで能力を拡張してきました。眼鏡、望遠鏡、補聴器、スマートフォン。しかし感覚拡張は、道具が皮膚の内側に入り、神経回路とともに知覚を生成する段階に入っています。
【用語解説】
感覚拡張(Sensory Augmentation)
人間の既存の感覚を「増強」する、あるいは本来持たない感覚情報へのアクセスを「拡大」する技術領域。失われた感覚を取り戻す「復元」とは区別されるが、近年その境界は薄れつつある。
網膜下植入(Subretinal Implantation)
網膜の感覚層下にデバイスを設置する手術手法。網膜上型(epiretinal)と異なり、光を電気信号へ変換した後、残された網膜回路(双極細胞、神経節細胞)を経由して視覚情報を脳へ伝える。
テルル(Tellurium / Te)
原子番号52の半導体特性を持つ希少元素。光を吸収し電気信号へ変換する光電特性に優れ、近赤外II区(最大約1550nm)まで感知可能な点で、復旦大学の人工網膜素材に採用された。
テルル・ナノワイヤー網状構造(Tellurium Nanowire Networks: TeNWNs)
線径約150nmのテルル製ナノワイヤーを互いに編み合わせて作る網状構造。レーザーで切り出した小片を網膜下に複数配置することで、必要範囲を覆う設計。
近赤外II区(Near-Infrared II / NIR-II)
波長約1000〜1700nmの赤外領域。生体組織の光散乱が少なく、医用イメージングや暗視応用で注目されている帯域。可視光(〜780nm)より波長が長く、人間の肉眼では見ることができない。
網膜色素変性症(Retinitis Pigmentosa: RP)
遺伝的要因により網膜の視細胞が徐々に変性する進行性疾患。世界で150万人以上の患者が存在するとされ、復旦研究グループの第1世代臨床手術の対象疾患となった。
神経プロテーゼ(Neural Prosthesis)
神経系と電気的にインターフェイスを取り、失われた機能を補う、あるいは拡張する人工装置の総称。人工内耳、人工網膜、ブレイン・コンピュータ・インターフェイス(BCI)などが含まれる。
脳可塑性(Neuroplasticity)
学習や経験に応じて脳の神経回路が再編成される性質。感覚拡張デバイスが成功するには、この可塑性を活かしつつ、脳の状態変化にも追従する「動的な」設計が求められる。
FDA Breakthrough Device指定
米食品医薬品局(FDA)が、生命に関わる疾患の治療において既存手段を上回る可能性がある医療機器に与える指定制度。審査プロセスが優先され、承認までの期間短縮が図られる。Neuralink Blindsightが取得済み。
【参考リンク】
Science誌掲載論文(Wang et al., 2025)(外部)
復旦大学・周鹏/王水源/張嘉漪らによるテルル・ナノワイヤー網膜下人工網膜の原著論文。
Fudan University公式リリース(英語)(外部)
テルル人工網膜研究の発表に関する復旦大学公式英語ニュース。研究背景と意義の解説。
復旦大学公式リリース(中国語)(外部)
テルル人工網膜研究の発表に関する復旦大学公式中国語ニュース。技術的詳細と共著チームの構成を網羅。
Fudan University公式(第1世代・ヒト初臨床)(外部)
2023年5月に実施された第1世代人工光感受器(Au-TiO₂ NW)の世界初ヒト植入手術と患者の視覚機能回復に関する公式記事。
張嘉漪インタビュー(bionic-vision.org)(外部)
テルル版の研究主導者・張嘉漪が、生体適合性データ・空間分解能の推定・残課題について語ったインタビュー。
The New Era of Sensory Augmentation — Communications of the ACM(外部)
感覚拡張分野の動向を多面的に整理したACM機関誌の解説記事。本記事の文脈把握の一助となる総説的論考。
Cortigent(外部)
Argus IIおよび視覚野プロテーゼOrionの技術を2023年に承継した米国企業の公式サイト。
Neuralink(外部)
米国のBCI開発企業。視覚野に直接書き込む「Blindsight」を開発中で、2026年に臨床試験開始予定。
【参考記事】
Tellurium nanowire retinal nanoprosthesis improves vision in models of blindness(PubMed)(外部)
復旦大学テルル人工網膜の原著論文書誌情報。盲目マウスとカニクイザルでの視覚回復と近赤外光応答を報告。DOI: 10.1126/science.adu2987。
Retinal prosthesis woven from tellurium nanowires partially restores vision in blind mice(Phys.org)(外部)
テルル人工網膜研究成果の紹介記事。外部電源不要で近赤外光にも反応する点を詳述。
Fudan University enables blind mice to see like the Predator(NotebookCheck)(外部)
復旦人工網膜が最大2000nm近傍の近赤外光まで電気信号へ変換できる点を技術的に解説した記事。
China Focus: Retinal implant offers hope for blind, extends vision to infrared(Xinhua)(外部)
新華社による発表当日の英語報道。ナノワイヤー網が従来比約10倍薄い点と、可逆的な微創手術の利点を強調。
Their Bionic Eyes Are Now Obsolete and Unsupported(IEEE Spectrum)(外部)
Argus IIを埋め込んだ350人以上の患者が事業停止により修理不能となった問題を調査した報道。
Neuralink’s Blindsight Implant Won’t Deliver Natural Sight(IEEE Spectrum)(外部)
NeuralinkのBlindsightについて専門家の見解をまとめた検証記事。FDA指定と科学的実態の距離を検討。
【関連記事】
Neuralink「Blindsight」、2026年に初の臨床試験開始へ──視覚野刺激で失明患者の視覚回復を目指す
本記事で比較対象として触れたNeuralink Blindsightの人体試験開始ニュースを単独で詳報。視覚野への直接介入という皮質側アプローチの最新動向。
脳インプラントが開く未来:視覚障害への光となる技術「視覚プロテーゼ」の進展
視覚プロテーゼ分野の基礎を解説した2024年の前段記事。本記事はこの2年後のアップデートとして位置付けられる補完関係にある。
Cochlear、体内で進化する人工内耳「Nucleus Nexa」発表──40年稼働するエッジAI医療機器の実現
本記事で感覚復元の最大成功例として触れた人工内耳の、AI搭載による最新進化を詳報。「AIが拡張時代の触媒」という論旨を補強する実例。
【編集部後記】
「動物試験段階」と「ヒト臨床済み」では、読者が抱く印象は大きく異なります。本記事の初版では復旦の研究を前者として伝えていましたが、同じ研究グループは2023年に第1世代の人工光感受器でヒト臨床手術を既に成功させていました。第2世代テルル版を語るうえで欠かせない文脈が、編集部の確認不足で抜け落ちていたのです。
この事実は、中国語圏のメディアでは2023〜2025年にかけて継続的に報じられてきました。一方、英語圏のメディアでは2025年の第2世代テルル版が中心的に扱われ、第1世代でのヒト臨床事実は背景に退きがちです。日本語のメディアが英語の二次情報を起点にすると、この情報非対称性がそのまま日本語圏に持ち込まれることになります——本記事の初版は、まさにその構造に陥っていました。
ニュースは、同じ事実を扱っても、どの文脈に置くかで意味が変わります。今回の更新は、その文脈の取り直しでした。論文単位ではなく研究グループ単位で軌跡を追うこと、技術の発信元である言語圏の一次情報にも積極的に当たること——これらを編集フローに組み込み、似た取りこぼしを防いでいきます。












