AIがノーベル賞を獲った2024年。そして北川進氏らが開拓した多孔性材料MOF(金属有機構造体)が、長年の「本命」からついに「受賞」へと変わった2025年。化学賞はこの2年間で、時代の最先端と、数十年にわたる基礎研究の積み重ねの両方に光を当てました。
では、2026年はどこに光が当たるのでしょうか。本稿ではノーベル賞の仕組みと今年のスケジュールを確認したうえで、直近10年の受賞歴から選考の「流れ」を読み解き、その延長線上にある候補を考察します。
ノーベル賞とは──「最も重要な発見または改良」を称える賞
ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベル(1833〜1896年)の遺言に基づき、1901年から授与されている国際的な賞です。物理学・化学・生理学医学・文学・平和の5部門に加え、1968年にスウェーデン国立銀行が創設した経済学賞があります。
ノーベルは遺言のなかで、化学賞を「最も重要な化学上の発見または改良(discovery or improvement)をなした者」に贈るよう定めました。「発見」だけでなく「改良」が含まれている点は、後半で考察する「プロダクト受賞」を考えるうえで重要な手がかりになります。
化学賞の選考は、スウェーデン王立科学アカデミーが担い、実務は同アカデミーのノーベル化学委員会が行います。主な流れとルールは次のとおりです。
- 推薦:委員会が前年秋に招待した研究者(大学教授や過去の受賞者など)だけが推薦でき、締切は毎年1月31日です。自薦は認められていません。
- 選考:2月に委員会が推薦を審査して予備候補を選び、3〜5月に専門家の評価を受けます。6〜8月に委員会が推薦報告書をまとめ、10月初めにアカデミーが多数決で受賞者を決定し、その直後に発表します。
- 非公開の原則:推薦者や候補者の情報は50年間公開されません。つまり、あらゆる予測は外部からの推測にとどまります。
- 最大3人・故人には授与しない:1部門の受賞者は3人までです。また発表時点で存命していることが条件です。多くの研究者が関わった分野では「誰に贈るか」が選考の難所になります。
- 賞金と授賞式:2025年の賞金は1部門あたり1,100万スウェーデン・クローナでした。授賞式はノーベルの命日にあたる12月10日にストックホルムで行われます(平和賞のみオスロ)。
もうひとつの特徴は、成果から受賞までの「時間差」です。吉野彰氏のリチウムイオン電池の原型は1985年、受賞は2019年です。北川進氏がMOFのガス吸蔵を報告したのは1997年で、受賞は2025年でした。ノーベル賞は、成果が社会や学問に与えたインパクトを数十年かけて見届ける賞だといえます。
2026年のスケジュール──化学賞は10月7日(水)18時45分以降
2026年の化学賞は、日本時間10月7日(水)18時45分以降に発表されます。ノーベル財団が2月に公表した日程は次のとおりです(ノーベル財団のプレスリリース)。

化学賞はストックホルムのスウェーデン王立科学アカデミーで発表され、公式チャンネルでライブ配信されます。「以降」とあるとおり、選考の長引きによって発表が遅れることもあります。授賞式は例年どおり12月10日です。
直近10年の化学賞──「手法」「構造」「計算」が並ぶ
直近10年の化学賞は、新しい「手法」と新しい「構造」の開発が大半を占めています。化学賞は1901年から2025年までに117回、延べ200人に授与されてきました。そのうち直近10年分を整理すると次のとおりです(分類は本稿によるもの)。

出典:All Nobel Prizes in Chemistry(NobelPrize.org)。「/」は賞が2つの成果に分けて贈られたことを示します。
2024年は「AI」、2025年は「長年の本命」
2024年:化学賞と物理学賞をAIが同時に制した年
2024年は、AIが自然科学2部門で同時に評価された歴史的な年でした。化学賞はGoogle DeepMindのデミス・ハサビス氏とジョン・ジャンパー氏が、タンパク質構造予測AI「AlphaFold」で受賞しました。アミノ酸配列から立体構造を高精度に予測するという、約50年来の難題を解いた成果です。同時に、計算によって自然界にないタンパク質を設計したデイヴィッド・ベイカー氏も受賞しています。
前日の物理学賞では、ジョン・ホップフィールド氏とジェフリー・ヒントン氏が受賞しました。評価されたのは、統計物理学の考え方を取り入れた「ホップフィールド・ネットワーク」と「ボルツマンマシン」です。いずれも今日の深層学習の源流にあたる研究です。
この年の選考は、ノーベル賞が「実験による発見」だけでなく、「計算とソフトウェアによる科学の方法そのものの変革」を評価対象に含めたことを示しています。
2025年:北川氏らのMOFが「本命」から「受賞」へ
2025年の化学賞は、京都大学の北川進氏、メルボルン大学のリチャード・ロブソン氏、カリフォルニア大学バークレー校のオマー・ヤギー氏に贈られました。授賞理由は「金属有機構造体(MOF)の開発」です。
MOFは、金属イオンと有機分子を組み合わせてつくる、微細な穴を無数に持つ結晶性材料です。少量でも内部の表面積が極めて大きく、二酸化炭素の回収、砂漠の空気からの水の採取、有毒ガスの貯蔵などへの応用が進んでいます。北川氏は長年にわたって有力候補として名前が挙がり続けてきた研究者です。日本人の化学賞受賞は2019年の吉野彰氏以来でした。
つまり直近2年は、「時代を象徴する最新の成果」と「数十年の時を経て評価が固まった成果」が交互に選ばれた形です。では、この流れは2026年にどうつながるのでしょうか。
10年の受賞歴から読む、3つの手がかり
①「合成」からの受賞がそろそろありそう
直近10年のうち5年は、「世の中になかった分子や材料をつくる」成果に贈られています。分子マシン(2016年)、不斉有機触媒(2021年)、クリックケミストリー(2022年)、量子ドット(2023年)、MOF(2025年)です。
生化学や計算科学との境界が広がるなかでも、「つくる学問」としての化学の核心は、選考で安定して評価され続けているといえます。しかもその対象は、有機化学、超分子化学、ナノ材料、錯体化学といった幅広い分野にまたがっています。この傾向が続くなら、2026年もいずれかの分野から「合成」の成果が選ばれる可能性は十分にあります。
②有機合成の方法論は2022年以降、間が空いている
有機合成の方法論への受賞は、2022年のクリックケミストリーを最後に途絶えています。その後はナノ材料(2023年)、計算生化学(2024年)、錯体・材料化学(2025年)と続きました。
歴史を遡ると、有機合成の方法論は一定の間隔で受賞してきました。不斉触媒反応(2001年、野依良治氏ら)、メタセシス反応(2005年)、パラジウム触媒クロスカップリング(2010年、鈴木章氏・根岸英一氏ら)、そして2021年、2022年です。2010年から2021年のように10年以上空いた例もあるため周期性は断定できません。ただ、2026年は前回から4年目にあたります。有機合成に順番が回ってきてもおかしくない時期だといえます。
③2020年代にはまだ「プロダクト」への受賞がない
2020年代の化学賞は、手法(2020〜2022年)、新しい構造(2023年、2025年)、ソフトウェア(2024年)に分けられます。一方で、社会に広く普及した「製品(プロダクト)」そのものを対象とした受賞はまだありません。
直近の例は2019年のリチウムイオン電池です。さかのぼれば2000年の導電性高分子(白川英樹氏ら)、物理学賞では2014年の青色LEDもあります。先述のとおり、ノーベルの遺言は「発見」だけでなく「改良」も評価対象に含めています。人類の暮らしを具体的に変えたプロダクトは、数年おきに選考の中心に戻ってきます。
なお、2023年の量子ドットはディスプレイに実装されています。ただし授賞理由はあくまで「発見と合成」でした。製品そのものの開発が評価された2019年とは性格が異なります。
この3つの手がかりから、本稿では①②に該当する「カーボンナノチューブ」と「C–H活性化」を本命に、個人的に「ペロブスカイト太陽電池」を挙げさせていただきます。
①カーボンナノチューブ(CNT)──「炭素ナノ材料の最後のピース」
カーボンナノチューブ(CNT)は、炭素原子が筒状に並んだ直径数ナノメートルの物質です。本命に挙げる最大の理由は、発見から30年以上を経て、その応用が量子技術から電池まで広がり続けている点にあります。
発見の歴史と「空席」
1991年、NECの飯島澄男氏は電子顕微鏡観察で多層CNTの構造を明らかにし、『Nature』誌に報告しました。1993年には、飯島氏らとIBMのドナルド・ベスーン氏らが、単層CNTの合成をそれぞれ報告しています。
炭素ナノ材料の歴史を振り返ると、フラーレンは1996年に化学賞、グラフェンは2010年に物理学賞を受けています。その間をつなぐCNTだけが、まだノーベル賞の対象になっていません。
さらに興味深いのは、飯島氏が2008年にナノサイエンス分野のカブリ賞を受賞した際の共同受賞者が、ルイス・ブルース氏だったことです。ブルース氏は2023年に量子ドットでノーベル化学賞を受賞しました。ナノ材料の「発見と合成」が評価された前例がすでにあることは、CNTにとって追い風です。
いまも広がり続ける応用
CNTは「夢の素材」と呼ばれた時期を越え、すでに多くの分野で実際に使われ始めています。
- 量子コンピュータ:フランスのスタートアップC12 Quantum Electronicsは、パリ高等師範学校(ENS)の物理学研究室から2020年にスピンオフしました。同社は、炭素の同位体「炭素12」だけでつくった超高純度のCNTを基板から浮かせて配置し、その中に閉じ込めた電子のスピンを量子ビットとして使います(技術解説)。周囲のノイズから隔離された「真空中の単一スピンに最も近い状態」をつくれる点が強みです。同社は2033年までに実用的な誤り耐性量子コンピュータを実現するロードマップを掲げています(公式サイト)。
- 蓄電池:リチウムイオン電池の電極に加える導電助剤として、電気自動車(EV)向けを中心に大量に使われています。
- 半導体:シリコンに代わるトランジスタ材料として研究が進み、2019年には米マサチューセッツ工科大学(MIT)がCNTトランジスタで16ビットのマイクロプロセッサを試作しています。
- 光触媒・複合材料:光触媒との複合化による活性向上、軽量・高強度の複合材料、透明導電膜、センサーなど、研究例は枚挙にいとまがありません。
ノーベル賞が「ひとつの物質や概念が、どれほど大きな波及効果を生んだか」を評価する賞であるなら、CNTはその条件を十分に満たしているといえます。
②C–H活性化──「クロスカップリングの次」を拓いた有機合成
C–H活性化は、有機合成の「設計図の描き方」そのものを変えた概念です。有機合成の受賞が2022年から途絶えているいま、最も有力な候補のひとつだと本稿は考えます。
「最もありふれた結合」を直接つなぎ替える
炭素と水素の結合(C–H結合)は、有機分子に最も多く含まれる結合です。しかし安定で反応しにくく、狙った場所だけを選んで変換することは長く困難とされてきました。
2010年に受賞したクロスカップリングは、医薬品や液晶材料の製造を一変させました。ただし、あらかじめ原料にハロゲンやホウ素を導入しておく「下準備」が必要です。C–H活性化はこの下準備を省き、C–H結合を直接、炭素–炭素結合や炭素–窒素結合などに組み替えます。工程数と廃棄物を減らせるため、グリーンケミストリーの観点からも重要です。
受賞が有力視されるのは海外の開拓者たち
C–H活性化の受賞候補として最も名前が挙がるのは、金属錯体によるC–H結合の切断そのものを切り拓いた海外の研究者たちです。分野の源流は、1969〜72年に旧ソ連のアレクサンドル・シロフ氏が発見した、白金錯体によるアルカンの活性化(シロフ系)にさかのぼります。
ノーベル賞予測で知られるクラリベイトは2017年、「C–H官能基化への決定的な貢献」として、ロバート・バーグマン氏、ジョン・バーコー氏、ゲオルギー・シュルピン氏の3人を引用栄誉賞に選びました(Chemistry World)。
ウルフ賞は、化学分野でノーベル賞に次ぐ権威があるとされる賞です(ウィスコンシン大学)。
2010年のクロスカップリングも、多くの貢献者のなかから3人が選ばれました。ただし基礎的発見の候補には高齢の研究者が多く、バーグマン氏は1942年生まれ、バーコー氏は1944年生まれです。故人には授与しないというルールも、選考の時期を左右する要素になります。
ペロブスカイト太陽電池──「プロダクト受賞」の最有力候補
2020年代にまだない「プロダクトへの受賞」があるとすれば、その筆頭はペロブスカイト太陽電池だと考えます。2019年のリチウムイオン電池が「蓄える」技術だったのに対し、こちらは「つくる」技術です。
日本で生まれ、世界で育った技術
ペロブスカイト太陽電池の原点は、2009年に桐蔭横浜大学の宮坂力氏らが発表した論文です。ハロゲン化鉛ペロブスカイトという結晶を発電材料に使い、変換効率は3.8%でした。
2012年には、韓国・成均館大学の朴南圭(パク・ナムギュ)氏らや、英オックスフォード大学のヘンリー・スナイス氏らが固体型のセルを開発しました。効率は約10%に跳ね上がり、世界的な研究競争が始まります。宮坂氏、朴氏、スナイス氏の3人は、2017年にクラリベイトの引用栄誉賞に選ばれています(Chemistry World)。2025年には、物質・材料研究機構(NIMS)の「NIMS Award」も共同受賞しました。ノーベル賞予測と国内の主要な賞という2つの評価が、そろって同じ3人を選んでいます。ノーベル賞で3人を選ぶ場合の、有力な目安といえるでしょう。
それから約14年。シリコンと重ねたタンデム型セルでは、2026年7月に中国LONGiが変換効率35.5%の認証記録を発表しました(pv magazine)。単一接合の太陽電池の理論限界とされるショックレー・クワイサー限界(約33.7%)をすでに上回っています。ただしこれは小面積の研究用セルの記録であり、量産製品の数値ではない点に注意が必要です。
「化学」であり「プロダクト」であること
ペロブスカイト太陽電池は、溶液を塗って乾かすだけで発電層をつくれます。薄く軽く曲げられるため、ビルの壁面や窓、耐荷重の小さい屋根など、従来のパネルを置けなかった場所にも設置できます。
素材の組成設計、結晶成長の制御、界面の化学修飾など、性能向上の多くは化学の力によるものです。吉野彰氏らのリチウムイオン電池が化学賞で評価されたように、「材料化学が生んだエネルギーデバイス」として化学賞の文脈に乗りやすい技術だといえます。
日本にとっての意味も大きなものです。主原料のひとつであるヨウ素は、日本が世界有数の生産量を誇る資源です。政府はペロブスカイトを次世代太陽電池の柱と位置づけ、積水化学工業などがフィルム型の量産に向けた投資を進めています。
「構造」「手法」「プロダクト」、どの層に光が当たるか
ノーベル賞は、過去の成果を称える賞であると同時に、科学界が「何を人類の転換点とみなすか」を示す表明でもあります。今年の答えは、日本時間10月7日(水)18時45分以降に明らかになります。予測が当たるにせよ外れるにせよ、その選考が映し出す「次の時代の化学」の姿を、読者の皆さまとともに見届けたいと思います。
















